大ガールズバンド時代
孔田多紀
朝めざめる前からバス香はゆううつだった。またあの時間と空間を過ごさなければならないのかとおもうと胃のあたりが重くなる。
わたされた譜面の複雑なリズムパターンを覚えようとしてなんどもなんどもはじめからやりなおすうち、なんどもなんども途中でこんぐらかっては座礁してまたはじめからになって、最後までたどりつけた試しがない。まわりのみんなもそうなのだ。カウントワンからスタートしていくつかのセクションをこわごわとくぐりぬけ、今度こそうまくいきそうだと安堵したとたん、きゅうに脱落者が積み重なる。だれもなにもいわないけれど失敗したとうの本人(たち)は責められるようなきもちになる。おわりの時刻まで厭な空気がだんだんと濃くなる。
三十人のドラマーにとりかこまれた中央のデス子だけが折れない視線をもっている。あの目に見られたくない。また演奏がはじまる。デス子の手の動きにあわせてガチガチガッチッガチガチガッチッとなにかをこきざみに強く打ち鳴らす音がする。バス香はそれが自分の前歯だということに気づいてめがさめた。「寝ている間の歯ぎしりが強いみたいで、このあたりすり減ってますね。お困りのようなら、先生とマウスピースの相談を」とこのあいだの歯科検診でいわれた。
身体をおこすとせまい部屋をますますせまくするように隅に陣取るデジタルドラムが視界にはいる。まだ学習指導要領がかわるまえの世代で学生のときはドラムをやっていたという母は「わたしたちのときは、補助金でこんなの買ってもらえなかった。ありがたいとおもうべし」といい、バス香を落胆させた。
リビングにでると父親が新聞をよんでいた。論壇誌の編集部員である父親は五年前にガールズバンド教育がはじまったときに小特集をくんで反対意見を紹介した。国民の大多数が不賛成でもいったん仕組みが変わると十年はなにもできないらしい。「パブリックコメントの受付はわずか三時間。合計すれば日本人の105%が反対する世紀の愚策が改革という名のもと子どもたちを苦しめる――」。
まだ小学生だったバス香は家にあったその小特集をよんでもどうともおもわなかった。そのころすでにYouTubeやテレビでは「はじまるよ! ガールズバンド教育」というプロパガンダCMがさかんにながされていて、アニメーションの女の子たちが音楽にあわせてキビキビ動いた。自分もあんなふうなことをするのかとおもっただけだった。それはどちらかといえばむしろすてきなことに見えた。
文科省の外局として前身の官民連携ファンド機構から発展して東京にできたクールジャパン庁は京都に移転した文化庁とはなにかと対立関係にあるらしい。その中の研究グループが十年ほどまえ、国内のみならず海外まで含めたガールズバンドコンテンツの年度毎の作品数とOECD各国の学習到達度調査(PISA)および国民総生産(GNI)の順位を比較すると、有意差が認められるという報告を発表、そこからガールズバンド教育の有効性とそれをメディア・コンテンツ事業として育成する意義を、大規模な調査・分析を通して提案した。どうも原因はそれだという。(男子にはその代わりとして投資信託の授業があてがわれ疑似ファンド運営をすることになった)
はじまりから五年たって、バス香の父親たちはまた小特集をくんだ。「(見出し)東大教授激白! ガールズバンドが国をほろぼす (リード)最高峰の芸術大学がクラウドファンディングで備品をまかない、多くの研究者が科研費の当落に一喜一憂する時世 東京大学のK教授は語る 〈われわれはボールペン一本の購入にも申請が必要。その同じ手間で高校では十代の希望者分の高価な楽器が毎年購入されては廃棄される――〉」
入学して授業がはじまるとき、「ガールズバンドのはじめかた」という冊子が配られた。教室の自分の席でそれをぱらぱらめくっていると、〈ガールズバンドってなんの役に立つの?〉という見出しのページがあり、フリー素材の提供を標榜するイラストレーターの手になる女の子のイラストで「女の子ががんばってバンドをやっている姿を見ると元気がでてくる!」というコメントが吹き出しの中に書いてあった。
そのとき隣の席に座っていたまだ親しくなるまえのデス子がそれをのぞきこみ、「小蠅みたいな奴らだな」といった。
「小蠅って?」
「自分でがんばれよ、ってこと」
そこから「COBAE」という曲ができた。C→B→A→Eというコードをくりかえしながら微妙に変えていくデス子作曲のそれを一年生のときは四人組だったバス香たちは四人のバンドアレンジで演奏した。
のちにコーラスだけの一人多重録音で作り直した「COBAE」がバズって各ストリーミングサイトの年間再生数一位をとったとき、デス子はインタビューで「アフリカのある地域では美人のことを〈小蠅にたかられる牛の糞〉に譬えるらしいですね。なんだかそのギャップが面白くって」と答えた。最初にいってたこととぜんぜん違うじゃないか、とそれを読んだバス香はおもった。
同じ東京都とはいっても中学までは離島に住んでいたデス子の母親はもともと有名な音楽家で、あるていどキャリアを積んだあとに移住し、年になんどか海外も含めた演奏活動に出る生活を以前から送っていたらしい。デス子の音楽に関する知識が生徒のみならず教師たちもふくめた周囲のだれよりも詳しかったのは、きっとそのせいなのだろう。
入学して最初の一学期は座学だった。SHOW‐YAを画期とするこの国のガールズバンドの歴史がたどられ、自分たちはどういうコンセプトで行くかを選ばされた。二、三学期のそれぞれの期日までに試験として、外部から誰でも視聴可能な専用のサイトに動画を二曲ぶんアップして、ジャンル毎に仕分けされ全国的に競わされる。
流されるままにバス香が席の近い子たちと最初に組んだのはポップス系で、コーラス兼タンバリン担当だった。曲はぜんぶコピーだったが、リーダーがえらぶ系統のそれにバス香はどうもなじめなかった。見たこともなく信じてもいないきみとぼくとか夢とか希望とかを口にしたくなかった。ほどけた靴紐を結びなおしたくなかった。制服は各自バラバラでよかったのにそのほうが動画ではねるからと撮影のときだけ揃えるのもなんだか嫌だった。
気づくと、バス香はグループから解雇されていた。脱退や解散はつきものだからと認められていたが、本人はどうしたらいいかわからない。そこにデス子が声をかけた。ちょうどパーカッションが欲しくてさー、という彼女が率いるそのグループには歌がなかったから、そこではじめてバス香は自分が添え物ではない、グルーヴに歯車のように噛み合うことの快感と責任をおぼえた。
二年生のとき、デス子は「今年はクラス全員でドラムだけのバンドをやろう」と提案した。最初は「いいねー」「最高じゃね―か」といっていたクラスメイトたちも、そのためだけに校庭の隅に設営されたホールに人数分のドラムセットが次々と運ばれてくる光景を前にすると、(え、マジでやるの?)と不安な顔をした。
当初はG→Bのコードを同じリズムでいっせいにはじめ、自然と揺らいでいくさまを波のように表現する「Girlish Boys」、C→F→Dの単音を輪唱のようにリジッドにずらしていく「牛の糞ディスコ(Cow Fun Disco)」といったコードすなわちタイトルの曲を作っていたデス子はそのとき、打楽器だけの新作に没頭しはじめた。この分野ではスティーブ・ライヒの「Drumming」、山塚アイの「77BODRUMS」といった先達があるだけに、それを超えようというデス子の意気ごみは相当だった。しかも、ドラム以外はなにも使わない。その意気ごみは他のクラスメイトたちを苦しめた。
かつてのように一クールの深夜アニメ全部をガールズバンドもので占めるだとか各コミック誌に一作は連載させるといった露骨な施策はさすがにもうなかったものの、スマホで、電車で、町の掲示板で、隙あらばガールズバンド教育への宣伝がめにはいってくる。むかしは気にならなかったそれが、このところなんだか息ぐるしい。
「あんた、やっぱりおかしいよ」
ミスで演奏が止んでできた間をぬうように、ビス樹がさけんだ。彼女は中学までは軽音部でギターをやっていた。高校では授業の導入にともない全国の軽音部は解散させられたので、去年は仕方なくクラスメイトの前でギターを弾いていたのだが、今年は全員ドラムということになったので、前からうっぷんがたまっていたのだ。
さいきんは週に一コマの授業でかならず一度はこういう衝突がある。バス香はこの時が苦手だった。去年まではそうではなかった。初心者三人を相手にするデス子の懐はもっとひろかった。それが今年はどうだ。三十人を統御するのは、やはりそれなりに難しいということなのか、少しのミスも許そうとしなかった。
その日はどうしたのだろうか、ふだんとはちがい、ビス樹に追随する声が続いた。みなドラムスティックとイヤーマフをほうりだし、デス子を追及する。あんたは他人に厳しすぎる。これまでみたいな組み方のほうがよかった。変に実験したって誰も見てない。なにより、やってて楽しくない。
……わかりました、とデス子はつぶやいた。それでこのグループは解散することになった。そのためだけに設営されたプレハブ小屋ふうのホールは撤去され、ドラムセットは必要な数だけを残して次の持ち主の元へと連れ去られて行った。他の子たちはこれまでどおり数人で新しく組んだ。
あぶれたデス子を見かねて、今度はバス香が彼女に声をかけた。するとそれを見越してでもいたかのようにデス子は、よーし、と提案した。こうなったら、コーラスとハンドクラップだけの二人ユニットだ。
しばらくしたある日の朝、リビングで登校準備をしながらスマホの画面をのぞいていると、デス子と上げた動画の再生回数が一夜で一億回を超えていた。はやる心臓で影響元を探したところ、海外在住のインフルエンサーがamazingでcrazyなコメントとともに紹介したのが原因のようだった。動画の中でバス香とデス子は「アルプス一万尺」のように互いの手や肘を用いたクラップをしながらドゥーワッ、ドゥーワッ、ドゥー、とミニマルに音声をくりかえす。するうちドリルンベースのようにだんだんと手数がふえてゆく。それまではすべて生演奏にこだわっていたデス子の高い要求は、音をループし重ねていくことでクリアされた。
そこから、全国各地のガールズバンドに異変が起こり始める。それまで吹奏楽器や生弦楽器はギターやベースなど電気プラグを用いたものと一緒に使用されなければならないという、懐メロと化したオルタナティヴ系に偏重した差別的な待遇に不満を溜めていた奏者たちの怒りが、一挙に爆発したのだ。
それまでなら色物と目されたようなグループが続々と誕生した。
四人全員コントラバス組は、アンプラグドへの道を開いた。
改造した廃品を使用した組は、与えられた楽器以外のオブジェクトへめをむけさせた。
心臓音を変換するアプリを開発してスマホだけを使う組は、作曲とは演奏とは何かと問うた。
そんなあたらしい動きが激しい競争を行ない、国内のみならず世界各地から称賛をえた。
いっぽうで、教育委員会は、「楽器」とは、「バンド」とはなにか、その要件をめぐり、問い詰められることになった。当初は硬直的なバンド観を抱いていた委員会側も、しだいに条件変更を迫られざるをえなくなった。
楽器とは、音を出す物体である。
バンドとは、音を出す一人以上の生徒である。
最後の牙城であったボーカロイドが認められるに至るころには、のちの制度崩壊はすでに誰もが予感していた。
アカペラのラップがはじまり、ポエトリーリーディングがはじまった。
演劇がはじまった。
一人の生徒が黙ってステージの上に三角座りでたたずみはじめると、今度は誰もが無言劇に熱中した。
*
職場のリフレッシュルームにあるテレビで国会中継が流れていたのを眺めていた昼休み、バス香は画面の中にデス子の姿を見かけた。
三年生のときにクラスが別れて以来、デス子との連絡は、あの親密な一時期にくらべると遠くなった。高校時代にあげた動画がどれだけ再生されても、バス香は「デス子と一緒に映っている人」でしかなかった。そして、それでよかった。それ以上のことは望んでいなかった。届かないとわかっていた。
卒業後、留学すると二年前に聞いて以来だったので、帰ってきていたのか、とおどろいた。帰国は一時的なものだった。彼女は参考人として呼ばれたのだ。
――昭和の後期、この国のトレンドは〈官から民へ〉でした。それが民から官になる。誰がそれをジャッジするのでしょう。まあいいや。私は今日ここに、代表としてきたつもりです。ある犠牲になった世代の一人として。
ご存知のように、我が国のコンテンツ産業の主力は長年、マンガ・アニメでありました。ドラマやコメディ、音楽は、それに比べると弱かった。少なくとも、お金になりにくかった。そこで、音楽分野に関するテコ入れとして、ある研究グループの提言から始まったのが、この施策であります。
具体的には、文部省と連携して、高等教育の必履修教科に「ガールズバンド」を取り入れる。「芸術・音楽」とは別にですよ。週一の単位として取ってもらう。大改革ですから、始めから反対は多かったのですが、改訂学習指導要領の目玉施策として組み込まれました。
しかし組み込まれたといっても、実際の教育を受ける若年層の意識を引き上げなければ、これは話にならない。そこでつまりここからが、官民連携、ということになるのですが、音楽産業だけでなくマンガ・アニメも含めた各業界との協業が始まります。
まず高等学校から申請される楽器・舞台の費用に補助がなされる。音楽塾や個人講師の受講料にも各家庭から申請があれば同様に出す。のみならず、町中に広告を出す。テレビ番組のスポンサーになる。
さて、始めたからには結果が問われます。大方の予想通り、結果は芳しくなかった。そもそもどこを出口としているのか。先述の研究グループによるブループリントは次のようなものでした。
そこでいうガールズバンド教育のメリットとは何か。楽理を理解する知的能力。楽器を演奏する身体能力。楽曲に対し批判的に吟味する美的能力。メンバー間で意見を調整するコミュニケーション能力。教育目標としては、被教育者である生徒のこれらを通じての全人的な能力発達が一つ。
そして産業目標としては、教育によって下支えされた質の高い音楽の輸出。そして音楽業界のみならずその他のメディアにおいても、音楽を扱ったコンテンツへ注目度を高め、途切れることのない機運を生み出す、といったことが挙げられました。
では、実際の現場はどうだったか。
とうぜん問題は山積しました。
まず教員不足。これは経験者を外部講師として確保することでなんとか乗り切った。生徒自身の士気。要領には四〜五人組を基本として指導することとあるが、そうでない人数の場合どうするのか。解散やソロ活動を教育としてどう扱うか。家庭内での練習を強制するのか。軽音楽部はどうなるのか。聴こえに障害を持つ生徒は。発表の場は。単位認定の基準は。……怨嗟の声が上がりますが、四年目あたりからはだいぶスムーズに回りだします。
しかし見てください。これは二年前に、卒業者を対象に行われたアンケートです。「卒業後も何か楽器に携わりたいか」という質問に「いいえ」と答えた人が八割もいる。これは明らかに教育の失敗ではないでしょうか。
……個人的な思い出を話すのをお許しください。私はある離島で生まれ育ちました。小中学校はあるけれど、高校からは島外です。同級生には女子が一人いました。中学三年の冬、彼女が妊娠していることがわかりました。相手は島外の高校の音楽教師です。彼女はその年の夏、島外の高校の見学に行った際、その学校のガールズバンド教育の教師として赴任していた、現役バンドマンと出会ったのですが、そこで……。
彼女はその年、出産して島内に留まることを選びました。都内の同じ高校に受験するとばかり考えていた私は、彼女になんといっていいかわかりませんでした。
「一緒にバンドやりたかったなあ」と合否発表も終わった春先、なにを話題にしたらいいのかと考えあぐね、思いついたことを私は口にしました。
「……あー、ごめんね」と彼女はいいました。「あたし、もうメンバーいるから」
「え?」と私は聞きました。一緒にコンサートに行ったりCDを買ったりしたことはありますが、彼女が何か音楽活動をしているとは聞いたことがなかったからです。
「一回ビート刻んだら、それはもうバンドでしょ!」と彼女はいいました。そしてお腹をさすりました。
私は彼女のお腹に耳を近づけました。まだそれほどふくらんでいないそこからは、服の布越しになにが聞こえるはずもありませんでした。しかしそのときの私には、聞こえるような気がしたのです。
すぐに気づきました。
彼女のいう「ビート」とは、胎児の心臓音、それと彼女自身の脈拍でした。彼女のいう「バンド」とは、そのことでした。右の耳殻に体温を感じながら私はそのとき、たったひとりの聴衆でした。
そしてこの瞬間、私は悟りました。
――あらゆる人類は、ガールズバンドの一員である。
「一回ビート刻んだら、それはもうバンドでしょ!」という彼女の言葉を敷衍すれば、それはもう、真理としか思えませんでした。
ひるがえって、ガールズバンドの定義とはなんでしょうか。男性メンバーが一人でもいれば、ガールズバンドではなくなるのでしょうか。そうではない。では逆に、男性メンバーの比率がどこまで上がればガールズバンドではなくなるのか。
いま述べたように、「一回ビート刻んだら、それはもうバンド」だとしたら、あらゆる人間は、ガールズバンドの一員か、元一員です。心臓部から血液を送り出し、なんらかの音を出す一人以上の人間がこの地上(ステージ)にいたら、この地上(ステージ)にいる人間はもう、ガールズバンドです。人類誕生以来、このビートは今に至るまで一度も途切れたことがない。
したがって、ガールズバンド教育の必要は、もはや存在しません。あらゆる人類は、すでに常にガールズバンドだからです。
……皆さんの耳には、聞こえていますか。かつてガールズバンドの一員だった、いや今もそうである皆さんの耳には。
――ロックはださい。もう死んでいる。
そうです。たしかにロックはださい。もうとうの昔に死んで腐敗臭すらただよわない。
――とりわけ、ガールズバンドは、今や、ブルマと同じくらいださい。
そうです。たしかにガールズバンドはださい。……しかし、それはなぜ?
――そうだったのか。
一日分の野菜がとれるジュースの紙パックをストローですすりながら、バス香は思った。
――私は、いまでもガールズバンドの一員なのか。
*
次の学習指導要領改訂のとき、「ガールズバンド」は教科から外された。
それから十年後、職場の忘年会の余興のために、バス香はその年はいってきた、フルートを吹けるという新人のドス代とバンドをくんだ。スタジオで他の同僚を待ちながら二人きりになったとき、新人がバス香に聞いた。
「あのー、先輩って、……〈大ガールズバンド世代〉の人ですよね」
自分たちの世代が、そのように蔑称で呼ばれることがあるのを、バス香はなんどとなく聞いていた。そのたびに受け流していた。
「あー、そうだけど」
「わ、やっぱり!」新人のドス代は顔をほころばせた。「前から聞きたいとずっと思ってたんですけど、機会がなくて……それで、どうだったんですか?」
「どうって?」
「いえ、わたし……昔から周囲に流されるタイプで、フルートも、吹奏楽部で余りの役目をあてがわれた感じだったので……だから、ガールズバンドが自然にくめたら、楽しそうだな、って」
「そんないいもんじゃなかったよ」とバス香はいった。「吹奏楽部のときのあなたと、たぶんみんな、おんなじような感じだったろうと思うよ」
「ふーん……」とドス代は納得いかないふうにいった。
「……きみ、デス子って知ってる?」
「いえ」
「そうかあ……むかしバズったこともあるんだけど。ちょっと聞いてみてよ」
いいながら、バス香は動画サイトを検索している。
ちょうどその夜、地元に帰ったデス子は、かつての同級生が島で運営するカフェをセッションのために訪ねていた。
デス子の動画チャンネルがバス香の検索に引っかかり、都内のスタジオに持ち込まれたスマホの画面に、デス子たちの様子が配信された。
バス香と同年齢くらいの、知らない人が、クラシックギターをかき鳴らしながら、腹の底から声を絞り出す猛獣のように唸っていた。
その横では、彼女に似た、しかし遥かに若い、おそらく十代の女性が、タンバリンを鳴らしながら、軽快にスキャットで歌っていた。
デス子はその横で、なにやらあやしげなボイスパーカッションを唱えていた。
これをいきなりドス代に見せるのはさすがにヘビーだなあ、と思い、バス香は躊躇した。
「ちょっと先輩、どうしたんですか」とドス代がいった。
「ウーン、少し待ってね」とバス香はいった。
それからしばらく、黙ってドス代と画面を眺めた。
そのうち、ほかの二人がはいってきたので、バス香はスマホをしまった。
シニア嘱託でギターのボス美はややもするとドス代とは二世代離れている。かつて全国のアマチュアバンドが出るので流行ったランキング番組上がりで今も活動している人たちとは地元の中学が一緒だったそうで、さすがに貫禄がある。「ゴスちゃん見てこの今月号の表紙。〈教養としてのレスポール〉だって。信じらんないよね」
ついこのあいだまで初心者だった総務でベースのゴス都はバス香より一回り上で、もともと要領がいいためか勘所のつかみかたがうまかった。「じゃあもう、ボッさんなんか、大教養人ですね」
アンプにつないだボス美がひずんだオープンコードを漫談師のようにジャッと鳴らすと、バス香は自分がどうしようもなく興奮してくるのを感じた。
ゴス都が可聴域ギリギリとしか思えない低音を地を這い回るように蠢かし、ドス代は天上から降りてくる光のように息を吹きもらした。
バス香はそれにあわせてキックをきざんだ。
瞬間、今になった。
四人はせっせと協力する。
バス香はなぜか、めを閉じてしまう。開けようとおもっていても閉じてしまう。
すると白い闇がひろがる。
ビッグバン以来はじまった時間と空間すべてをきりきざんでゆく小蠅のはばたきのように、バス香は両手足をうごかした。ここには過去も未来もなかった。赤字決算のことも病気がちな両親のことも別れかかっている恋人のこともなかった。
いや、あった。卵パックに覆われた壁を裏がえせばこの部屋が宇宙そのものだった。
終わってしまえばそれはただの錯覚だとしかおもえないのに、二つのスティックを握っているときだけは、バス香はたしかに手にしている。振動のひとつひとつが、今ここにいない誰かのあらゆる感情とむすびついて、自分という器にながれこんでくる。
その、よろこびが。
その、かなしみが。
大ガールズバンド時代 孔田多紀 @anttk
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます