第5話 彼の秘密

 玲奈が誠也と出会ってから、数週間が過ぎていた。日々の忙しさに追われる中で、誠也と過ごす時間は、彼女にとって心を落ち着かせる大切なひとときとなっていた。誠也は、温かい声と落ち着いた雰囲気で玲奈を包み込み、彼女が忘れかけていた安らぎを取り戻す手助けをしていた。


 ある日の午後、玲奈は誠也が働く自然療法の施設を訪れた。その日は忙しくない時間帯で、施設にはほとんど人がいなかった。玲奈は、誠也に頼まれて、施設内の植物の手入れをしていた。時折、誠也がやってきては、優しく声をかけてくれる。


 「玲奈さん、その花、ちょっとだけ左に傾けて置いてもいいかもしれませんね。」誠也が微笑んでアドバイスをくれる。玲奈はその言葉に従い、少しだけ花を動かしてみた。


 その時、施設の隅の部屋から、二人の話し声が漏れ聞こえてきた。誠也の声は穏やかで、もう一人の男性の声は、どこか懐かしさと悲しみが混じっているように感じた。玲奈はその声に引き寄せられ、足音を忍ばせて近づいていった。


 「どうしてあの時、彼女を……」その声は、玲奈には見覚えのあるものだった。誠也の友人、信一だろうか。


 「彼女を守れなかったんだ。」誠也の答えは、あまりにも静かで、痛みがこもっていた。


 玲奈は驚きのあまり、足を止めることができなかった。彼女は誠也が持っている強さと優しさの裏に、何か深い痛みを感じていた。それは彼が決して口にしない秘密だったのだろう。そして、その痛みが、今も彼の中で癒えずに残っていることが伝わってきた。


 「でも、玲奈には関係ないことだ。彼女には、もっと幸せな未来が待っている。」誠也の声は少し震えていた。


 玲奈は思わず息を呑んだ。誠也が話している「彼女」とは、まさか過去の恋人のことだろうか。その言葉の中に、失われた愛の重さが感じられ、玲奈は胸が締め付けられるような思いがした。


 誠也は、過去の痛みを抱えたまま、今の玲奈に優しさを注いでいるのだと理解した。彼はその苦しみを見せずに、ひたすらに他人を助け、癒している。玲奈が思わず聞いてしまったその話は、彼にとっては過去のものとして封じ込められているはずの痛みであり、彼が語ることのない秘密だった。


 「失った愛を抱えながらも、どうしてこんなにも他人に優しくできるんだろう……」玲奈は心の中でつぶやいた。




 その後、誠也が玲奈の元に戻ってきた。彼の顔には、いつもの落ち着いた笑顔が浮かんでいたが、その瞳の奥には、どこか遠くを見つめるような哀しみが宿っているように見えた。


 「玲奈さん、どうかした?」誠也が優しく声をかけた。


 玲奈はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと答えた。「誠也さん、あの……ごめんなさい、私、あなたが過去に抱えている痛みを、少しだけ聞いてしまったみたい。」


 誠也は驚いたように目を見開き、その後、静かにため息をついた。「玲奈さん、気にしないで。私はもう過去のことを話すつもりはないし、あの時のことは、もう大丈夫だと思っている。」


 玲奈は誠也の言葉に胸が締めつけられるような感情を覚えた。彼が過去を振り返りたくない理由が、何となく分かった気がした。それは、痛みを引きずりながらも、その痛みを誰にも見せたくないという強い意志から来ているのだろう。


 「でも、誠也さん、あなたの心の中にあるその痛みは、決して一人で背負うものではないと思う。私も、少しだけでもあなたの力になれたらいいな。」玲奈は心からそう思い、優しく言葉をかけた。


 誠也は一瞬、驚いたように玲奈を見つめたが、やがてその表情が柔らかくなり、少しだけ微笑んだ。「ありがとう、玲奈さん。君がそう言ってくれることが、何よりもありがたいよ。」




 その日、玲奈は誠也の秘密を知ってしまった。しかし、彼の痛みを理解することができたことで、彼との絆はより深くなったように感じた。そして、誠也もまた、過去の痛みを完全に乗り越えることができる日が来ると信じて、玲奈は静かに祈った。

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