第6話 過去が今を追いかける
玲奈が故郷での生活に慣れ、心の平穏を取り戻しつつあったある日、予期せぬ出来事が彼女の前に現れた。都会の喧騒、過去の記憶、それら全てが、彼女が新たに歩んでいた静かな日常を突き崩すように、突然、再び現れた。
その日、玲奈は梨花のカフェで働いていた。店内には、常連の客が集まり、柔らかな光が差し込む穏やかな午後のひととき。玲奈はカウンター越しにコーヒーを淹れながら、無意識に穏やかな笑顔を浮かべていた。カフェの落ち着いた空気が、彼女の心を包んでいた。しかし、その瞬間、カフェの扉が開く音が響き渡った。
振り返ると、そこに立っていたのは——
「玲奈?」
その声に、彼女の心臓が一瞬、止まったように感じた。まさか、こんな場所で再び会うことになるなんて。彼女が思い描いていた過去は、すでに封じ込めたはずだった。しかし、目の前に現れたその人物が、玲奈の元恋人、裕樹だった。
「裕樹……」玲奈は一瞬言葉を失い、その後、何とか冷静を取り戻して微笑んだ。「どうしてここに?」
裕樹は、少し気まずそうに笑って言った。「実は、こっちの仕事で偶然、こちらに来たんだ。せっかくだから、会いたくて。」
玲奈はその言葉に胸が締め付けられるような感情を抱いた。裕樹とは、彼女が都会で暮らしていたころ、一度深く愛した相手だった。あの頃は、互いに将来を夢見ていた。しかし、結局、すれ違いが続き、別れを迎えることになった。都会の忙しさと彼との関係は、次第に彼女の心を疲れさせ、心の中に空洞を作り上げたのだ。
「会いたくて……って。」玲奈は少し苦笑しながら言葉を続けた。「でも、私はもう、あの頃のようには戻れないよ。」
裕樹は少し驚いたように眉をひそめた。「でも、玲奈、ずっと君が僕にとって特別な存在だったんだ。あの頃、僕は君を失いたくなかった。」その声には、かすかな後悔と未練が込められていた。
玲奈はその言葉に、胸の奥が痛むのを感じた。裕樹との思い出が次々と蘇り、都会で過ごしていたあの時期の自分を思い出した。あの頃の彼との関係は、確かに幸せな瞬間もあった。しかし、彼女が今感じているのは、過去の楽しい記憶よりも、むしろその後に続く疲れと心の葛藤だった。
「裕樹、もう終わったことだよ。私は今、こっちの生活に満足している。」玲奈は冷静に、しかし心を込めて言った。「あの時、私は自分を見失っていた。でも、今は違う。私は、もう都会の生活に戻りたくない。」
裕樹はしばらく黙っていたが、やがて深いため息をついた。「分かってる。でも、君がどこで何をしていても、僕は君のことを忘れられない。」その言葉に、玲奈の胸は再び苦しくなった。裕樹の愛は、本当に真摯で、無条件のものだった。でも、それが今の彼女には重すぎると感じていた。
「でも、私はもう、あの頃のように戻れない。私が選んだ道は、今の生活なんだ。」玲奈は心の中で決めたことを、再確認するように声に出して言った。
裕樹はしばらく黙り込んだ。彼の目の奥には、悲しみと理解の入り混じった表情が浮かんでいた。彼が再び何かを言おうとしたその時、玲奈はふと、誠也のことを思い出した。誠也との時間が、どれほど自分に安らぎをもたらしていたか。彼の存在が、過去の自分を支える力となっていた。
「裕樹、私、もう迷わない。」玲奈は静かに言った。「過去は過去として、私は前を向いて生きていきたい。」
その言葉に、裕樹は最後に一度だけ深く頷いた。そして、玲奈に向かって小さく微笑んだ。「分かったよ、玲奈。君が幸せなら、それでいい。」
裕樹はそのままカフェを後にした。玲奈はしばらくその場に立ち尽くしていた。彼が去った後、彼女の心にはひとしきりの静けさが広がった。しかし、その静けさの中には、過去と現在が交錯するような複雑な感情が湧き上がっていた。
その夜、玲奈は星空を見上げながら、自分に問いかけた。過去の自分と、今の自分はどれほど違うのだろう。過去が今を追いかけてきても、もうそれに縛られない強さを持つことができるのだろうか。
そして、玲奈は自分の心に答えを見つけた。過去は過去として、今の自分を大切にしよう。もう、後ろを振り向くことはない。
玲奈はゆっくりと深呼吸をし、前を向いた。
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