柳さんによると9
朝起きると、六時だった。昨日は結局、十二時半から一時くらいに寝たから、五時間ほどしか眠っていない。
年を取ると、そう長い時間は眠れないようで、柳さんは起き上がってコンビニで買っておいたパンをかじった。
枕元に置いてある雑誌を読みながら、時間を潰す。
九時まで、尾形さんを待たなければいけないと思うと退屈だった。自分一人ならどこかへ飲みに行くことができた。
仕事のない日にホームレスが溜まって酒盛りをしている場所を、柳さんはいくつか思いうかべることができた。
日野さんに昨晩のことを伝えると「だから、あんなところに住むのはよせと言ったんだ」と𠮟られるかもしれない。
しかし、日野さんのことだから、意外にも合理的に状況を説明してくれるんじゃないかという期待があった。
「少しだけ散歩に行くか」
柳さんは寝床でゴロゴロしていたが、ついにじっとしていられなくなって飛び出した。
エントランスを通ったときに、ぱっとゲームコーナーの方を見たが、死体らしいものは見当たらなかった。
駐車場を出て、敷地内から外に出た。橋の対岸にある住宅地の方に足を向ける。
コンビニにたどり着くと、水と缶ビールとパン、つまみ、雑誌を買った。
〇州極楽ホテルの敷地内に戻ってきたのは九時の少し前で、駐車場の片隅に腰を下ろしてぼんやりしていると、すぐに尾形さんの車が現れた。
「おはようございます」
車を止めると尾形さんがそう言って出てきた。
「すまないね。朝早くから」
「いえ、やっぱりなんか引っかかってたんでしょうね。ぼくも早くに目が覚めちゃいましたよ」
二人は廃墟の中へと入った。
朝になると窓から陽の光が差し込み、中の雰囲気は一変する。
夜になると不気味でこの上ないだけだが、昼間は夜ほど怖くない代わりに、そこに不潔による不快感が加わってくる。
後ほど話すことになるだろうが、実は私も一度だけ〇州極楽ホテルを訪れたことがある。柳さんに連れられて、実際にそこで何があったのかを実感しようと思って行ったのだ。
そのときに私が見たのも〇州極楽ホテルの昼の顔だった。
私は肝試しに興味はなかったし、おどろおどろしい光景を楽しむ気にはなれなかった。
そのときに私が見たのは、とても寂しい光景だった。
何もかもが時間が止まったように打ち捨てられており、部屋の壁はあちこち剥がれていてアスベストの心配がないかと不安になってくる。
宴会場の襖は外されたまま傾いており、あちこちから何やらよく分からない電気コードが伸びている。
そして、瓶ビールのカゴがひっくり返った隣に、プラスチック製の観音菩薩の首がちぎれている。
そのとき二人が見たのも、同じものだったのだろう。
「なにもありませんね……」
尾形さんが言った。
「そうだね……」
ゲームコーナーはそれほど探す場所も多くはない。一階部分を端から端まで見て回り、二人は階段の前で立ち止まった。
「二階も見てみますか?」
「二階にあると思うかね?」
「死体を解体するには水回りの方がいいでしょう」
「どっちにしろ水は出ないけどね」
柳さん自身、何を信じて良いか分からなくなってきた。
二人は二階に上がって、浴室を覗いた。こちらも割れたタイルと風呂桶が散乱しており、水の抜けた浴槽が奇妙に感じられたことだろう。
トイレを覗き、洗濯室を覗いたところで、二人は廊下に戻った。
「二階なんて初めて来ましたよ」
「俺も初日に見て回ったきりだ。見て楽しいものじゃない」
「肝試しに来る若者は一体何を期待してくるんですかね。こんなんでも冒険した気になるんでしょうか?」
「俺には分からないよ」
「僕にもさっぱりですね」
二人はそう言って階段の前で立ち止まった。
「それで、どうします? 三階も行きます? 四階、五階、六階。全部の部屋を見て回ります?」
尾形さんは暗にここでやめておこうと言っていた。
「いや、もうじゅうぶんだ。ここより上は何もない。客室があるだけだ」
「みたいですね」
柳さんは尾形さんに向き直った。
「悪かったね。おかしなことを言って脅かしてしまった。本当に見たんだけど、死体がないんじゃ、俺がおかしかったと思われても仕方ない。現に少し飲んでいたしね。酔うほどではなかったつもりなんだが……」
「そう謝らないでください。こんな怖いところに住んでいるんですから、神経質になりますよ」
「そう言ってくれると救われるよ」
「やっぱりもう少しマシなところに住むことはできないんですか?」
「あんただってもう少しマシなところで釣りをしたらどうだい?」
柳さんはそう言って笑った。
「ふふふ、お互いさまですね。ぼくは絶対にヌシを釣りますよ。そいつの正体さえ確認出来たら、別に良いんですけどね。釣れる魚だってそう代わり映えはしませんし」
「だろうね」
「それでも、釣ってみたくなるのが釣り人っていうやつなんですよ。魚図鑑で分布図を見れば、大体、このあたりならこんな魚って分かるんです。だけど、それじゃあ面白くない。実際に糸を垂らして、その魚が浮き上がってきたときには、それがたとえ珍しくもなんともない魚でもうれしいんです」
「まあ、分かる気がするよ」
尾形さんはそんなことを語りながら駐車場に戻った。
「今日はどうするんです?」
「昼から、飲みに行くかな。どこかで仲間が一杯やってるだろう」
「そうですか。飲み過ぎないように」
「来てくれて、ありがとう」
「はい、また来週の金曜日ですね。ぼくの方で気が向けばの話ですけど」
「分かってるよ。じゃあね」
二人はそう言って別れた。
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