第3話 エリス

 ルーシアの家を出てすぐに、幸せな気分で俺は『ダンジョン』から脱出しようとした。


 ところが。


「ス、スライムだ……」


 その帰り道にモンスターであるスライムと遭遇エンカウントしてしまった。

 液体と固体の間ぐらいの見た目のスライム。

 その緑色のゼリーみたいな肉体で地面を這いずっている。

 目も無く口も無く耳も無く。でも人を察知する能力はあるようで、俺の方へとジワジワと近づいて来ていた。


 幸せから一転。

 最悪な事態が訪れてしまった。

 モンスターなんて一人で対処できるわけがない。

 スライムはモンスターの中では最弱と言われているが、しかし冒険者なりたての素人が一人で勝てる相手ではないのだ。

 【戦士】ならまだ可能性はあるかもだが、俺は最弱の【忍者】だぞ?

 どうやって勝つっていうんだよ。


 少しずつスライムと距離を取る動きをするが……こちらよりも速く敵は動く。

 逃げられない。

 【忍者】のスキルである【忍足しのびあし】は、相手にバレないように行動できる能力ではあるが、敵に姿を認識されている時には効果が発揮されない。

 俺ができるのは全力で逃げるか、あるいは戦うか。 

 その二択しかないのだ。


 もちろん俺が取る行動は――逃げる。

 それ一択しかないだろ。

 幸いなことに『ダンジョン』の入り口まではそう遠くない。 

 なんなら他の冒険者が現れて助けてくれる希望すらもある。

 

 俺はどう逃げるかの算段を始めた。

 後方に逃げると『ダンジョン』の奧へ。

 相手側へ逃げると『ダンジョン』の入り口だ。

 奥へ向かって他のモンスターに囲まれたら一巻の終わり。

 少々の怪我は覚悟して、相手側を抜けるのが最善策であろう。

 そう踏んだ俺はスライムが近づくの待つ。

 ギリギリまで引き付け、そこから全速力で逃走するんだ。


「うう……」

「!?」


 そう決断した俺であったが、壁に横たわる一人の女性の姿が目に映る。

 いつからいたんだ?

 その人は怪我をしているらしく、このスライムに傷つけられたのだと俺は瞬時に判断した。

 この人を囮にして逃げることも可能だ。

 しかしそんな人の道を外れたことをしていいのだろうか。

 でも元々こいつと戦っていたのはこの人だろう?

 そうだ。ここでこの人を見捨てても自業自得。

 一人で冒険者をすることが間違いなんだ。

 そう。俺は悪くない。ここで逃げても誰にも責められやしない。


 俺はニヤッと笑い――そして彼女の前に立つ。


 だけど逃げるなんてできない。

 死に直面している人を前にして逃走なんて俺にできやしないんだ。

 困っている人を見捨てて自分が生き残るなんて考え、まだ死んだ方がマシだよな。


「来い……最弱の俺が相手してやるよ、スライム最弱!! 最弱同士、仲良くしようぜ!」


 スライムの動きが変化する。

 それは得物を狙う獰猛な動物のようで、一気にこちらとの距離を詰めてきた。


「くっ!」


 初めての戦闘。

 そして背後にいる女性は、自分が死ねば同じように死んでしまう。

 その両方のプレッシャーに緊張感が加速する。

 怪我はして当然。無傷で生き残れると思うな。

 勝てるとも考えていないけど、死なないように立ち振る舞え。


 誰かが助けに来てくれる。 

 その一抹の希望を胸に俺はスライムを迎え撃つ。


 スライムは直線的な動きで俺に飛びかかってきた。

 俺は体を硬直させながらも腕を振るう。

 最悪なことに武器も持ち合わせていない。

 『ギルド』から逃げるように『ダンジョン』へ侵入したのだ。

 つい先刻の自分を呪いたい。


 飛んでいるハエを払うように、スライムを腕の横振りで叩く。


 パンッ!!


 と破裂するスライム。


「??」


 俺はその事態に目を丸くさせていた。


「消えた……消滅した?」


 スライムが俺の眼前からいなくなった。

 何が起こったのか。

 もしかして女性を助けるために俺の中に隠されていた力が解放されたのだろうか。

 いや、そんなバカな話あるはずがないか。


 だがとにかく助かった。

 あまりにも呆気ない結末に唖然としつつ、俺は踵を返して気絶している女性を見下ろす。


 緑色の髪は肩に届くぐらいか。女性としては短い髪の長さ。

 目を閉じているがその美貌は確かなものだろう。桃色の唇から感じる息遣いに、死ぬような気配はないことに安堵する。

 戦士のような恰好をしており背はやや高めか、胸も大きいと見えた。

 ルーシアとはまた違う美しさを誇るその人を眺め、俺はさきほどまでの緊張感から解放され、大きな音を立てて固唾を飲み込んだ。


「あの、大丈夫ですか……?」

「うん……」


 頭から血を流している。

 このままじゃ危ない。

 そう断定した俺は、彼女を負ぶって『ギルド』まで急ぐことに。


「?」


 彼女の体は驚くほど軽い。まるで豆腐を持ち上げたぐらいの感覚。

 おかしいと思いつつ、スライムを倒した感動に浸ることもなく必死に走る俺。

 階段を駆け上るのには息が切れ、体力の衰えに嘆く。

 冒険者たちの視線も気になるが、それでも俺は走り続けた。


「ぜえぜえ……す、すいま……」


 『ギルド』に到着するも、息が切れすぎて何も言えない。

 だがただ事ではない俺の様子に、先ほど対処してくれた女性がこちらに駆けつけてくれる。


「怪我をしてるんですか?」

「は……はい」


 絞るようにして出したその一言に、『ギルド』内が騒然とする。

 怪我人は珍しくないようだが、それでも人の生き死にに関わる事態。

 これで彼女は大丈夫だろう。

 深い安堵を覚えた俺は、彼女の体と共に意識を手放す。


 ああ。情けない。 

 カッコいい冒険者ならここで、余裕を見せるんだろうな。

 まさか酸欠で気絶するとは……そんなことを頭に思い浮かべながら、俺は完全に意識を失った。


 ◇◇◇◇◇◇◇


「う……ここは」


 気が付くと知らない白い天井があった。

 そして俺を覗き込む緑髪の美女。

 碧眼の瞳が美しく、キラキラ光る宝石のように思えた。


「君は……」

「私を助けてくれた。そう聞いた」

「あ、助けたっていうか……そうかな」


 彼女は俺の手を握り締め、そして真剣な表情で言う。


「ありがとう」


 コンビニの客でたまにそう言う人はいたけれど。

 でも心の底から言われたのは始めてだった。

 これまで人のために動いたことってなかったからな。

 その言葉は不思議と俺の胸を熱くさせ、そして満足感を得ていた。


「大したことなくて良かった」

「あなたのおかげだ」


 頭に包帯を巻いているみたいだが、それ以外は別段外傷は無いようだ。


「とにかく無事でよかった……俺は万燈籠英二。良かったら君の名前を教えてほしい」

「エリス」

「エリスか……素敵な名前だ」


 日本人離れした美貌の持ち主。

 年の頃は二十歳過ぎってところか。

 一目見た時から日本人ではないと思っていたが、その予想は正しかったようだ。


「エリスは一人で冒険者を?」

「?」


 俺の問いかけに首を傾げるエリス。

 何を不思議がっているのだろう。

 その反応が逆に不思議だ。


「えっと……道に迷って『ダンジョン』にいたってわけじゃないよな? 鎧を着ているみたいだし」

「……どうなんだろう」

「どうなんだろうって……」


 エリスは腕を組んで、さらに首を傾げてしまう。


「覚えていないんだ。何もかも」

「……はい?」

「自分の名前以外は覚えていないと言ったんだ。頭を怪我した後遺症だと、ここの職員が言っていた」

「言っていたって……記憶喪失!?」

「そのようだな」


 あまりのことに愕然とする俺。

 美女を助けたまではいいけど……その美女が記憶喪失だと?

 予想もしていなかったことに俺は困惑し、思考回路がストップしてしまう。

 

「頼れる人がいない。これからどうするべきか」

「はぁ……」


 すでに思考は完全に停止している。

 これ以上は何も考えられない。

 困った顔をせずに困っているエリスを、俺はボーッと眺めるしかないのであった。

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