第4話 薄明に消える影

翔は壁にもたれたまま、一晩中震えていた。老婆の声とインターホンの音は、どこかのタイミングでふっと止んだ。しかし、静寂が訪れても、部屋に漂う異様な気配は消えることなく、翔の心を縛り続けていた。


気がつけば、窓の外が薄く白んでいる。翔は重い体を引きずるようにして立ち上がり、無意識にカーテンを開けた。外には見慣れた風景が広がり、行き交う車や歩行者の姿にほんの少し安堵を覚える。


「……何だったんだ、あれ……?」


昨夜の出来事を思い返してみるが、現実感が薄い。もしかすると、疲れ切った自分の頭が見せた幻覚だったのではないか――そんな考えが心の中をかすめる。だが、耳にこびりつく老婆の声の冷たさ、部屋を覆った異様な空気感は、夢や幻覚では説明がつかないほど生々しかった。


「……仕事に行かなきゃな。」


一睡もできなかった頭を振り払うように、翔は洗面所へ向かった。冷たい水で顔を洗い、鏡を覗き込むと、そこに映る自分の顔は疲労で青ざめていた。昨夜の出来事を誰かに話そうかとも考えたが、そうすればただの気のせいだと笑われるに違いない。


時間は流れ、日常のリズムが訪れる。仕事へと向かうためにスーツを着込み、部屋を出る頃には、翔は無理やり平静を装っていた。疲れた顔は隠せなかったが、仕事が始まれば考える暇もなくなるはずだ。そう自分に言い聞かせた。


職場での一日は、翔の思った通り忙殺されるように過ぎ去った。単調な業務に没頭し、同僚たちとの何気ない会話に笑顔を見せる。その間だけは、昨夜の記憶が薄れていくように感じられた。帰り道、すっかり日が暮れた夜空を見上げながら、彼は小さく息を吐いた。


「やっぱり幻覚だったんだろうな。」


そう結論づけることで、昨夜の不安を無理にでも押し込めたのだった。

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