第6話 宗教にすがる心
震災後の街は、無数の喪失と悲しみが溢れる場所となっていた。瓦礫の山の中で生き残った人々は、希望を見失い、それぞれの方法でその虚無を埋めようとしていた。颯太と凛がたどり着いた小さな避難所も例外ではなかった。
そこにいたのは、一人の女性――弓子。彼女は30代半ばと思われる、儚げで繊細な雰囲気を纏った女性だった。その腕にはいつも小さな木製の数珠が巻かれており、口を開くと決まって祈りの言葉を呟いていた。
「神様、どうかお導きください…。私たちに救いを…。」
避難所の隅で膝を抱えるように座る弓子は、祈りを繰り返していた。彼女の周囲には誰も近寄ろうとしない。祈りに集中する彼女の姿は、美しくもあり、どこか異様にも見えた。
颯太はその光景に目を止め、凛に囁いた。
「彼女は何をしてるんだ?」
「きっと、自分を支えてくれる何かを探しているのよ。」
凛の声は静かだったが、その言葉には深い理解が滲んでいた。
弓子の祈りは単なる形式的なものではなく、彼女の存在そのものを支える支柱のように見えた。それが無ければ、彼女はきっと立ち上がることさえできなかったのだろう。
その日の夜、颯太は弓子と話をする機会を得た。彼女は震災の時に家族全員を失ったと言う。
「夫と娘を探すために、避難所を巡り歩いたけれど…どこにもいなかった。」
彼女の声は震え、目には涙が溜まっていた。
「気づいたら、私は一人ぼっちで、何もかもが崩れ落ちていたの。そんな時、この数珠を持った人たちに出会ったの。」
弓子は手首に巻かれた数珠を見つめながら続けた。
「彼らはこう言ったわ。『祈りを捧げれば、必ず救いが訪れる』って。それから私は、毎日祈り続けた。」
彼女の祈りは、絶望の中で唯一の希望だった。しかし、その希望が彼女を救っているのか、それとも別の形で囚われているのか、颯太には分からなかった。
弓子の祈りは、周囲の人々にとっても議論の的だった。
「彼女の気持ちは分かるけど、あれは依存しているだけだ。」
「いや、祈りに救われることだってあるはずだ。」
避難所の人々の意見は分かれていた。弓子を非難する者もいれば、彼女をそっと見守る者もいた。
颯太は弓子に向き合い、素直な疑問を投げかけた。
「その祈りで、何かが変わったのか?」
彼の問いに、弓子は一瞬黙り込んだ。しかし、やがて穏やかな笑みを浮かべて言った。
「変わったかどうか分からない。でも、祈ることで心が少しだけ軽くなるの。」
その言葉には、彼女自身も葛藤を抱えていることが感じられた。
弓子の姿を見て、颯太は自分の中にある冷たさを感じていた。彼は信じることを拒み、理性だけを頼りにしてきた。それが正しいと信じていたのだ。
しかし、弓子の祈りは、彼に別の可能性を考えさせた。
「信じることで、何かが変わるのか…?」
颯太の中で小さな疑問が芽生え始めていた。それは、凛が語った「信じる力」とも繋がっているように思えた。
凛は颯太の隣に立ち、そっと言った。
「祈りは人を救うこともあれば、縛ることもある。だけど、大切なのはその人がどう感じるかよ。」
「どういうことだ?」
「祈りを続けることで彼女が前に進めるなら、それは彼女の力になる。でも、もしそれが彼女を縛っているなら、その時は彼女自身が気づく必要があるの。」
凛の言葉には、どこか慈悲深い響きがあった。颯太は、彼女の考えに少しずつ引き込まれていく自分を感じていた。
弓子は翌朝も祈りを捧げていた。しかし、その表情はどこか穏やかで、颯太には彼女が少しだけ強くなったように見えた。
「ありがとう、颯太さん。あなたに話を聞いてもらえて、少し楽になった気がする。」
弓子の言葉に、颯太は何も答えられなかった。ただ、彼女の言葉が胸に重く響いていた。
信じる心が人を支えることもある――その事実を、颯太は否応なく認めざるを得なかった。
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