柳さんによると3


 その日、柳さんは銭湯で汗を流したあと、夜遅くに廃墟に帰った。

 あまり明るい時間だと人に見られる恐れがある。ホームレスが廃墟にいついていると言われるとまた追い出されかねないので、柳さんはなるべく遅くになってから廃墟に戻るようにしていた。

 自転車をこいで、坂をのぼり、斜面が急になったところで自転車を押してあがる。

 台地の住宅街をさらに上にあがり、公道から「〇州極楽ホテル」の駐車場に入る。

 だだっ広く、車一つない駐車場は寂しいことこの上ない。月のない晩は余計にそう感じると言う。


 駐車場にはネコがいた。

 今までだって見かけたことはあっただろうが、別に意識にも止めなかった。しかし、その話を聞いた後だと、さすがに気になったのだという。


 そのネコが幽霊だと思ったわけではない。

 廃墟の駐車場でネコに近づき、そっとエサをやる少年の姿が思い起こされた。

 少年の顔はぼんやりとしていて、うまく想像できない。少年はエサをやりながら、その後、実験をする野良ネコの頭をおもしろそうに撫でている。

 そして、ネコが油断してすり寄ってきたところ、首根っこを掴んで袋に入れる……。

 そんな想像をしていたときだった。


 何者かが座っていた。

「〇州極楽ホテル」の玄関口へ至る階段の前で誰かが座っているのが見えた。

 さすがの柳さんもこのときばかりはドキリとした。

 不良や肝試しの若者なら、これほど近づく前にすぐに分かるのだ。浮かれた声をあげて、異常なほどはしゃいでいる。

 不良は見栄を張る生き物だから、こういう場所ではしゃげることが豪胆の証明になると考えている。

 実際、ホームレス狩りやオヤジ狩りを行う若者は、内心、ホームレスに向けられる暴力にビクビクしているのだという。反撃も恐ろしいし、人の身体が壊れていくことにも恐怖を感じている。

 しかし、そこでビビっていると思われるとメンツにかかわるから、自分がビビっていないことを証明するためにさらなる暴力を加える。それに怯めば、周囲からはチキンとみなされる。

 その場にいる全員が、「暴力を楽しめる俺」を周囲に知らしめるために暴力はエスカレートしていく。

 そんな連中だから、百メートル離れていても、その存在には気が付くのだ。

 しかし、その人影にはほんの数メートル近づくまで気が付かなかった。

 柳さんは足を止めて、じっとその人影を睨んだ。

 もしかしたら見間違いかもしれない。あんな話を聞かされた後だから、何かの陰がそう見えるのだろう。

 そう思って見たが、どうも見間違いではない。よく見ると小さく動いている。


「にゃー」

 ネコの鳴き声が聞こえた。

 どうやら人影の足元にはネコがいるようで、その人物はネコの頭を優しく撫でている。エサをやっているらしい。

 ネコに公園でエサをやる人はいる。飼っているわけでもないのに、毎日同じ時間に公園に来てエサをやるのだ。そういう人はいるにはいるが、こんなところまで餌付けに来る人がいるだろうか。

 実際、今まで一度も見たことがない。

 またしても少年のことが思い出された。少年はすでに捕まっているはずだ。それにネコを殺していたのも、通り魔事件を起こす二年も前の話で、通り魔事件を起こす頃にはネコを殺すのにも飽きていたという。

 彼とは別人だろうか。

 それはそうだろう。彼は今刑務所の中だ。

 しかし、心の壊れた少年は彼だけではない。

 これ以上は近づかない方が良い。

 柳さんはそう悟った。

 相手はまだ柳さんに気が付いていない。

 相手はひとしきり足元のネコを撫でていたが、やがて満足したように立ち上がった。

 帰るのだろうか。柳さんは身構えた。帰るとしたら、駐車場から公道に出るだろう。今自分がいる場所を通るとしたら、自分の存在が知られるかもしれない。

 どこかに隠れようか、さりげなく道を開けようか、それとも堂々としていた方がトラブルに巻き込まれないだろうか。

 結果的には柳さんの不安は杞憂に終わった。


 人影は柳さんに背を向けると、階段をのぼって廃墟の中へと消えていった。

 その直前、街路灯の光で人影の姿がはっきりと浮かび上がった。


 女だった。

 髪の長い女で、黒のシャツに黒のスカートを履いている。体格は細く、肌はいやに白い。

 自分だって快適な寝床を求めてここに来たのだ。明日は派遣のある日で、最低六時間は寝ないと仕事にならない。

 とはいえ、あんな女が入って行った建物に入る気にはならない。


「さて、どうしたものかな……」

 柳さんは呟いた。

 しかし、ここで住処を変えるよう人なら最初からこんなところには住んでいない。

 柳さんのおおらかさはここにきて狂気の領域に至る。

「まあ、鉢合わせにならなければいいか」

 もとより幽霊の可能性は考えなかったという。

 幽霊なら今日に限らず毎日ここにいるはずで、ここで寝起きする以上、こういうことには慣れなければいけない。

 女が生身の人間なら、いざとなれば腕力でどうにかなる。

 それに今日一日、なんとかやり過ごせば、今後は来なくなる可能性の方が高い。

 柳さんは女が消えていった玄関を通り過ぎると、ぐるりと廃墟をまわり、奥の宴会場から中へと入った。

 宴会場には広い窓があるのだが、例のごとく窓ガラスは割られている。窓枠には尖った破片が残っており、通るのはかなり危険だ。

 玄関口は数々の侵入者によって破片まで割り落とされており、そこを通るに越したことはないのだが、女と入り口で鉢合わせになるとどうなるか分からない。

 とにかく相手を刺激しないことだと考えて、ぎゅっと首を縮こませて、宴会場から中へと入った。

 ここで住み始めてから、「〇州極楽ホテル」の間取りはある程度把握している。とはいえ、入ったことのない部屋も多く、それらがどうなっているかは知ろうとも思わない。

 柳さんは真っ暗な廊下をひたひたと歩き、北側の階段を使って一気に三階まであがった。

 肝試しの若者は大体が食堂、宴会場、大浴場と二階の客室を見て帰る。廃墟は五階まであり、その全部の部屋を見て回る人などほとんどいない。

 その中でも三階の廊下は散らかっており、割られた植木鉢からこぼれ出た土が廊下をさえぎっている。

 恐らくこの先まで来る者はほとんどいないだろうと決めつけて、引っ越し当初からそこで眠っていた。

 ここまで来ると女と出会うことはないように思う。

 柳さんは持ち込んだタオルケットに身体を包むと、目を閉じて夜を過ごした。


「そんなところでよく寝れますね」

 私はこの話を聞いたとき思わずそう言った。

 柳さんは照れたように手を振って、「大したことないよ」と言った。

 どちらにせよ年を取りすぎていて、あまり深くは眠れないのだという。

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