第3話 響く声、閉ざされた夜
翔はのぞき穴から目を離し、数歩後ずさった。全身に冷たい汗が滲み出し、息が浅くなる。壁に手をつきながら、脈打つ胸を押さえた。鼓動の音が耳に響き、頭の中で警鐘を鳴らしている。
――ピンポーン。
まただ。翔は反射的に顔を上げた。ドアの向こうからあの老婆の声が聞こえる。
「菊の花、いりませんか?」
まるでささやくような、しかし耳元に直接響くような声だ。その言葉はただ繰り返されるだけで、どこか異様な力を帯びているようだった。
翔は思わず耳を塞いだ。
「なんなんだよ……!」
小声で叫び、背中を壁に預けて座り込む。だが、老婆の声は途切れることなく続く。
「菊の花、いりませんか?」
声は一定のリズムを刻むように続き、その音が部屋全体に響いている気がした。玄関だけではない。まるで部屋のあちこちの壁、天井、そして床下から同時に囁かれているかのようだ。
「やめろ……やめてくれ!」
翔は耳を塞いだまま叫んだ。だが声はやまない。それどころか、部屋の空気が次第に重くなっていくのを感じた。息苦しさが喉元に押し寄せ、肌には薄い膜のような冷たさが纏わりつく。
部屋の隅に置かれたフロアランプの光が、かすかに揺れ始めた。照明の明るさがゆらぎ、影が壁に不規則に踊る。翔はその光景を見つめながら、立ち上がることもできず、ただ恐怖に震えるしかなかった。
「菊の花、いりませんか?」
老婆の声は相変わらず響き続けている。だがその声は、今や明確な言葉ではなく、音そのものが異質な存在感を放ち始めている。翔の心には、目に見えない何かがじわじわと侵入してくるような感覚が広がっていた。
――ピンポーン。
再び鳴ったインターホンの音が、翔の神経を鋭く刺した。その音は、最初に鳴ったときとは明らかに違い、不気味に長く引き伸ばされている。翔はたまらず玄関を振り返った。だが、のぞき穴を再び覗く勇気はなかった。
その瞬間、老婆の声が低く、そして無感情にこう言った。
「ドアを開けてください。」
翔は全身の血の気が引いていくのを感じた。彼は壁を伝いながら必死に後ずさり、部屋の奥へと逃げるように動いた。だが老婆の声も、部屋を覆う異様な気配も、ますます濃厚になっていくばかりだった。
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