第7話 理性と感情の狭間で
避難所の朝は静かだった。澄み渡る空気に、鳥のさえずりが混じる。しかしその中に、瓦礫の隙間を這うような重苦しさも同時に漂っている。颯太は目を覚まし、身体を起こした。薄汚れた毛布を畳む手つきに、いつもの硬さがあった。
弓子の言葉が頭をよぎる。
「祈ることで、心が少しだけ軽くなるの。」
颯太はその言葉を理解できないまま、どこか心に引っかかっている自分に気づいた。それは彼にとって初めての感覚だった。
颯太のこれまでの人生は、理性と論理で成り立っていた。何事も客観的に分析し、感情に流されることを良しとしなかった。震災が起こる前の彼は、同僚たちから「冷静すぎる男」と冗談めかして言われるほどだった。
「感情なんて、不安定で不確かなものに振り回される必要はない。」
そう信じて疑わなかった颯太が、震災後の現実の中で少しずつ揺らぎ始めていた。
「颯太、何を考えているの?」
凛の声が響いた。彼女は颯太の隣に座り、じっと彼を見つめていた。その瞳は、どこか鋭く、それでいて優しい光を宿していた。
「感情って、なんだろうな。」
颯太は珍しく自分の胸の内を口にした。
「感情?」
「俺はずっと感情を抑えてきた。何かを信じたり、祈ったりするなんて、意味がないと思ってた。でも…」
言葉を止めた颯太を見て、凛は少し笑った。
「人は感情で動く生き物よ。理性だけでは、きっと乗り越えられないことがある。」
「でも、それが弱さにつながることもあるだろう。」
「弱さを認めることが、本当の強さになることもあるわ。」
凛の言葉は、颯太の心に小さな波紋を広げた。それは、彼が意識的に避けてきた「感情」に向き合うきっかけを与えるものだった。
その日、颯太は避難所の外に出た。瓦礫が積み重なった廃墟の街を歩きながら、自分の中で何かが揺れ動いているのを感じていた。
ふと目に入ったのは、一人の少年だった。彼は瓦礫の中から小さなぬいぐるみを拾い上げ、それを大切そうに抱きしめていた。
颯太は少年に近づき、声をかけた。
「それ、大切なものなのか?」
少年は黙って頷いた。その目には涙が浮かんでいたが、同時にどこか誇らしげな表情をしていた。
「これ、妹の…大好きだったやつ。」
颯太はその言葉を聞き、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。自分でも理由が分からない。ただ、その少年の姿が、自分の心の中にある空洞を静かに満たしていくように思えた。
その夜、颯太は凛に打ち明けた。
「俺は、何かを見落としている気がする。」
「見落としている?」
「今まで理性だけで動いてきた。でも、それじゃ何かが足りないんだ。今日、少年の姿を見て、それを強く感じた。」
凛は微笑みながら、彼の言葉を静かに受け止めた。
「それが感情よ。颯太、あなたは少しずつ変わり始めている。」
「感情を受け入れることで、俺は強くなれるのか?」
「感情を受け入れることで、あなたは本当の意味で人間になれるのかもしれないわ。」
颯太の心の中で、何かが確かに動き出していた。それはまだ小さな芽のようなものだったが、彼の内側に新しい力を与えていた。
理性と感情――その狭間で揺れる颯太は、次第に自分自身の新しい在り方を模索し始めていた。そしてその変化こそが、彼を新たな旅路へと導いていく第一歩となるのだった。
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