薔薇の色を教えてよ、咲希

　うん。私の世界には色が無かったんだ。赤も青も黄色も無かった。生まれたときから、ずっと白と黒とその間しかなかったんだ。

　そうだよ。

　みんなの世界には色があるって教えてくれたのは、咲希なんだから。

　幼稚園のときのこと覚えてる？

　みんなが花壇に咲いている花を指差して、色の名前を言ってるとき、私は薔薇を指差して、何も言えなかった。何を言っても間違ってる気がしたから。咲希だけが、「それは薔薇だから赤だよ」って教えてくれた。うん。そうだったね。良かった。覚えていてくれて。

　そのあと、花壇の花を見ながら絵を描くことになったけれど、私はどのクレヨンを使えばいいのか、わからなかった。薄い灰色？　濃い灰色？　みんなはどんどん絵を描いてる。私は焦ってしまって、正解かわからないクレヨンで画用紙に花を描いてた。そうしたら、先生が私の絵を取り上げた。ものすごい顔をしていたのを覚えてる。苦笑いって言葉は、こんなときに使うんだと、幼い心にもわかったよ。

　先生が「ちゃんと塗りなさい」って、絵を返してくれたけれど、私は怯えているばかりだった。どうしたらいいのかわからなかったし、何をしても間違うと思った。それで先生にまた怒られると思って震えていた。

　そのときだよ。

　咲希が助けてくれたんだ。

　クレヨンを渡しながら「ここに色の名前が書いてあるから、これ見て塗るといいよ」って言ってくれて。それでも私はどこに塗ればわからなかったから、おそるおそる「これは何色？」と聞いたんだ。咲希はわかってくれたみたいで、「花のところだよ」って教えてくれた。そうやって色を塗ることができた。私にはその絵はモノクロの濃淡にしか見えなかったけれど、先生が笑ってたから、これで正解なんだと、やっとほっとした。

　あの日、私は世界が色づいているのを知ったんだ。

　咲希がそれを教えてくれたんだ。

　薔薇の花は、赤。

　紫陽花の色は、青。

　ひまわりの色は、黄色。

　そうやって咲希は世界に色があることを教えてくれた。

　嬉しかった。とても。

　この世界には、きれいとか、ときめくとか、そんなものはないと思ってたから。

　それだけのことを咲希は私にしてくれたんだよ。

　だからね。

　助けなんかいらないなんて言わないで。

　泣いてるの？

　うん。それはわかってるから。

　あとで、うちのお母さんにそのことを言ったら、すごい顔して怒ってさ。色のことは、もう言っちゃだめなんだとわかった。その晩、お父さんと大喧嘩しているのは、いまでも覚えてる。おばあちゃんからもらったお皿とか全部割っちゃって。私がこうなるのって遺伝ってやつみたい。お父さんはそれを隠してんだって。うん、咲希も知ってるよね。あれからうちはおかしくなったんだ。

　電話してて大丈夫かって？　ここ、新幹線のデッキだから。そう、ドアが開いてすぐの場所。

　うん。いま小田原を過ぎたみたい。もう少ししたら東京に着くから。

　待てる？

　そう。良かった。

　小学生になっても咲希は私のそばにいてくれた。ひとりで信号待ちをしていたら、いつ渡ったらいいのかわからなくて泣きそうになってたとき、咲希が走ってきて、私の手を引いてくれた。

　林間学校でバーベキューしたときも、みんながおいしそうと言っててもよくわからなかったし、焦げてると友達に怒られても、私にはわからなかった。このときも咲希が助けてくれたね。うん、あれはちょっと苦かったね。

　色がわからない私は、形に頼るしかなかった。

　でも、全部がそうじゃない。

　「赤い色のところに集合」って言われても、形を言われないと行くことができない。

　色の違いが判らないから、どんな色が正解かわからなくて、図工の時間はいつも怖かった。

　雨が降りそうって言われても、私には灰色の空しかわからない。

　きれいな花の色って言われても、私には灰色の濃淡しかわからない。

　だから、私はまわりの人の顔色をうかがいながら、正解を探すような人間になった。

　間違えたら「寝ぼけちゃって」、「ごめん、冗談だよ」と言えば、みんなに許してもらえた。

　そうやって、私はずるい人になったんだ。

　普通の人になろうとして。

　それでも咲希は私のそばにいてくれた。友達として、笑って泣いて、みんなに怒ってくれた。

　でも、私が正解を間違えて言い訳をしていたとき、少し悲しそうな顔をしていたのは覚えてる。

　そうやって咲希にばかり助けられていたら、なんだか申し訳ない気がしてきたんだ。

　自分で何とかしないと、って思うようになったんだよ。

　お母さんに言うと叱られるから、まず、お父さんに相談したんだ。

　病院に行きたいって。この目を治したいって。

　お父さんは、ただ黙って聞いてた。

　「そうか」としか言わなかった。

　何もしてくれなかった。

　あのときにはもう私のことを捨てようと思っていたんだと思う。

　うん、そうだよ。5年生のときの2月かな。あの雪の日。お父さんが出ていった日。

　怒り狂ったお母さんが、私を外に放り出した。「産むんじゃなかった」と言って。

　私はたぶんこのまま死ぬんだろうと思った。

　だからね、あの日、咲希に謝りたかったんだ。私の友達になってくれたのに、死んじゃうことになってごめんなさいって。これまでやさしくしてもらったのに、何も返せなくてごめんなさいって。

　裸足で歩く雪の道は刺すように冷たくてさ。でも、そんなことより、もう咲希に会えないと思ったら、そっちのほうが悲しくなって、泣いちゃって。

　うん。そうだね。

　凍る道にうずくまってたとき、咲希とばったり会った。二人のお母さんを連れていた咲希と。

　咲希の家に連れてこられて、すぐにお風呂にいれさせられて。浴室のドア越しに、咲希はずっと話を聞いてくれたね。その間に咲希のお母さんたちは、あちこちに電話してくれて。助かったんだと思ったのは、咲希が手を握って一緒に寝てくれたときかな。

　あれから私はおばあちゃんのとこに行くことになって。咲希と泣いて別れたのは、ずっと覚えてる。泣いてくれてありがとうって思ってる。え、咲希もそうなの？　そっか。ちょっと嬉しい。

　そのあと咲希の家で何があったか、わからないけどさ。

　うん。でもね。

　あの日、咲希がいないところで、お母さん達に聞かされたんだ。

　咲希が私にやさしくしてくれたのは、咲希も普通じゃなかったからって。

　二人のお母さんは、お父さんがいない家族であることをずっと悩んでたって。

　お母さん達、少し泣いてたよ。

　わかってるよ。いま咲希が家出しちゃってるのは。

　お母さんたちに腹を立ててるのもちょっとわかる。

　なんで、こんなふうに産んだのかって、怒ってるのもわかる。

　大好きなお母さんたちをそんなふうに思ってしまって、自分に腹を立ててることもね。

　私だって、いじめられたもの。

　バカにされたもの。

　そのたびにへらへら笑っていた自分に怒ったもの。

　普通ってやつに負ける気持ちもさ。私にもわかる。

　結局、私は普通にはなれなかったから。

　だから、会いに行くよ。

　だから、待ってて。

　え、新幹線代？

　いま、それを聞くの？

　ほら、私、奈良のほうにある高校にいるんだ。全寮制のとこ。おばあちゃんが入れてくれて。前にも話したでしょ？

　咲希がたいへんって話をしたら、寮のみんなが少しずつお金を出してくれたんだ。

　すぐ会いに行けって。

　いい先生がいてさ。車で名古屋まで送ってもらって。

　泣かないでよ。

　もう新横浜を出たから。

　あと少しだから。

　うん。ちょっと夜景がきれいだよ。咲希って、こんなとこに住んでるんだね。家とビルの明かりが星みたい。

　ほら、こっちも一生懸命なんだから。

　歯が浮きそうなこと言ってるんだから。

　笑ってよ、咲希。

　もう。

　笑わないなら、とっておきを話すね。

　高校を卒業したら、私も東京に出る。

　そしたら、いっしょに暮らそうよ。

　また、私に色の名前を教えてよ。

　え、プロポーズみたい？

　そうかもしれないね。

　ちょっと、笑わないでよ。

　うん……。

　笑ってくれて、やっと安心した。

　私にとって咲希はそんな人なんだから。

　私に色を教えてくれた人なんだから。

　だから、泣かないで。

　ずっと、笑っていて。

　東京駅、着いたよ。

　八重洲口のほう？

　うん、そっちいく。

　あ、いた。こっち！

　良かった。

　心配したよ。

　ほんと心配したんだから。

　でも、私へ真っ先に連絡くれたから。

　だから、嬉しい。

　え、後ろに持ってるの、何って？

　はい。

　じゃーん。

　薔薇の花束。

　数は少ないけどね。

　名古屋の駅ビルに花屋さんがあったから、一本ずつ自分で選んだんだ。

　咲希、花が好きだから。笑ってくれるかなって思って。

　でも、ごめん。

　色がわからないから、きれいな花束になってるか自信がないんだ。

　ねえ、咲希。

　教えてよ。

　どんな色してる？

　え？　うん……。そうなんだ。

　これが幸せ色って言うんだ。

　そうだね。私もそう思う。

　咲希。お願い。

　私といっしょに幸せ色に染まろうよ。

　誰にもわからなくていいから。私達だけの色に。

　うん。そうだね。

　私も大好きだよ、咲希。