柳さんによると5

 それは柳さんが廃墟に住み始めてから二週間ほど過ぎた頃だった。

 金曜日の夜遅くに廃墟に戻ってきた柳さんは、例のようにガラスの散った玄関から中に入り、空になった棚が並ぶ土産物売り場や、壊れたゲーム機が並ぶゲームセンターを通り過ぎた。

 ゲームセンターと言っても、繁華街にあるようなものではなく、広いロビーの一画にレトロなモグラたたきや、何が貰えるのかよく分からないルーレットゲーム、大人なら五分と持たなさそうなメダルゲームが並んでいる。

 今のホテルしか知らない人にはピンと来ないかもしれないが、一昔前の良い旅館には色々な施設があったそうだ。

 雀荘や、ビリヤード場があったり、ゲームセンターがあったりして、温泉に浸かったあと、一晩中遊べるようなところだったらしい。

 そういう本来にぎやかな場所が廃墟になると、不気味さも一層強くなる。

 柳さんは廃墟で寝起きするのはなんともないが、ゲームセンターの前を通るときだけ嫌な気持ちになると言っていた。


 足早に通り過ぎて自分の部屋に戻ろうとすると、ピシッ、ピシッと変な音が聞こえた。

「それってどんな音だったんですか?」

 私が詳しく聞こうとすると、柳さんは「うーん」と首を傾げて、「濡れたタオルを勢いよく振ったような音?」

 と変なたとえをした。

「ピシッ、ピシッって聞くと池の水が凍りつくような音をイメージしましたけど」

 私が言うと「そんな音にも近かった」と言った。

 風もなく、木の枝が揺さぶられるようなこともない。どこから音がしてるんだろうと気になったが、わざわざ調べに行くこともない。

 何にせよ、関わり合いにならない方が良いだろうと思って、そのまま部屋に戻った。

 柳さんだって恐怖心が全くないわけでもない。こういうときは早く寝てしまうのが良いだろうと思って寝床を整えてタオルケットにくるまると、今度はカーン、カーンと金属のぶつかる音がする。


 柳さんは思わず目を開けた。

 例の怪談が思い出された。

 女の話ではない。

 何年か前に異常快楽殺人を犯した少年が、廃墟でネコを釘打ちにしていたという怪談だ。それ以来、この廃墟では少年が釘を打つ「カーン、カーン」という音が鳴り、その後ネコの叫び声が響き渡るのだと言う。

 さすがの柳さんも困ってしまった。

 ピシッ、ピシッという音は、自然現象でも説明がつく。木の枝が自身の重みに軋むのかもしれないし、風によって枝が折れるのかもしれない。

 ありふれた環境音が、恐怖心によって不気味に感じられるのだろう。

 しかし、この「カーン、カーン」という音は自然に聞こえる音ではない。甲高く、耳をつんざく音だ。

 柳さんは幽霊やオカルトよりも人間の仕業を疑うタイプだ。真っ先に浮かんだのは、少年が出所して、再びこの廃墟に現れたというイメージだ。

 そして、この廃墟で再びネコを弄び始めた。

 しかし、いくら少年犯罪と言っても、あれだけ残酷な犯罪を犯した人間がそう簡単に出所できるとは思わない。

 では、模倣犯や、また別の心の病んだ少年が、同じような遊びを思いついたのだろうか。

 音は若干の強弱はあるものの、近づいてくるでも、遠ざかるでもない。ただかなり近いところで鳴っているようだ。

 もっとよく聞こえないかと、柳さんが耳を澄ませたそのときだった。


 次の瞬間、「ギャー」と叫び声が聞こえた。

 柳さんは咄嗟に身体を起こした。

 どこからだろう? 人の叫び声にしては声が潰れていた。相当痛めつけられた後ならともかく、突然あんな声にはならないだろう。

 やはりネコの声だろうか。

 カーン、カーン。

 依然として例の音は聞こえる。

 柳さんは意を決して起き上がると、荷物の中から懐中電灯を取り出した。そして、ゆっくりと部屋の扉を開けて廊下に出た。

 ネコを助けたいとか、そういう考えはなかったのだという。とにかく音の正体が気になって仕方なかった。

 案外、なんてことのない話かもしれない。

 それなら音の正体をつきとめて、心配そうな顔をする日野さんを笑わせることもできる。


 柳さんは真っ暗な廊下を進んだ。

 壁土や床の塗装が剥がれ落ちており、歩くたびにじゃりっ、じゃりっと土のこすれる音がする。

 音は一階からしているようで、柳さんは階段を下りて、音のする方向に向かった。

 柳さんは土産物屋、ゲームセンターと通り過ぎて宴会場に入った。

 宴会場は真っ暗だった。

 実際にそこが宴会場だったのかは定かではない。がらんとしていて、テーブルもない。

 ただ一面に畳が敷かれており、ダルマが転がっていたり、長年掛け軸か何かをかけていたような日焼けの跡があるそうだ。

 真っ暗な中目を凝らしてみても、人の気配はない。

 宴会場には部屋の両側に窓がある。

 玄関や駐車場に面する窓と、その反対側に庭に出る窓があるのだが、その両方が手ひどく割られており、やたらと風が入る。

 静かだった。

 音はいつの間にかしなくなっており、柳さんは宴会場の真ん中で立ち尽くしていた。

 音がしなくなった以上、出所を探すのは困難だ。

 自分がここに来たから音がやんだのか、たまたま音がしなくなったのかも分からない。

 せっかく勇気を出して、音の正体をつきとめにきたのに、その音がしなくなると勇気は途端に萎えてくる。

 ふいに、一人で宴会場に突っ立っているのが恐ろしくなった。

 柳さんは踵を返すと、足早に自分の部屋に戻った。


「なんで逃げ出さなかったんですか?」

 その話を聞いたとき私は柳さんに聞いた。

「まあ、二週間もいたら、住まいも整ってね、それなりに快適になるんだよ」

 ホームレスと言っても物がいる。段ボールや、せっけん、洗剤の類も一度に運び出すわけにはいかないから、少しずつ整えていくのだという。

 そうして出来上がった城はそれだけ手間がかかっているから、そう簡単には逃げ出すわけにもいかないという。

 そろばんずくで怪異と向き合わなければいけないのだから、ホームレスも窮屈なものだと思う。

 急いで自分の部屋に戻った柳さんは念のために持ってきた懐中電灯を置き、もう一度タオルケットにもぐりこんだ。

 とにかく寝てしまえば、どうということはない。もう一度寝なおそうと思って目を閉じた。


 カーン、カーン、カーン。

まぶたが開く。今度は三連続、金属のぶつかるような音がした。


「人、バカにしやがって……」

 柄にもなく柳さんは悪態をついた。

 怒りに頼るように身体を起こすと、ドアを開けてもう一度廊下に出る。今度はいよいよ音の正体を突き止めなければならないという気がしてくる。

 音の正体が分からなければ、恐怖に心をむしばまれ、自分の方が発狂してしまうかもしれない。

 音はやはり宴会場の方からする。

 柳さんは足早に階段を下りて、宴会場に向かった。

 音はまだしていた。

 宴会場の真ん中に立って耳を澄ませると、カーンと音が響いた。今度は音が一つ。どうやら、庭の方で音がしているらしい。

 柳さんは駐車場側と反対側の窓に近づいた。

 こっちの窓枠にはガラスの破片が残っていて危ないが、よく見るとその一つにキレイに破片を叩き落した場所がある。

 柳さんはそこをくぐるようにして外に出た。

 庭は広く、ゆるやかな傾斜になっている。

 日本庭園というよりは、バーベキューやキャンプができる西洋風の庭で、コンクリートで固められた地面の隙間からほうき草が顔を出している。

庭の先には都市部で河川と合流する渓流があって、バシャバシャと水の音がする。一応、渓流には入れないようになっており、庭の周りを手すりが廻らされている。


 カーン。また音が鳴った。

 柳さんは目を凝らした。

 庭に人影が立っていた。

 それがどんな人かは分からない。暗くてシルエット以外何も分からないが、ごそごそと動いているので、人だということは分かる。

 そして、自分の存在に気が付かないということは、どうやら自分に背を向けているらしい。

 動きは緩慢で思いのほかのんびりしている。

 ジポッ。

 音がして、人影の周囲が明るくなった。暗闇の中に浮かない顔がぼんやりと浮かび上がる。


 ライターをつけたようだ。どうやら男らしい。

 男はタバコをくわえており、火をつけるとふーっと気持ちよさそうに息を吐く。

 

 カーン。


 男はライターの火を消すと、手慰みにライターを庭の柵に打ち付けた。

 カーン、カーン、カーン。

 そして、またタバコを口に運ぶ。

 気まぐれにライターを庭の柵に打ち付けるらしい。それは構わないが、男が何の理由があってこんなところにいるのか分からない。

 男は庭の柵から身を乗り出し、渓流を眺めている。

 もしかしたら身投げだろうか。このあたりは傾斜がきつく流れも急だ。川は庭の数メートル先を流れており、水深も深いところで一メートルくらいだろうか。


 死ぬには少し頼りないが死ねないこともない。


 もう少し近づいてみようと思い、一歩前に出ると、その足音で男が振り返った。


「うわあああああああ、な、何なんですか!」

 男が悲鳴をあげるので、柳さんの方が驚いた。

「いや、俺はその……」

 柳さんはドキドキしながらそう答える。

「なになに、何者?」

 男は腰が抜けたようで、ずりずりと後ろに這い下がる。

 これほど恐れおののいているということは、幽霊ではないらしい。ネコをいたぶるような心の壊れた少年にも見えない。そんな人物がふいの人影に腰を抜かしたりしないだろう。


「いや、俺は怪しいものじゃない。この廃墟に住んでいるホームレスなんだよ」

 そこで柳さんは身分を明かした。

「ホームレス?」

 男は力の入らない腰で必死に立とうとしている。

「そう。住む場所がなくて、ここの三階に住んでいるんだよ」

 柳さんはそこで懐中電灯を取り出し、男に向かってライトをあてた。それから、自分の方にライトを向ける。魔性の物ではないとアピールしたかったようだ。

 実際、廃墟に白いひげを生やしたおじいさんが立ち尽くしていたら、まず幽霊を疑うだろう。

 だが、よく見ると幽霊にしてはラフな格好をしているし、薄手の下着やねじり鉢巻きなど、妙に生活感がある。


「ほ、ホームレス? それが僕に何の用です?」

 男はまだ動揺を隠しきれない様子だった。

「いや、あんたに用があったわけじゃないんだよ。カーン、カーンって変な音がするから、気になって見に来ただけなんだ」

 話をしているうちに人心地がついてきたのか、男は落ち着きを取り戻していった。

「ああ、なるほど」

 男はなんとか立ち上がると、「これのことか」と言ってカーンとライターを打ち鳴らした。


「あんたこそこんなところで何してるの?」

 柳さんは穏やかな口調でそう聞いた。

「僕はこれですよ」

 男はそういって柵に立てかけられたものを指さした。

 近づいてみてみると、どうやら釣り竿らしい。

「釣り?」

「はい。この川って結構水の量もあって、環境も良いでしょ? ここで釣りをしてみたいとおもってたんですよ」

 男はそう言って笑った。

 柳さんの話によると男は四十代くらいのサラリーマンだそうだ。後に男は尾形と名乗った。

尾形さんはかなりの釣り好きらしく、週末になると一度は必ず釣りに出かけるらしい。

 釣り好きもここまで来ると普通ではなくなってくる。

 水のある場所を見れば、用水路でも田んぼのため池でも何が釣れるのか気になってくる。一つ糸を垂らしてみたくなる。

 そこが誰も釣ったことがないような場所ならなおさら好奇心がわいてくる。

 尾形さんは近くに住んでいるようで、家までの帰り道によくこの川沿いを歩いているそうだ。山際を均して住宅地を作ったため、川は地面からかなり下を流れている。

 到底釣りができる環境ではないが、それだけに今まで誰も釣ったことがないということが分かる。

 覗いてみればそこそこ深さもあり、水もきれいだ。流れも緩やかな場所と急な場所、淵になっている場所もあり、色んな魚が棲むのに適した環境がある。

 釣ってみたいなと思いながら川を見ていたとき、ふいに魚が跳ねた。

 種類までは分からないが、かなり大きな魚だったそうだ。


 尾形さんはもう我慢できなくなった。


 どこかに降りられる場所はないかと探しているうちに、「〇州極楽ホテル」にたどり着いた。

 対岸の住宅地から見れば一段低いところに立っており、一階部分はかなり川面まで近くなる。見れば川のすぐ前まで庭がせり出しており、あそこからなら何とか釣りができそうだと分かった。


「ここにはヌシがいますよ」

 尾形さんは興奮気味に語った。

 柳さんの方がたじろいでしまう。


 廃墟に住むような柳さんの鈍感さも気持ち悪いが、私には尾形さんの方がよほど気持ち悪いと思う。

 怪談の絶えないこの陰気な場所に釣りがしたいなんて理由で侵入していたのだ。

それもかなり前かららしく、ヌシを吊り上げるまではと週末になると「〇州極楽ホテル」を訪れるのだと言う。

 尾形さんも全く恐怖を感じないわけではないそうだ。ホテルに侵入するときは嫌な気持ちがするし、間違ってもホテル内を探索してみたいとは思わない。

 それどころか恐怖心を抑えるのに苦労するのだと言う。

 がらんとした宴会場を心を無にして突っ切って、庭に出ると手早く釣り道具を広げる。

 釣り糸を垂らすとやっと夢中になれるそうだが、そこまでの間は落ち着かなく、気のせいだと分かりながらも、何か気配を感じると言う。


「よくこんなところで釣る気になりますね」

 柳さんは言った。

「おじいさんだって、ここに住んでるんでしょう?」

「俺は住む場所がないだけだよ。釣りなんかどこででもできるじゃないか」

「じゃあ、僕の方が一枚上手ですね」

 尾形さんはそう言って苦笑した。

 やはり尾形さんは気持ち悪い。

 あるいは釣り好きの人は尾形さんの気持ちが分かるのだろうか。

 私は釣りが好きではないので、尾形さんのすべてが全く理解できない。

 半分食べるのが目的で、海釣りに出かけていっては鯛が釣れた、アジが釣れたと喜んでいるうちはまだ理解できる。

 釣りも凝ってくるようになるとやることなすことが理解できなくなってくる。以前釣り好きの知り合いから、「釣りはフナに始まり、フナで終わる」という言葉を聞かされたときも、私は目の前の人間が分からなくなった。


 しかし、尾形さんは完全に常軌を逸してくる。

 廃墟の中だ。

  怪しげな寺と、車一つない駐車場に囲まれた誰からも忘れ去られたような場所だ。泥棒が入り、金目になるものは根こそぎ盗られている。すべてが不良と肝試しに来た若者の悪ふざけによって壊されており、残虐な犯罪を犯した少年がネコを殺していたという噂がある場所だ。

 まったく恐怖心がないわけでもない。怖いのに行くというのも理解できない。

 尾形さんへの抑えきれない嫌悪感、気持ち悪さはこの後も増すことはあれど、拭い去られることはなかった。


「何か釣れますか?」

 柳さんはのんきにそんなことを聞いた。

「ウグイが釣れますね。今日はまだ一匹も釣れませんけど」

 尾形さんは一度竿を巻いた。

「あ、エサがとられてる」

 尾形さんはエサを再び針にかけると、川に向かって竿を振った。

 ピシッと竿のしなる音がする。ここにきて、先ほど聞いたピシッという音の正体も知れた。


 怪談とはたいていそんなものなのかもしれない。


 ピシッ、ピシッという異常な音。それからカーン、カーンと自然現象ではめったに発生することのない金属音。そして、ネコの鳴き声。

 一つ一つは大したことがないし、無関係に発生している。

 それを受け手が勝手に関連付けて考えて、怪談を作ってしまうのだ。

 カーン、カーンという音は尾形さんが気まぐれに鳴らしていたに過ぎない。ネコの鳴き声も、発情したネコはよくそんな声で鳴くものだし、ネコ同士でのケンカがあったのかもしれない。

 それらの音がランダムに聞こえてくるうちは雑音としてほとんど意識に上がらない。

 しかし、カーン、カーン、という音と、ネコの鳴き声が連続して起こったときだけ、人はそれに少年がネコを釘うちにしていたという噂を思い出し、その二つをセットにして記憶する。

 それが何度か続けば、もうそれは連続して起こるものだと考えてしまう。

 とにかく原因が分かれば、柳さんは自分のペースを取り戻していく。

 おおらかで気さくな性格の柳さんは、尾形さんに興味がわき始めた。

「ここ、幽霊が出るって知ってるんだよね?」

 柳さんは尾形さんの背中に声をかけた。

「ええ、近所に住んでますから。その手の話はよく聞きますよ。幽霊も怖いし、人も怖い。不良が夜道を歩く女性を集団で連れ込んで強姦したとか、高校生同士のトラブルで、一人の男の子を集団でリンチしたとか。まあ、その手の話は絶えませんね」

「俺も知り合いから危ないからこんな場所に住むのはよせって言われてるんだよ。あの連続通り魔事件の男の子が昔、ここでネコを釘打ちにしてたんだって」

「ああ。その噂ですか。あそこの神社で藁人形に打ち付けられた和釘を拾った途端、歯止めがきかなくなったってやつでしょう?」

 尾形さんはそういって山の方を指さした。

「ええ、そんなこと本当にあるのかな」

「さあ、あの事件の後色んな人が少年のことを話していましたから」

 地元では少し変わった少年として有名で、事件以降、彼についての印象的なエピソードが地元住民の口から多く聞かれたという。


「俺の知り合いが言うにはね、それが嘘でも本当でも、どうでも良いんだって。そういう噂があって、誰も寄り付かないことが既にリスクなんだから、そういうところには行かない方が良いって」

「まあ、それが普通ですよね」

 尾形さんは苦笑した。

「やめないの? 釣り」

 柳さんは聞いた。

「ヌシの正体がわかるまでは、やめられませんね」

 尾形さんは苦笑する。

「周りから止められない?」

「誰にも言ってませんよ。妻に言ったら叱られるのは目に見えてるので」

 話をしてみると、そこまで非常識な人間にも見えない。サラリーマンと言うことはそれなりの社会的地位もある。

「ふーん、いつも何時まで釣ってるの?」

「特に決めてはないんですけど、明るくなるまでには帰りますね。こんなところに出入りしているのを見られたら、ろくなことにならないんで」

「分かってるんだ」

「それと、あんまり釣れないとすぐに帰りますね。釣れると高揚感というか、達成感で気持ちが乗ってくるんですけど、釣れない日は自分が深夜の廃墟に一人いるってことに耐えられなくなってくるんです」

「そうだろうね」

 柳さんは眠気を感じ始めて、一つあくびをした。

「邪魔して悪かったね」

「いえ、こちらこそうるさくしてすみません。これからは気を付けますんで」

 尾形さんはそういうとライターを指先で小さく回した。

「音の正体が分かったんで構わないよ。原因さえ分かれば。騒音とかはもともと気にならない方だから」

「そうですか。でも、まあ、これからは気を付けますんで」

 柳さんと尾形さんはそう言って別れた。

 柳さんは三階の自分の部屋に戻り、眠りにつこうとした。柳さんの部屋は玄関や駐車場の向きに窓がついており、尾形さんの様子は見えない。


 怪談の正体が分かったから、そのままぐっすり眠れるだろうと思った。

しかし、目を閉じると、ふいにこの廃墟に自分以外の人間がいることが気持ち悪く感じ始めた。

 不良や肝試しの若者は、その存在自体が有害だから、怖くもなんともなかったそうだ。

ホームレス狩りやオヤジ狩りに遭うリスクの方が恐ろしく、見つからなければ大した問題にはならない。

 しかし、世の中には自分には思いもよらない目的を持った人間がいて、誰がどんな目的で廃墟に出入りしているか分かったものではない。

 先日見かけた娼婦の女のことが思い出された。

 実際に娼婦かどうかは分からない。ただ、男を廃墟に連れ込んで、ふいに消えてしまう女の幽霊。それとおぼしき人物を柳さんは一度この目で見ている。

 彼女はこの夜も、ふらりと廃墟にたどり着いた男を誘うべく、この建物のどこかから、薄笑いを浮かべて外を覗いているのだろうか。


 私ならこんなことを考え始めた途端、廃墟になんか一秒も居座っていられない。すぐに荷物をまとめて、どこか別の寝起きできる場所を探すだろう。

 しかし、河川敷の休憩スペースや街中の公園とて、満足に寝られる場所ではない。普通のごく一般的なベンチは撤去され、ホームレス避けの仕切りつきのベンチに変わりつつある。


 そういう事情もありつつ、柳さんは気味が悪いほどおおらかな人だ。

「世の中、色んな人がいるからなあ」

 柳さんはそう苦笑して眠りについた。


 夜の廃墟にうごめく人間を色んな人で片づけてしまったのだ。

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