第1話 始まりの夜
夜の街は、不穏な静けさに包まれていた。闇に沈む路地裏には、灯りひとつ見えず、湿り気を帯びた風がわずかに吹き抜けるだけだ。
瓦屋根の上、
その肩には、一匹の黒猫が器用にバランスを取りながら座っている。名前は「
「どう、泳?」
鳴が小声で問いかけると、泳は耳をピクリと動かし、視線を闇の中に向けた。その仕草が「怪しい奴がいる」とでも言っているかのようだ。
短刀の柄に触れながら、鳴は心を静める。泳が肩から飛び降り、音もなく屋根瓦を歩き始めたのを合図に、彼も闇の中へと消えていく。
その先には、人の形をした何か――妖の気配が確かにあった。
闇に目を凝らすと、路地の奥でわずかに空気が揺れた。泳が瓦の上でじっと闇を睨む。その目線の先、黒い影が静かに揺れている。
「みつけた。」
鳴は腰に手を伸ばし、短刀の鞘を静かに外した。紫烏色の鞘と柄には、真っ赤な桜の花びらが舞うように描かれている。その模様が月光の下で幽かに浮かび上がり、不気味な闇の中に一瞬の美を添える。抜き放たれた刀身は、虹色の光をわずかに宿しながら、夜の冷気を映し出していた。
影はゆらりと動き出し、やがて異形の姿が露わになる。全身を覆うような長い黒髪が、不規則にうねりながら広がっている。虚ろな赤い瞳がぎらりと光り、薄気味悪く歪んだ笑みを浮かべる。
そして、人の手のようでありながら異様に長い指が、地面を引き裂く音を立てる。妖の口からは、かすかなうなり声だけが漏れ、まるで言葉にならない。知性を感じさせないその姿勢は、獣そのもののようだった。
その不安定な動きの中、妖は鋭い牙を見せながら、こちらに向かって身を乗り出す。
鳴は短刀を構え、静かに息を整える。瞬間、妖が地面を蹴り、驚くほどの速さでこちらに向かって突進してきた。
鳴は一瞬の隙も逃さず、身を低くして刀を横に払った。刃は妖の腕をかすめたが、その爪がすぐに反撃を狙って彼の顔を襲う。紙一重でかわし距離を取るが、妖の動きは止まらない。
妖は荒い呼吸をし、虚ろな赤い瞳をぎらつかせながら、低い唸り声を上げる。怒りに任せて再び突進してきたその瞬間、鳴は一気に間合いを詰め、妖の胸元に鋭い一撃を放った。
妖の動きが止まり、低い唸り声がさらに強くなった。赤い瞳は恨めしそうに鳴を睨みつけるが、次第にその形を保てなくなり、全身から黒い霧が立ち上り消えていった。
鳴はしばらく短刀を構えたまま、その場を見据える。そして、ゆっくりと息を吐いた。
妖が霧散し、路地裏には再び静けさが戻った。湿った夜気がじわりと肌にまとわりつき、先ほどの激闘の気配を跡形もなく飲み込んでいく。鳴は刀を収め、冷えた夜風をいっぱいに吸い込む。その冷たさが、ざわめく心をゆっくりと静めていくようだった。
肩の上に泳が音もなく飛び乗る。その小さな体から伝わる温もりに、少しだけ心が和らいだ。
しかし、その瞬間、背後から気配がした。
「見事だったな、
静かな声が、夜の静寂にするりと溶け込むように響いた。鳴は即座に短刀を抜き、声の主の方に振り向く。
そこには、二十代ほどの若い男が立っていた。月明かりに照らされた金髪は、光沢を放っており、襟足はきっちりと刈り上げられている。その整った髪型と茶色の瞳は、一見柔らかな印象を与えるが、その佇まいには隙がなく、視線の奥には力強さが宿っている。
男は薄く笑いながら手を軽く挙げた。月明かりが彼の横顔を照らし出す。
「誰……?」
鳴は鋭い視線を向けながら問いかけた。
「そんなに警戒しなくてもいい。俺が襲いかかるように見えるか?......まあ、見えるかもしれな。」
男は冗談めかした口調で言い、手をひらひらと振る。それでも鳴の鋭い視線は微動だにしなかった。黄金色の瞳が月光を反射しながら、男の一挙一動を見逃すまいと睨んでいる。
「冗談が通じない、なるほど真面目くんか。」
男は肩をすくめ、軽い足取りで少し歩み寄った。
「俺の名前は
「教師......?」
鳴の眉がわずかに動いた。その言葉に警戒心と疑念が入り混じる。教師、と名乗る男の軽薄そうな態度と、その言葉の裏にある意図を測ろうと、鳴は日向を見つめ続けた。
「そう、教師だ。ただの教師じゃないけどな。未来ある若人に、妖を祓う術を教える学校があってね。俺はそこの教員をしている。」
そう言うと、日向は着流しの懐から巻物を取り出した。淡々とした動きだが、どこか慎重な様子が窺える。
「志堂鳴」
彼は巻物を広げながら、鳴を見据えた。
「君に、
「入学許可?」
鳴は困惑しながら、男の動きを見逃すまいとじっと睨む。
「君には素質がある。」
日向の口調が少しだけ低くなる。軽薄そうな笑みは消え、わずかに真剣さが宿った声だった。
「その力を磨くには、あの学校が最適だ。」
日向は巻物を差し出しながら、鳴の反応を待つように視線を向けた。
「どうして君のことを知っているのか......今は話せない。ただ、一つだけ言えるのは、俺がここにいる理由も含め、すべて意味があるということだ。」
日向の声はどこか含みを持っていた。
鳴は沈黙の中、肩の上で泳が小さく喉を鳴らすのを感じた。
「もし興味があるなら、明朝、この地図に記された場所に来い。」
日向は踵を返し、ゆっくりと闇の中に溶け込んでいく。その背中は月明かりに一瞬照らされたが、すぐに影と一体化した。
最後に彼は振り向き、意味深な笑みを浮かべた。
「君の力は特別だ。それだけは確かだよ。」
日向の姿が完全に闇の中へ消えた後、鳴はわずかに肩の力を抜いた。
泳が軽くしっぽを振り、鳴の頬に鼻先を寄せる。その仕草に少しだけ気を緩めながら、鳴は地面に残された巻物を拾い上げた。
指先で巻物を触りながらも、すぐには開こうとしない。その中身に触れるのをためらっているように見えた。
「.....滝、日向。」
鳴は小さくつぶやき、巻物を握りしめた。
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