柳さんによると4
「やなさん、まだなんともないか?」
翌週、柳さんはいつもの公園で日野さんと会った。
日野さんは柳さんのことをかなり心配しているようだった。
「それがさ、女を見たんだよね」
「えっ」
日野さんが思わず仰け反るような反応を見せた。
「なんか、ホテルの前に若い髪の長い女がいてさ、ちょっと嫌な感じだなと思って見てたら、ホテルの中に入って行ったんだよ。別になんともなかったんだけどさ」
そういった途端、日野さんの顔の土気色が濃くなった。
「実は今日、その話をしようと思ってたんだ」
「えっ」
今度は柳さんが仰け反る番だった。
「俺、あのあと、ホテルについて調べてみたんだよ」
日野さんは柳さんから話を聞いた後、図書館であのホテルについて調べてみたらしい。といっても、ネット掲示板で地元の怪談を流し読みした程度なのだが、その中で気になる話を見つけたのだと言う。
関西の怪談として紹介されているのは、廃墟で客を取る娼婦の話だった。
ある男が酔っ払って廃墟の近くまで迷い込んだことがあった。
家に帰る途中で、急に道が分からなくなったのだと言う。
廃墟にたどり着いて、慌てて引き返そうとすると、急に女に袖を引っ張られた。
「いっかいせええ。いっかいせええ」
それは外国人が使う独特の日本語とも全く異なるイントネーションだったらしい。それにふと顔をあげてみた女の顔は純日本人といった控えめな顔立ちだった。
不気味なものは感じたものの、一回千円という値段に興味を惹かれた。女に調子を合わせていると、廃墟の中に連れて行かれた。
怪しいことだとは思ったが、千円ならホテルに入ることもできない。値段が値段だけに嫌とも言えず、そのまま廃墟の一室でことに及ぼうとすると、ふっと目を離したすきに女は忽然と消えた。
急に恐ろしくなって男は一目散に逃げかえったが、その晩から酷い熱を出し、回復までに一か月もかかったらしい。
「それ、お金は先に払ったのかい?」
柳さんは妙なところが気になったという。
「それは分からんが、気味わるいことは変わらないだろ」
「でも、お金を先に払っていたのだとしたら、納得はいくじゃないか。廃墟に連れ込んで、金だけとって隠れてるだけで向こうは幽霊だと思って逃げ出してくれる。値段も千円だし、廃墟で生きてるかも分からない女を追い回そうとは思わないだろう」
「それはそうだが、普通の人間はそんなことしないだろう。それに金を取っていない場合はどうなる」
「それなら辻褄が合わないな。何の目的があってそんなことをするのか分からない」
「やっぱりおかしな話だろ」
日野さんは何とかして廃墟暮らしを辞めさせたかった。迷信深い人間じゃなくても、あんなところに住んでいるとよくないことが起こるとハッキリわかる。
こういう鈍感な人には周りが注意してあげないとダメだと思ったのかもしれない。
「でも、何ともなかったよ。それに女は一人だった」
柳さんには響いていないみたいだった。
「一人ならもっとおかしいだろ。何のために廃墟に一人で行く?」
「さあ、ならやっぱり幽霊なのかもしれないな」
柳さんはそういって難しい顔をする。
「まさかやなさん、一回千円なら一度挑戦してみようと思ってるんじゃないだろ」
日野さんが怖い顔をする。
これは意外だったらしく、柳さんはさすがにないと手を振った。
「そんな元気はないよ。もう年だからね」
「そういう問題じゃないだろ。元気だったら挑戦するのか?」
「しないって。何を怖い顔してるんだい?」
「いや、やなさんの勝手だから良いんだけどさ、知ってる以上は黙ってほっとくわけにもいかないだろ。現にこういう話があるんだから」
「とにかく何かあったら考えるよ。幽霊だっていきなり呪い殺したりなんかしないだろ。少し様子を見てみるよ」
日野さんはさぞじれったい思いをしただろうと思う。
ここまで来ると私には日野さんの気持ちの方がよく分かる。
私も柳さんから一部始終を聞いたときには「本当に住み続けたんですか?」と顔をしかめた記憶がある。
怪談の絶えない廃墟に住むなんていくらホームレスだと言っても信じられない。
たしかに、怪談と言っても、こういう話は何かと尾ひれがつくものだから、本当はもっと他愛のない話だったのかもしれない。
それが人口に膾炙するうちに、他の怪談とくっついたり、話が入れ替わったりして変化していく。
実際に女を見ている柳さんには、例の女と怪談の女が同一人物のようには思えなかったのかもしれない。
いや、これらの推測は平均的な価値観を持つ私が、柳さんの心理を納得できるように解釈しているに過ぎない。
実際は何も考えていなかったのかもしれないし、困ったことがあっても何ら対処せずにぐずぐずしている人なのかもしれない。
私が以前付き合っていた女性にもそういう人がいた。
真冬の晩に彼女の家にいくと、スウェット一枚でベッドに腰掛けたまま「寒いね」と言ってぶるぶる震えている。見れば、顔は真っ白になっていて、身体の芯まで冷え込んでいるらしい。
「寒いなら暖房をつけたらいいだろ」
と私が言うと、
「ああ、そうだね」
と言って今気づいたような顔をする。私はコートを脱いで、洗面台で手を洗って戻ってくると、まだ暖房はついておらず、「うう、寒い、寒い」と肩を抱いている。
「暖房付けないの?」
「つけてもいいけど」
「電気代が気になるの?」
「いや、そういうわけでもないけど」
「なんでつけないの?」
「暖房をつけるっていう発想がなかった」
「さっき言っただろ」
と言うと
「そうだね」
と言って笑っている。
話をしているのが嫌になって、イライラしながら
「つけてもいい?」
と聞くと、
「うん」というのでようやく私が暖房をつけた。
彼女は何事においてもそんな感じで困ったことがあってもすぐには対処せずにいつまでもそのままにしている。そのままでは困るだろうし、対処といってもそれほど面倒なことではないのに。
それでもそのままにしておくから、「彼女にとってはそれが普通なのだ。人より感覚が鈍いのだろう」と思って世話を焼き過ぎないことにしていた。
柳さんもそういうタイプなのかしばらくあのホテルに住み続けた。
柳さんも不気味なほど鈍感な人だが、ここにきてもっと不気味な人が登場する。
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