バラの咲く庭

猫煮

昼下がりに

 庭には芝を敷いて、バラの木立で道を作ろう。小さな池にはアヒルを離して、スモモの木で木陰を作ろう。小さなその庭を眺めるための小さなガーデンテーブルに、飾り気ないクロスを敷いて。茶葉の香りから異国の風に思いを馳せよう。この美しい庭で、願わくば週に一度ほど相席を。


「ボス」


 美しいものは残るべきだ。故郷の夏に輝く緑の木立、涼しい水辺を甲高い声ではしゃぐ乙女たち、母の淹れた一杯の薄い紅茶。記憶の中にしか残らぬものを、再び目にするのは容易いことだ。役者は代わり、演出家も代を変え、劇場すらも異なったとしても、百年前の作家が書いた話の美しさには傷の一つも付かないのだから。


「ボス、ボス?」


 故に私のミューズ。お前の美しさを何に例えよう。咲き誇る花園も、怜悧な月も、きらめく星々も、深い碧の草原も、美しさでお前には及ばなかった。


「ねえ、ボスってば」


 無粋な声に、閉じていた瞼を開く。


「アンドレイ。お前、私に仕えて何年になる」


「ええと、ガキのころから数えると18年で、運転手になってからは3、いや4年ぐれえです」


 片手を器用に操って数を数える男。彼を運転手にしてからかれこれ6年になるだろうか。スラムを通りがかりに、何でもするからと自分を売り込んできた痩せぎすの少年。前日の賭けで大勝ちして気分が良かったのもあって、撃ち殺そうとする護衛を押し留めて雑用にしてやったのだ。砂漠の民に特有の巻き毛と、日に焼けた肌の彼。自分で言った通りに言われたことは何でもやるから、オツムの多少の弱さには目を瞑って運転手にまで取り立ててやった。道程度は間違えることもなかったから、それで良いと今まで使ってきたが、窓の外を見ても目的地についたとは思えない。


「私は、目的地に付いたら声をかけろと言ったな?」


「ええ、たしかに聞きましたがね、ボス」


「なら家はどこにある。私が渡した住所には家があるはずだがな。うん?」


 三十年ぶりの再会をしようというのに、マヌケのアンドレイは道を間違えたのだろうか。この程度で懐の銃を抜くほど短気ではないが、事と次第によっては新しい運転手を見つけねばなるまい。


「もう数百メートルでつくとは思いますがね、ボス。この道じゃ自走車(モービル)は入っていけやせんぜ」


 言われて運転室へと続く小窓を開けさせてみれば、確かに道幅が急に狭くなっていた。これではモービルはおろか、二頭立ての馬車ですら進むのに苦労するだろう。


「ふん、良いだろう。歩いて行くとしよう」


 その言葉に、脇に控えていた護衛たちがモービルの扉を開いて外に出る。彼らがあたりを見回してから促すのを待って外に出れば、日の照った暑さの中、冬の名残の肌寒さを秘めた風が頭上を通り過ぎていく。その風が運んできた村の香りは記憶の中と同じ、藁束と堆肥、そして家畜の皮脂の香りがした。


 歩き出す私を挟んで同行しようとする護衛たちを、手で制する。


「ああ、護衛は要らんよ」


「しかし、社長。我々の仕事は …… 」


「何、物々しく尋ねる相手でもない。それに、この村のことはよく知っているからな。アンドレイだけ連れて行くさ」


 そうおっしゃるなら、と立ち止まり、直立不動で待機する護衛たち。彼らから目を離し、アンドレイに同道するよう促すと、再び歩き始める。


 やはり故郷は良い。記憶の中と比べれば多少は文明の影が増えてはいるが、流れる風も漂う匂いも記憶のままだ。家の並びぐらいは変わっているかと思ったが、街灯がちらほら並んだ程度で、見知ったところには見知った家が建っている。これで歩いている顔まで同じならば、過去に戻ったと勘違いでもしそうなほどだ。しかし、村の顔ぶれともなれば流石に見知らぬものばかり。誰も彼もが私に怪訝な目を向けては、身なりに気付いてはっと目を背ける。このあたり、性根も昔から変わらんらしい。


「しかし、物々しいもんでもないと言われても、モービルで乗り付けるなんてしてちゃ説得力がねえですね」


 見慣れない景色を眺めるのに疲れたのか、アンドレイが軽口を叩く。


「馬鹿野郎。普段はモービル一台でどこへ行くってんだ。ぞろぞろ連れないだけお忍びなのさ」


「なら、馬車にでも乗ってくりゃよかったのに。そんなら目立たないし、歩かないでもすんだ」


「私が今更馬車に乗れるかね?」


 隠すにしたって、最低限は示しておかねばならない品格というものがある。だからこそ、こんな田舎で仕立物の上下を着て歩いているのだ。納得しかねるような顔のアンドレイだったが、その彼にしたってあり物にしては上等のシャツに釣りズボンである。しかし、こうして他人に言われてみれば、自分がこの村には異物となっていることも実感できた。


 黙り込んでしまったアンドレイを伴に連れ、よく覚えている道をたどれば目的の家が見えてきた。村の外れに佇む小さな家。しかし、その庭は貴族の大庭園とはいかずとも、村の平均的なそれに比べれば倍ほどの広さだ。芝の刈り込まれたその庭には小さな池があり、その水辺にはシダが植わっている。庭の隅にはハーブが植わっており、みずみずしい葉を広げている。住人がよく世話をしているのだろう。


 だが、最も目を引くのは、白いアーチの門構えから続く、黄色いバラの生け垣だ。花の盛りはまだかと、蕾をまさに広げようとするバラの木立が、緩やかに波打ちながら玄関への小道を作っていた。


「はあ、こりゃ見事ですね」


 思わずといったように驚くアンドレイを捨て置いて、バラの小道を進む。この品種はあまり香りが強くないが、それでも一面に植わっていれば鼻に抜けるような甘みが私の心を喜ばせた。その喜びのままに、玄関に釣られたチャイムを鳴らす。リンリンと小さく歌う鈴の音からしばらく、扉を開けて私を迎えた姿に、私の心は喜びで溢れた。


「やあ、ハロルド。久しぶりだな」


 出迎えた老人は笑顔になると、挨拶を返す。


「お久しぶりですね、ルイスくん」


 数十年来の友、カレッジからの付き合いであるハロルドが、記憶よりも皺の増えた姿で、記憶のままの笑顔で出迎える。つられて思わず自分の笑顔が若い頃のそれになるのを感じたが、長らく使わなかった部位の筋肉が釣りそうになり、不格好な表情になってしまったかもしれない。しかし、ハロルドは特に何を言うでもなく、私を家の中に招いた。


「アンドレイ、お前は門の前にいろ。庭には触れるなよ」


 バラの花に触ろうとしていたアンドレイは肩を跳ねさせると、すごすごと門の外へと歩いていく。


「すまんな、うちの若い者の教育がなっていなくて」


「バラの一輪ぐらい、どうってことはありませんよ」


「良いんだよ、あいつにゃ物の価値はわからんのだから」


 懐かしさのあまり口調が砕けているのに気が付き、思わず口を抑える。ハロルドはその仕草に笑うと、好きに喋って結構ですよ、と言いながら扉の奥へと戻っていった。なんとも気恥ずかしいものだが、その分嬉しくもある。


 彼に続いて家の中に入れば、見知った間取りに見慣れぬ調度品が並んでいた。いくつかの見慣れた家具、オークのキャビネットや旧式のランプなどもあるが、最新式の水銀鏡やレース編みののれん、果てはドライフラワーのリースなぞ、洒落たものまで飾られている。そのうちの一つ、シンプルな木枠の写真立てに、私とハロルド、そして彼の妻が写っているのを見つけて、目を細めた。


「これも天命だったのでしょう」


「いや、カサンドラのことは残念だった」


 写真立てを眺める私に、ハロルドが声を掛ける。カサンドラ、彼の妻にして、我が青春。彼女が死んだのはもう一月前のことになる。当時の私は事業で忙しく弔問すらできなかったが、代わりに全ての手配は費用を私が持った。だが、本当はハロルドに合うのが恐ろしかったのかもしれない。それが、今はこうして穏やかに話せているのだから、人生わからないものだ。


「お茶にしましょう」


「ああ、濃いめに頼むよ」


 促されてようやく、目線を外して彼に続いた。


 彼に案内された庭先には、ニスの塗られたガーデンテーブルが据えてあり、上にはレース飾りの白いクロスが掛けられていた。その上にはバスケットに入ったスコーンと、自家製であろうジャム、そして準備されたティーセットが置かれている。


「気を使わせたようで悪いな」


「君の好みは聞いて知っていましたから」


 ティーカップから湯を切っていたハロルドはなんでもないように笑うが、私が理想の庭について語ったのはカレッジの頃に一回のみである。相変わらず、記憶力の良い男だ。椅子に腰掛けつつ笑みをこぼす。


「しかし、クロスはもっとシンプルでないと。主役は庭なんだからな」


「上の娘がレース編みにハマっていまして。私が生涯をかけても使い切れないほど在庫があるのです」


「そうか、あの娘が」


 言われて思い出す。ハロルド夫妻に会ったのは、彼らがこの国へと避難してきた時が最後だった。元は植民地として父祖の送り込まれたこの土地が、独立して国家となったのがほんの百年前。元の宗主国とは互いに無関心へと落ち着いていたが、彼の国が戦争を始めて、人々が他の国々へと疎開し始めた頃。この国にもいくらかの人が移住してきた。そのうちの一組が、私を頼ってやってきたハロルド夫妻だったのだ。あのときのカサンドラの胸には、確かに一人の女の赤子が抱かれていた。


「歳を取るわけだ」


「ええ、お互いに」


 差し出された紅茶を口に含むと、互いに黙り込む。心地よい沈黙の上を故郷の風が撫でていく間にも、彼の故郷、かつての宗主国のカレッジでの様々な出来事が思い起こされた。私は経済学科で、彼は文学科、彼女は法学科だった。私と彼の縁は全く無く、ただ互いにカサンドラの知り合いだったために知己となったのだ。


「そういえばお前との勝ち負けはちょうどタイだったな」


「賭けならあなたが勝ち越していたはずですが」


「そっちじゃない、ボクシングだ」


 そう言えば、知り合った当初は文学科なぞもやし野郎の巣窟だと高をくくっていたが、この男にだけは勝ち越せなかった。力が強いわけでも、テクニックがあるわけでもないのだが、ぬるりと懐に入られると水のようにまとわりついて剥がせなかったのだ。思えば、最初の試合で彼に負けたのが、ハロルドという男を認めた初めの一歩だったのかもしれない。


「どうだ、ここらで勝ち負けをはっきりさせるというのは」


 ふざけて腕を構えてやると、ハロルドは昔のように、困った笑い顔で首を横に振る。


「歳を取ったと言ったのはあなたでしょう、ルイス」


「ああ、そうだな。スコアボードは永遠にタイだ」


 ボクシングの試合も、カサンドラへの愛も。彼女がここにいないことはひどく寂しいが、彼女が誰を愛していたとしても、私の捧げた愛は誰に劣るものでもなかったはず。それを裁定する彼女がいない以上は、ノーゲームだろう。感傷的になりすぎた心を緩ませようと、葉巻とナイフを懐から出して頭を切り落とし、尻を噛む。そのままマッチを擦ろうとしてふと手を止めた。


「一服良いかね」


 手で続けるように促すハロルドを見て、ようやく葉巻に火を付けた。舌の上で煙を転がすと、葉巻の香りが心を朗らかにさせる。そうして軽くなった口と、若くなった気分とが私を軽率にした。


「しかし、お前の祖国の人間で、これほどリッチな暮らしをしている人間はいないだろうな」


 戦争の後に起きた経済力の争いは、私の祖国が彼の祖国を屈服させる形で決着がついた。彼の国が戦争で疲弊したところに、我が国は経済支援という名の首輪をつけたのである。私もそれに参加した。


「私は十分慎ましやかな生活を送っているつもりですよ」


「いや、確かにこの国から見れば平均的な暮らしだろうさ。だがね、君の祖国のどこにいっても、こんな立派な庭はないだろう」


「貴族の庭に比べればこんな小さな庭など」


「それが違うのさ。確かに、貴族たちの庭にはここよりも広大な敷地にここよりも多くの花が咲いているだろうよ。しかし、その全てに値段をつけても、この庭の値段の半分もしやしない」


「私の祖国はそこまで困窮しているのですか」


 自分で捨てた国とはいえ祖国に思うことはあるのか、目を細めるハロルド。このような話をするべきではないと思いつつも、回りだした舌は止まらない。


「困窮はしてないさ。市民は飢えることもなく、まともな職と並の家ぐらいはそう苦労せずに得られるだろう。だが、その食べ物も、その職も、その土地も、私達が値段を決められるというだけのことだ」


 私はこんなことをハロルドに話して、何がしたいのだろうか。


「例えばあのバラ。あのありふれたバラはお前の祖国に一株しかない。『友好の証』に私達が送り、特別なバラとして与えたからだ。『砂漠の下賤な黄色いバラ』が今では値段もつけられない崇拝の対象というわけさ」


「友好の証と言うなら、株分けして育てそうなものですが」


「それができないのさ。法律でそう決まってる。俺達が決めさせたんだ」


「何故ですか?」


 ハロルドは心底不思議そうに聞き返してくる。


「決まっている。彼らが俺達にそうさせたのだ。百年の昔に、この砂漠の端へと父祖を追いやったときからこうなるべきだったのさ」


「つまり、憎しみから?」


 ああそうだとも。


「憎しみ? 違うね。これは正当な経済活動さ。代々続く利息を払ってもらっているだけの話だとも」


 ずっと心のどこかでお前が恨めしかったんだ、ハロルド。


「第一だね、素晴らしい話だろう? 誰も損をするものはいない。国家は保証され、市民は命を拾い、我々は儲ける。美談じゃないか」


「それは、君たちがあの国を支配するということですか?」


 こうも真面目な顔で睨むハロルドは久しぶりに見た。長く会っていなかったのもそうだが、見たのは最後に会うよりもずっと前。あれはそうだ、カレッジにいた頃だ。カサンドラを巡って駆け引きをしていた頃、一度だけ彼が彼女への愛について口に出したことがあった。


 カレッジのメインストリート。その脇にあるベンチで並んで座っているときに、ハロルドが世間話のように切り出した。


「ルイス、君がカサンドラに恋する男を彼女から遠ざけていると聞きました。本当ですか」


 カサンドラ、彼女は本当に美しかった。容姿も当然のことながら、その魂は高潔で、彼女の知性とその裏にある人間臭さの調和に私は魅了された。それだけに多くの男が彼女に恋をして、粉をかけていたのだ。しかし、その中には彼女を愛しているわけでないものも少なからずいた。だから私は、連れ合いがほしいだけの者には女を世話してやったし、トロフィーとして彼女を欲するだけの者には金と苦痛を与えてやった。当時の俺にはすでにそれだけの力があったからだ。


「ああ。彼女が誰と結ばれるにせよ、幸福になるべきだ。それはお前も同じ意見だろう?」


 当時の俺は当然彼も頷くものだと思っていた。ところが彼は、眉根を寄せてこう言った。


「二度とそんなことをするべきではない。今すぐやめなさい」


「何故だ。そりゃあ、俺だって彼女が変な男に引っかかるタマだとは思っちゃいない。だが、獣のように理性のない奴なんかは遠ざけてやるべきだ」


「確かに、悲劇的な結果を生む可能性の芽は存在します。しかし、それを私達が摘むことは彼女から奪うことになる」


「何を」


「決定権をです。私達は彼女を品物として奪い合うのではなく、愛されようとしなくてはならない」


 それは理想論だ。その時も俺はそう思ったが、口には出せなかった。彼の目が睨みつけるでも咎めるでもなく、いつも通りに私を見つめていたからだ。彼が対等に俺と話しているのが、私には何よりも恥ずかしかったからだ。そうして、俺はしばらく押し黙り、ようやくこう言った。


「もしも続けると言ったら?」


 それを聞いたハロルドは、表情を変えずに。なんと言ったんだったか。


「ルイス?」


 彼の気遣わしげな声で現代に戻って来る。懐かしいことを思い出したが、こちらを見るハロルドの顔はさきほどまでの記憶の中彼の顔そのままだった。まっすぐに見つめるその瞳に耐えきれず、目を逸らしながら言い訳じみて答える。


「そもそも憎しみは消えはしない。どんなに誰かが過去に決着を付けても、残った歴史が誰かの憎しみを呼び起こし、気付かぬ内に火種を大火へと育むものさ。ならば、せめて見つけやすい形に落とし込めば良い。その点、経済という古い神は、気難しいがシンプルだからな。うってつけだった」


「確かに転嫁することで単純になる問題というのはあります。感情は特に複雑なものですから、扱いやすい形に焼き直すことができれば便利でしょう」


 問の答えになっていない言葉。これが試験なら落第だろうが、ハロルドは変わらない表情で感想を返す。カレッジの頃から変わらないその態度に、懐かしさと、今は少しのイラつきを感じて語気が乱れる。


「だが、俺達、少なくとも俺は憎しみから手を差し伸べたんじゃない。むしろその逆、愛からだ」


「それは良いことです」


 その鉄面皮を崩してやりたい一心で、口がひとりでに喋りだす。


「リスクがあったにもかかわらず、亡命まがいに移住してきたお前たちを俺の故郷に匿ったのも同じ愛、哀れに思ったからだ」


「その節は助かりました。感謝しています」


「お前の祖国もそうだ。哀れに思ったから、だから救ってやった。機能不全になった国の機能を俺達で肩代わりしてやった。国家と人民の安全を俺達が与えてやった」


 手に持った葉巻を握りつぶして言い放つ。


「俺はお前の国に平和を売ってやったのだ!」


「あなたの言う愛を商品にしてですか?」


 正面から、ハロルドの目と視線が合う。


「だとしたら?」


 私がそう言うと、しばらくの沈黙が訪れる。ヒバリの声が遠くから響き、その歌が途切れた頃、彼は私を見つめた姿勢のまま動かず、なんでもないように言った。


「哀れに思います」


 ハロルドはそれだけを言った。私の中の矜持が青筋を立て、自分の顔がこわばるのがわかる。私の歯は噛み締められ、全身が小刻みに震え、そして、ふと私の肩の力が抜けた。長い、本当に長い何十年か分のため息を吐き出す。ああ、そうだ。ハロルド、お前ならそう言うと思った。だから来たんだ。


「ハロルド、俺、いや私は老いた。本当に、老いたんだ」


「僕は、カレッジの頃の君を思い出しましたよ」


「ああ、私もその頃のことを思い出していた。君に、同じことを言われたんだ」


 彼はそれに答えずに微笑むと、カップに視線を向ける。


「紅茶が冷めてしまいました。淹れ直しましょう」


「ああ、そうだな、頼むよ」


 そうしてポットから湯を注ぐハロルド。湯がカップを温めるのを待つ間お互いに何も話さなかったが、ふと思いついて温度計を確認する彼に尋ねる。


「なら、私はあの国へ何を売りつけたのだろうか」


「あなたは黄色のバラを一株売ったのでしょう?」


 言われて門の方を見れば、変わらず黄色のバラが小道を作っていた。


「そうか。 ……そうか」


「そもそも、自分の持たぬものを、どうして譲ることができると思えるのでしょうか」


「それは、経済学への挑戦だな」


「ええ、だから私も興味がある」


 そうしてまたしばらくの沈黙。茶器が立てるかすかな音を背景に、空を仰いだ。


「私には愛が欠けていると思うかね」


 その問いに、ハロルドは振り向かずに答えた。


「カサンドラは、あなたの贈ったあの黄色いバラを、この庭で一等気に入っていましたよ。カレッジの頃からずっと」


 その言葉に瞼を閉じる。目尻から熱いものがこぼれた気がしたが、ハロルドが背を向けているこの場では誰もその正体を知ることはないだろう。しばらくそうしていると、私の前で陶器が擦れる音を立てた。目を開けば、紅茶がその澄んだ水面に波紋を浮かべている。


 私達は何も言わず、紅茶を手に庭を眺めた。私が思い描いた理想の庭によく似た庭を。


「思い出は美しいな」


 蝶が花の間を飛ぶのを見て、ふと口をついた。


「ええ、薔薇色の記憶です」


「それは、今もか?」


「ええ」


 私達はそれ以上なにも言わずに紅茶を一杯だけ飲んだ。


 そして、カップが空になり、私達はどちらともなく玄関へと向かう。扉を潜る前に、弱気を全て吐き出しておくためにハロルドに訪ねた。


「私は赦されるだろうか」


 彼は驚いた顔になったあと、初めて私の前で泣きそうな顔になって答えた。


「赦しは、過去に起きた出来事のためではなく、未来の出来事を起こすために行われるものです」


 それを聞いて、私は扉を出た。


「私は、あなたを赦します」


 後ろでハロルドが私の背に声をかけたが、私は答えることも振り向くこともせず、バラの小道を進む。そして門を出ると、アンドレイが道の反対側に座り込んで寝こけていた。この阿呆は自分がなんで連れてこられたのか解っていないと見える。


「アンドレイ、おい、アンドレイ。起きねえか」


 足で小突いてやると、アンドレイは身を震わせてまぶたをゆっくり開けたが早いか、飛び起きた。それがまるでネコのようで、思わず笑いがこみ上げるのを噛み殺す。


「ボス。いえね、近づいてくる奴がいねえか、耳を澄ませてたんでさあ。おかえりなせえませ」


「ほう、では私の足音はもちろん、私達の会話まで聞こえていたというわけだ。盗み聞きとは趣味の悪いことよな」


 いやあそれは、と卑屈に笑うアンドレイの頭を小突く。本当にできの悪い男だ。これで自信家なら始末に終えないところだが、嘘が下手な点と素直な点だけは評価できる。首をすくめつつ私の機嫌をうかがうアンドレイに顎でしゃくると、モービルへ向けて歩き出す。後ろを子鴨のように付いてくるアンドレイを見て、そういえば庭にアヒルが居なかったことを思い出した。しかし、あの庭にアヒルは不要だ。


「アンドレイ、花は好きか?」


「へえ? まあそりゃ好きですが」


 不意に問われた彼は、目を瞬かせて困惑したが、私が唸って答えを促すと控えめに答える。


「何故かね」


「なぜってそりゃあ、綺麗ですし。綺麗なもんが嫌いなやつはいねえでしょう」


「ああ、そうだな」


 何を問われているのかと怯えるアンドレイに、嗜虐心が沸き起こるがすぐに霧散した。そしてあとに残ったのは一つの些細な、そして馬鹿げて思えるようなアイデアだったが、それを採用することにする。


「なら、花の手入れを教えてやる。だが、バラはだめだ。最初の一歩には繊細すぎるからな」


「つまり、おいらに庭師の仕事もやれと?」


 彼のその反応を見て、ついに笑いがこらえきれずに声を上げて笑う。アンドレイと、通りすがりの村人が驚いた目でこちらを見るが、村人はすぐに目を伏せるとそそくさと去っていった。ひとしきり笑ってから、目の端の涙を拭き、息を整えて言う。


「私もそこまで耄碌しちゃいないさ。だが、そうだな。裏庭の花壇の隅を貸してやる」


 そして、上機嫌で歩きつつ、どの花を植えるのが良いのか考える。黄色い花なら、ゴールドメダルだろうか。バラに似た姿ならリシアンサスも悪くないが、あれも気難しい花だからな。あれこれと考えつつ、いつの間にか楽しんでいる自分を見つけ笑みが溢れる。


 また何か言われるのかと、こちらを怖怖と伺うアンドレイを連れ、私はモービルに乗り、帰路へとつく。そして、あの庭を二度と訪れることはなかった。

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