第13話 浄明ノ刻

 霧が淡く漂う森の中、鳴たちは七彦の指示に従い、慎重に山道を進んでいた。湿った土の感触が足元から伝わり、風が木々の間をすり抜ける音が耳に心地よく響く。葉の隙間からわずかに差し込む光が霧に反射し、まるで森そのものが淡い光のベールに包まれているかのようだった。


「まずは周囲をよく見ろ。妖がどこに潜んでいるかわからない。」


七彦の低い声が緊張感を帯びた空気を引き締めた。


郁之助は槍を軽く肩に担ぎながら、わざと大げさな声を出す。


「へいへい、七彦さんの言うとおりにしますよっと。」


その無防備な態度に、七彦が鋭い視線を向ける。


「大きい音を立てるな。敵を呼び寄せる気か。」

「わかってるよ。」


郁之助は口を尖らせたが、槍を軽く持ち直し、少しだけ慎重な様子を見せた。


その後ろでは、貴音が周囲を興味深そうに見渡しながら感嘆の声を漏らす。


「それにしても、本当に不思議な場所だね。見たこともない植物ばっかりだよ。」


淡い白色の花が茎の先に垂れ下がり、滴る雫のような形状をしている植物が風に揺れている。花びらには繊細な糸のような構造が見え、まるで光の精霊が舞っているかのような幻想的な光景を描いていた。


鳴も静かに視線を巡らせながら、肩に乗る泳に頬を寄せた。

泳は細長い尾をゆらゆらと揺らしながら、桔梗色の瞳を森の奥へと向けていた。耳が微かにピクリと動き、何かの気配を捉えているようだ。


「その猫、連れてきてよかったのか?」


七彦が泳を指差し、鳴に問いかける。


「……うん、大丈夫。」


鳴は静かに答えながら、泳の頭を優しく撫でた。


泳はその手に喉を鳴らし、鳴の言葉に同意するように鳴いた。その穏やかな姿が、少しだけ緊張感を和らげる。


森の奥からは風に混じって微かに何かが揺れる音が聞こえてくる。冷気がじんわりと肌にまとわりつき、星籠山の神秘がさらに濃さを増していく中、彼らは慎重に歩みを進めた。


七彦が先頭を歩き、郁之助がその少し後ろで槍を担ぎながら気配を探っている。貴音は興味津々に辺りを見回しつつも、足取りは乱さない。鳴は最後尾を静かに歩き、泳を肩に乗せじっと周囲を見回していた。


木々のざわめきの中に、かすかな違和感が混ざる。風が枝を揺らす音に紛れて、微かな物音が鳴の耳に引っかかった。


……何かいる。


鳴は歩みを止め、肩の泳もピクリと耳を立てる。音のする方向に静かに耳を傾けた。霧の向こうで、何かが確かに動いている気配がした。


静かに呼吸を整えた鳴は、七彦に近寄り、小さく抑えた声で話しかけた。


「……ななちゃん。」


不意に呼ばれた七彦はギョッとしたように振り返る。


「な……ななちゃん?」


七彦は驚いた表情で鳴を見つめた。


「お前もそう呼ぶのか。」


鳴は何食わぬ顔で少し首を傾げる。


「ダメなの?」


一瞬目を逸らしながら、七彦は少し戸惑った様子を見せた。


「いや、別に構わないが……」


その様子を見ていた貴音がクスクスと笑い声を上げる。


「ナナちゃんって呼び方、やっぱり可愛いよねー!」


郁之助も面白そうに口を挟んだ。


「よかったな、ナ〜ナちゃん。」

「お前にその呼び方を許可した覚えはない。」


七彦が低い声で一喝し郁之助に冷たい視線を向ける。


「おお、怖!」


郁之助は冗談めかして言い、貴音も楽しそうに笑った。


七彦はあからさまにため息をつきながら、鳴に目を向けた。


「それで、どうしたんだ?」


声にはわずかに苛立ちが滲んでいる。


「何かいる。」


鳴は控えめながらもしっかりした口調で続けた。

その言葉に七彦の表情が一気に引き締まる。


「方向は?」


鳴は霧の向こうを静かに指差した。


「あっち。」


その緊張感に、貴音と郁之助も笑いを収め、神妙な顔で鳴が指し示した方向に視線を向けた。森の奥、霧の向こうに何かが蠢いているような気配が漂っていた。


七彦が一歩前に出て、鋭い目つきで周囲を見渡した。霧の中、木々の間には何かが潜んでいるような気配が漂っている。風が止み、森は不気味な静寂に包まれた。


「全員、戦いに備えろ。」


七彦が低い声で指示を出す。


郁之助は槍を軽く回して肩に担ぎ直し、にやりと笑った。


「やっと法獣さまのお出ましってわけだな。」


貴音は慎重な足取りで位置を調整しながら、

「なんか、ちょっと緊張するね」とぽつりと呟いた。


鳴は特に慌てた様子も見せず、淡々と護符を手にする。霧の中で白地に描かれた力強い紋様が微かに光を放ち、その光を指先で感じ取るように軽く握り直した。


森の奥へ進むほど、空気がどんどん冷たく、重たくなっていった。木々の間を吹き抜けていた風は止まり、耳に届くのは自分たちの足音だけ。

不自然な静けさが一行を包む。


「なんか、雰囲気がヤバくない?」


貴音が緊張を隠せない声で言った。


「確かにな......気を抜くなよ。」


七彦が眉間にしわを寄せ、弓を手にしながら周囲を警戒する。


その時、かすかな音が聞こえた。葉が擦れるような、不気味な低い音だ。鳴が音の方に視線を向けると、木陰から奇妙な姿がゆっくりと現れた。


それは異様な形状の"法獣”だった。

 

 人の姿に似ているが、顔はなく、代わりに赤黒く光る無数の瞳が体中に散らばっている。手足は異様に長く、地面を掻くたびに乾いた音が響いた。その輪郭は霧に溶け込むように揺らめき、実体を掴ませない。


「うえっ、キモチワル!」


貴音が思わず後ずさる。


「術式で作られた存在だが、動きは実際の妖と変わらない。油断するな。」


七彦が静かに説明しつつ、弓を引き絞る。弦がわずかに鳴る音が緊張を際立たせた。

 

法獣は四つん這いになり、長い手を地面につけて低く身を構えた。その無数の瞳がぎらりと光り、獲物を捉えるように鳴たちを睨む。その不気味な威圧感に、誰もが息を飲んだ。


貴音が口元を引き締めながら言った。


「と、とりあえず、あれを倒さなきゃなんだよね?」


「...ああ、そうだな。」


郁之助が槍を構え、短く返すと同時に地面を蹴った。勢いよく前方へ跳び出し、法獣に向かって一直線に突き進む。その表情には戦いへの興奮がにじんでいた。


「おらあっ!」


郁之助の槍が風を切り、正確に法獣の胸元を狙った。


だが──


「おっ……!」


法獣の体は霧のように揺らぎ、槍先は空を切ったまま何も捉えられなかった。


「えっと、どうすればいいんだっけ?」


焦りながら貴音も後に続こうとするが、手元がおぼつかない。咄嗟に足元に転がっていた石を掴み、それを法獣に向かって投げつけた。


「それっ!」


石はまっすぐ飛んだものの、郁之助の槍と同じく法獣の体をすり抜け、木の幹に当たって跳ね返った。


「えっ!?」


貴音が驚きの声をあげた。


「あれ?」


郁之助も槍を振り下ろしたまま、ぽかんとした顔を見せる。

 

「馬鹿かお前ら!」


七彦の怒声が響いた。弓を引いたまま冷静な表情で、二人を睨みつける。


「霊力を込めろ! 法獣は実体がないから、単純な物理攻撃は通じない!」


郁之助は目を見開き、顔を軽くしかめた。


「やっべ、忘れてた。」


その様子にため息をつきながら、七彦はさらに声を張り上げた。


「貴音!なぜ石を投げる!? 符兵術はどうした!」


「あっ!そうだった!」


貴音が目をぱちくりさせ、慌てたように答える。


七彦はこめかみを押さえながら短くため息をついたが、鳴はその様子を少し興味深そうに見つめていた。


七彦が素早く鳴の方に振り向き、鋭い声をかけた。


「おい、護符の準備できてるのか?」


鳴は落ち着いた表情のまま、静かに頷く。


「……うん。」


その返事を確認し、七彦は続けた。


「俺たちが隙を作る。だから、その間に護符を貼りに行け。」


鳴は再び「うん。」と短く返事をする。


七彦はその淡々とした態度に、片眉を上げ何か言おうと口を開きかけたが──


「うおっ!?」


郁之助の大きな声が鳴り響いた。


七彦は反射的に前方へと視線を戻す。郁之助が後退しながら槍を振り回し、霧のような手足を持つ異形の存在に攻撃を仕掛けていた。だが法獣はその場から滑るように動き、するりと郁之助の槍先を避けている。


「くそっ、しつこいな!」


郁之助が苛立った声を上げた。


七彦は冷静な表情に戻り、弓を強く引き絞った。


「そのまま動くなよ……。」


呟くと同時に矢を放つ。鋭い風切り音とともに、霊力を帯びた矢が法獣の肩口をかすめ、赤黒い体にの傷を刻んだ。


七彦と郁之助の攻撃が続くが、法獣はその身を霧のようにくねらせて素早く避け、まったく動きを止めることができない。


「くそ…!」


七彦が歯を食いしばりながら矢を放つ。


「おい、あの野郎、しぶといな!」


郁之助が槍を振り回し、さらに激しく法獣に迫るが、またしても攻撃は空を切った。


その時、七彦はふと戦況に目を移し、異変に気づいた。


「おい、貴音!何してるんだ!」


振り返ると、貴音はその場で地べたに座り、真剣な表情で何やら紙を折っている姿が目に入る。


七彦は思わず声を張り上げた。


「本当に何してる!?」


貴音は顔を上げずに、落ち着いた声で答えた。


「ちょっと待って!今集中してるの。」

「集中って……何を言っているんだ!」


七彦は苛立ちながらも、声を荒げて言う。


「焦ると失敗しちゃうから、ちょっとだけ待ってて!」


貴音はそう言うと、手元の紙をもう一度丁寧に折り始めた。


「はあ!?今の状況わかっているのか!?」


七彦の声がさらに大きくなり、顔を険しくして怒鳴った。


「早く戦いに参加しろ、貴音!」


七彦が再度声を荒げる。


貴音は顔を上げず、紙を折りながら冷静に言った。


「焦らせないで!」


その言葉に七彦の怒りがさらに募り、戦いの手を止めると苛立ちを隠さずに貴音に向かって一歩歩み寄る。


「おい、いい加減にしろ!」


七彦の怒声に貴音が驚いて手を滑らせ、折りかけの紙人形が崩れ、そのまま動き出してしまう。


「えっ!?あっ!」


貴音が慌てて声を上げたが、すでに紙人形は法獣に向かって進んでいっていた。


「うわあ!どうしよう、まだ途中なのに!」


貴音は焦りながらその場で立ち上がった。


「さっきから何をしているんだ!」


七彦が怒鳴るように言いながら、貴音に向かって歩み寄り、説教を始める。


だが、そんな中、郁之助が七彦を呼んだ。


「おい!ナナちゃん!」


七彦はその声を聞いて、再び法獣に向き直った。


「くそっ、またか……!」


郁之助はすでに槍を構え、法獣の動きを伺っていた。


「早くしろ!こいつをどうにかしねえと!」


七彦は深く息を吐きながら、再び戦闘に集中した。


すると、貴音が折っていた紙人形が、法獣の前で突然立ち止まり、まるで命を得たかのようにパチパチと手を叩き始めた。その不気味な光景を目の当たりにした郁之助が、動きを止め驚きの声を上げた。


「なんだこれ?」


鳴と泳もその奇妙な紙人形に興味深げに目を向け、動きを見守っていた。


しばらく静かな時間が流れ、誰もがその紙人形の行動に注目していると、突然、爆発音が響き渡った。


「うお!?」


郁之助が驚きの声をあげ、弓を構えていた七彦もその瞬間を目の当たりにして驚愕の表情を浮かべた。


爆発の衝撃で、法獣が呻き声をあげ、少し後ろに退いた。しかし、爆発した紙人形はまるで何事もなかったかのように立ち上がり、再び手を叩き始めた。


「おおっ!すげぇ!」


郁之助はその光景に感動した様子で興奮した声をあげた。


その間にも、紙人形は再び法獣に近づき、もう一度爆発した。今度は法獣の動きが鈍り、明らかにその打撃を受けているようだった。


その様子を見て、鳴は短く息を吸うと静かに呪文を唱え始めた。

その声は低く、静かなもので、まるで周囲の空気がその呪文に吸い込まれるように感じられる。


「天地のことわりよ、道を示せ。」


その言葉と共に、鳴が手に持つ護符が微かに震え、青白い光を放ち始めた。護符の光は、まるで鳴の声に呼応するかのように、光が次第に強くなっていく。


「闇を祓い、穢れを断ち、清流に戻れ。」


その言葉が重なるたび、護符の光はますます強く輝き始める。


そして、鳴は護符を一気に法獣に投げつけた。護符が空中を切り裂くように飛び、法獣の元へと迫っていく。幻妖はそれ感じ取ったのか、ひときわ激しく体を揺らすが、護符はその姿を無視するかのように速さを増して進んでいく。


護符が法獣に触れる直前、鳴は静かに呟いた。


「--こう。」


その一言と共に、護符が爆発的に光を放った。その光は激しく閃光を放ち、周囲の景色を一瞬で照らし出した。法獣はその光に飲み込まれ、体を痙攣させるように揺れ動き、やがてその姿が歪み、完全に消失した。


静寂が訪れたその瞬間、カラン…と、地面に何かが落ちる音が響く。それは、法獣の体に埋め込まれていた札が落ちる音だった。

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