阪神淡路大震災の時の私。
白良歩夢
阪神淡路大震災の時の私。
今から30年前、1995年1月17日5時46分。兵庫県南部を中心とした、マグニチュード7.3の直下型の巨大な地震が起こりました。
これは、その当時の私のお話しです。
20代前半の私は、自宅の自分の部屋のベッドで気持ち良く眠っている中、突然の揺れに寝ぼけながらベッドから起きました。
なんだ?揺れてるのか?と部屋を見回すと、部屋のタンスや本棚が今までに経験した事の無い揺れ方をしています。
ガタガタとかグラグラとかじゃなくてガッタンガッタンと揺れるんです。しかもその揺れが収まりません。
ベッドから起きたのは良いが、何をしたら良いのか分からず、部屋の真ん中でウロウロするだけ。
さっきまで寝ていたものですから、余計にまともな判断が出来ないんですよ。
その当時の私の自宅は昔ながらの日本家屋で、大黒柱を中心に各部屋の仕切りの襖を外せばグルリと家中を一周できる様な家で、襖の隣の部屋には父と母が畳に布団を敷いて寝ています。
この揺れの中、隣に寝ている両親は起きている気配がしない。
寝ているのか?
呑気なものだな?と思いながらも、大した地震では無いのか?俺が寝ぼけているのか?とか思いながら、どうしよう?と考えました。
(タンスや本棚が倒れそうで、支えようとしても、どっちかを支えでもどっちかは倒れるぞ?さて、どうしよう?)
と考えてる時に目に映ったのがストーブの上にあるヤカン。
(ストーブが倒れてヤカンの中の水がこぼれるのは嫌だなあ。
ヨシ!ヤカンをストーブから降ろそう!
もし、タンスや本棚が倒れてもベッドには届かないから寝ていても大丈夫だな。
寝ている間に揺れは収まるだろ?もう少し寝たい…)
そして嘘のように思えるかも知れませんが、呑気にヤカンをストーブから降ろし、まだ揺れている中、目覚まし時計が私を起こすまでまた寝たのです。
後に分かったのですが、私の地域では震度4の地震だったようです。
それまでに震度3や4の地震を稀に体験していましたが、数秒間だけ一瞬グラッと揺れて収まる感じでしたが、この地震は非常に激しく、ものすごく長く感じた事を覚えてます。
朝、起きるといつものように慌ただしく朝食を摂り、身支度を整えて出勤の準備です。
母は「大きな地震やったねえ。お父さんは起きないし、タンスはガタガタ揺れるし、蛍光灯が落ちそうで怖かったわ」
とビクビクしてました。
郵便局に着いて、ロッカーで制服に着替えた後に、普段寄らない食堂になんとなく寄ると食堂のテレビからとんでもない映像が目に飛び込んで来ました。
高速道路が倒れているのです。
テレビの前には局員が群がり「大変な事になったなあ…」と、ざわついていました。
私の実家では朝にテレビを見る習慣が無いので、その地震の凄さを分からずに出勤して、その凄さを目の当たりにしたのがこの高速道路が倒れている映像です。
「え!?何これ!?何が起きたのですか!?」
「お前?朝の地震知らんのか?」
「え?知ってますよ?スゴイ揺れましたよね?」
「その地震で倒れたんや、高速道路が」
「え?えええっっ!?」
場所は神戸。
私達の地元から随分と離れているのに、あの朝の地震の揺れ… え?嘘でしょ??
本当に信じられませんでした。
まるで映画の作り物の様な映像がリアルの映像としてテレビに映っているのです。
その後火災が起き、燃え広がり、神戸の街並みは姿を変えていきます。
テレビは連日その神戸の姿を伝えました。
時間が経ち、炊き出しも始まり、救援物資もようやく届く様になります。
その中、郵便屋さんが少しでも手紙や荷物が届く様に配達を再開した映像もテレビで流れる様になり、震災に強い地域密着の郵便局の姿がありました。
私の職場の郵便局も、連日救援物資のゆうパックが窓口に持ち寄られてきます。
(このゆうパックが神戸に送られるのか…神戸の人達は本当に大変だなあ)と思いました。
当時の神戸の郵便屋さん、本当にお疲れ様でした。
それから約10年後でしょうか?
妻と一緒に神戸にドライブに出かけ、神戸ルミナリエを観覧に行った時の事です。
まだライトアップに時間があるので神戸ハーバーランドに立ち寄りました。
そこで、神戸港の震災跡がそのまま残してある場所があり、当時の地震の被害を目の当たりにすると恐ろしくなりました。
実際、テレビの映像を見ても伝わらない事ってあるじゃないですか?
その場所にはその当時の地震の規模の大きさを訴える凄さがありました。
まだ、訪れていない方は機会がありましたら訪れてみてください。
震災や防災への考え方がより身近になると思います。
その後、熊本地震、東日本大震災、能登半島地震と大きな地震が日本を襲います。
特に東日本大震災の時は日本国民の皆さんが、これから日本はどうなるのか?と恐怖したのではないでしょうか?
日本は地震が多い国です。震災とは切っても切れない国なのかも知れません。
我が家では玄関前に家族分の避難グッズを入れたリュックを用意する様になりました。
万が一の備えは必要ですね。
能登半島地震の復興もまだ進んでいません。
能登半島で飲食をする事も復興の手助けの一部になるのかな?と思い、今年は能登半島ツーリングを実現したいなと一人のバイク乗りとして考えております。
最後に、阪神淡路大震災から30年。
風化させない手助けになるかも?と思い当時の私の実体験を書きました。
その被害に遭われた方々のご冥福をお祈りします。
阪神淡路大震災の時の私。 白良歩夢 @gekosuke
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