後編
彼女と連絡が取れない。
いや、待て。今月、彼女は電話に出ている。短い時間でも、間違いなく電話に出ている。
電話をかけた友人は、電話先の彼女は特に慌てているわけでも助けを求めているわけでもなかったという。
どういうことだ?
彼女の父親が、考えても分からんと、彼女の会社に電話した。
まもなく帰国する予定の本人と連絡が取れない旨を説明し、大至急連絡が取りたいと頼んだ。
その際、家族と電話ができない程、休憩時間も休日もなく働かせているのか? 今日中に娘と連絡が取れなければ警察にしかるべき届け出を出す。と淡々と脅していた。
このまま待つと言っても、いつ連絡が来るかは分からない。ここは一旦お開きにしよう……とは何故ならないのか。俺には引っ越し準備があるのだが。
俺が七人前の夕飯を作っている間に(何故だ)、何気なく彼女の残していった荷物を母親たちが開けている。
そして六人が一斉に俺を見た。
やめろ。そんな目で見るな。
俺だって荷物を詰めた本人だ。分かっていて敢えて言わなかったのに。
彼女の母親の手には、コテコテのジュエリーケースに入ったキラキラの指輪。
俺が彼女に贈った、約束の印。
連れて行ってもらえなかった、俺との未来、だ。
……一生物だから、頑張って奮発したのになぁ。
結局、三年前の時点で、もしかしたらもう彼女の気持ちは「そういうこと」だったのだろうか。
タマネギが目にしみるな。くそ。
母親たちが何とも言えない顔をしていると、俺の父親が、そう言えばあれはどうした? と言い出した。
彼女の父親も、ああ、アレですか、と賛同し、母親たちも、そうよね、アレはどうしたのかしら? と俺に聞いてくる。
頼むよ……アレって何だよ。
分かるけど。
三年前、結婚の挨拶をした時、婚姻届の証人欄に父親たちの署名をもらっていた。帰って来たらすぐ出せるように、お互いの記入もしておいた。
アレは、彼女に渡してある。
見た感じ、置いていった荷物の中にはなかった。整理整頓が苦手で、物をよく無くす彼女だが、お守りに持って行くと言っていた。
指輪を置いて行ったのに?
……婚姻届は捨てたんだろうか。
黙る一同。
ヨシ、飲もう! と六人は大量の酒を買いに走り(逃げたとも言う)、俺が作ったキーマカレーを食べて日付が変わるまで飲んだ。俺以外が。
おい、何故この三組の夫婦はタクシーで俺ん家に来たんだ?(そして何故タクシーで帰らない? 送るけど)
第一便で彼女の荷物を何とか乗せて、狭くて申し訳ないが隙間に彼女の両親を乗せて家まで送る。
彼女の会社からは、現在彼女は出張中だが、ハウスキーパーによると個人の携帯を忘れて行ってしまったらしく、引き続き出張先へ連絡を取っているので、本人と連絡が取れるのにもう少し時間がかかる旨の連絡があった。
本人へ家族へ連絡を取るように伝えるので、帰国や結婚など個人情報は直接聞いてくれとはぐらかされた。
ただ、安心した。生きて、働いている。
彼女の両親からは、本人から連絡があるまで話は保留にして欲しいと言われたが、彼女から連絡が無くなって既に九ヶ月経っていること自体が、彼女にとって俺の存在はもう無いと言うことだと思う。
俺の転勤は決まりだし、この部屋の契約も切ったので、彼女の荷物を引き取ってもらって、ここでけじめとしたい。
変な事件に巻き込まれていないのであれば、ただ、俺がフられただけの話だ。
彼女の父親は頭を下げて詫びてくれたが、親は悪くない。
きっと、彼女も悪くない。心変わりして、昔の男を切っただけ。
もちろん、俺は悪くない。
縁がなかった。
そう思わないと、俺の悪かったところをいくつも上げては自己嫌悪に陥って、最後には彼女の悪かったところを攻撃してしまう。
ものすごくしんどいわ。
転勤して家も引っ越す。知り合いのいない新しい環境で、少し静かに生きていきたい。
落ち着いたら連絡するからと、親にも友人にも住所や新しくした携帯番号は教えなかった。SNSも全部やめた。緊急時は会社に電話してくれればいい。
最後に、空の受信フォルダが虚しいメールアカウントを削除して、俺は住み慣れた町を出て行った。
逃げたって言うな。
男だって、大人だって、つらいものはつらい。
泣いてないやい。(目から鼻水)
四月。桜が咲くどころか、雪が解けだして泥と混ざってぐちゃぐちゃしている町のワンルーム。ここが新しい俺の城。(会社の寮だけど)
最初は狭っ! と思ったけど、一人暮らしには十分だった。むしろなんだか快適だ。掃除も楽だし、狭くてもトイレとバスが別だし、収納も一人だと十分だ。まあ、台所が狭いのには苦労したが、一口コンロでいかに効率よく料理するかに挑戦している。
転勤して三週間。俺は、思った以上に彼女が好きで、フられたことに傷ついているし、人妻となった彼女に未練タラタラなことを思い知らされている。
仕事が忙しく、考える暇がないのがありがたいが、夜は、本当に辛い時がある。
失恋して死んでしまう人の気持ちが痛いほど分かる。
フられると、自己肯定感が根こそぎ死滅するんだ。そして、新しい恋なんてものは、ただ怖いだけのものになってしまった。
次フられたら、人間として立ち直れなくなりそうだし、お金出せばおねーちゃんにイイことしてもらえるし、そうこうしている内に三十になって、三十代もあっという間に過ぎていくんだろうなぁというのが想像に難くない。
俺は、ものすごく卑屈で臆病になってしまった。
何とか生きているのは、仕事のおかげでもあるし、仕事仲間に本当に恵まれたからだと思う。
仕事が楽しいと感じるのは、人間関係が大きい。こいつらとはこの先もずっと一緒だと勝手に思う程、気が合う連中だ。
だから、俺はまだ大丈夫。(たまに泣くけどな)
きっと、もう少ししたら、彼女が帰ってきたら左薬指に付ける予定だったお揃いの指輪も処分できると思う。たぶん。たぶんな。
そう、思っていたんだよ。本気で。
昼下がり。自分で詰めた弁当を食堂で広げる。何故か俺の弁当のおかずを狙って湧いて出る奴らがいるので、弁当を死守するための
今日は卵焼きと唐揚げとからし菜のおひたしだ。
俺の作る卵焼きは出汁を使わない甘いやつ。唐揚げはニンニクを使わず、ひたすらすりおろし生姜と醤油で揉む。おひたしは旬の菜っぱで作ると、季節で味が変わるから好きだ。
世間様はもうすぐ大型連休に入ろうとしているが、うちの部署は観光も絡んでいるので稼ぎ時で忙しい。昼飯くらい一息つきたい。
最初は遠慮していたのに、最近は米しか持ってこなくなった同僚たちが、最後の唐揚げをかけて戦っているのを横目に(日に日に参戦者が増えてんな)、テレビのニュースを見て、時が止まった。
彼女が映っていた。
三年と一ヶ月ぶりに見る姿だった。
何やら世界的な研究成果を発表したチームの一人として紹介されていた。
もう、彼女の人生に俺は登場しないけど、俺の人生にはこうやって出てくることはあるんだな。
なんか不思議な気分だ。
会社で良かった。まだ男としての意地があるから泣かない。……後で一番遠くのトイレ行こう。
彼女の夢は、砂漠を森にすることだった。小難しいことは俺には分からないけれど、その夢に近づいたのだろうか。
だとしたら、良かったな。
素直にそう思った。
正直、泣かないのに精一杯でニュースの内容なんて頭に入って来ない。
だから尚更、彼女の姿と共に映る文字の意味が分からなかった。
彼女の名前は、田中璃子、だ。
あ、結婚したから名前変わったのか。
って。
「はああああああ!?」
「どうした
いきなり奇声を発した俺に、食堂の皆が心配して声をかけてくれるが、それどころじゃない。
どういうことだ。どういうことだ!?
そうだ、俺は
千枝なんて名字、簡単な漢字なのに親戚以外会ったことのない珍しい名字だ。
誰? 誰が彼女と結婚した? うちに男は俺だけだ。(姉が三人、父は母にメロメロなので員数外)
従兄弟か? ……いや、アイツは現実世界に興味はない。
伯父さんか? ……所在不明で確かめようがない。(独り身の旅人)
又従兄弟か? アイツか! アイツならあり得るが、一体彼女とどこで知り合ったというのか。滅多に山から下りてこないのに。
後は男といったら……生まれたばかりの甥はないだろうから、……女か? 女もあるのか? 都会では同性結婚みたいな制度もあると聞く。
千枝一族は圧倒的に女系だ。(そして強い)
誰が彼女と結婚してもおかしくない。
一族全員容疑者だ。(大混乱)
「千枝さーん、外線でーす。奥様からー」
新入社員の女性が、明るい声で俺に電話を回そうとする。
思考回路がグルグルしている所に思いも寄らない声をかけられて硬直してしまう。
え、俺に奥さんはいないよ?
間違いなんじゃないの?
奥さんになるはずだった人が誰と結婚したのか脳内検索かけてる所なんだから。
それとも、オレオレ詐欺の妻版か?
そういうのは本人に回しちゃいけないよ。
という目をしたら、新入社員は汲み取ったようだ。
「でもぉ、『十六の時に
アリマス。
でも、とりあえず俺も泣いていいだろうか。(もう涙出てるけど)
俺の全てにおいての尊厳は今死んだ。
結論だけ言おう。
事情はほぼあの新入社員が言ったとおりだった。(あの子の記憶力と再現力すげぇな)
電話の後、彼女は帰国した荷物そのままで俺の所に飛んできた。
なんで指輪置いてったか聞いたら、「なくしそうだから」と。その指輪していたらセクハラも避けられたんじゃ?
そもそも、婚姻届を出したなら、なんで言ってくれなかったのかと聞いたら、「だってもう、一緒に暮らした時点で結婚したつもりでいたから。届けなんて後で言えばいいと思って、忘れた」と。
いつ出したか尋ねても、「さあ? 後で戸籍取れば分かるけど、たぶん去年の夏くらい」と、本当に届けなんて興味なさそうに言う。
それ、大事だから。社会人としても大事だから!
俺の彼女は、いや、妻は、やべぇヤツだった。
狭いワンルームで隙間無く抱き合いながら、更にぎゅうぎゅうにくっついてくる彼女を抱きしめる。俺は(もう)泣いてないぞ。
そんなやべぇ彼女のことをあっさり受け入れた俺が一番やべぇヤツだって?(自覚ある)
彼女が大変な時にメールをする間隔を開けたこととか、返事がなくていじけて失踪したこととか、おねーちゃんの店に行ったこととか(なぜバレた)、彼女にお仕置きされて、別に喜んでないからな!!(そんな目で見るな)
彼女がもぎ取ってきた和解金の額がえぐい程やべぇヤツなことを知るのは、彼女が会社を辞めて家をぽーんと買ってきた時だった。
自然豊かなこの雪国で、あまりある資金にモノを言わせて研究するという。
俺の妻はやべぇ……くらいにカワイくて、愛しい。
やベぇヤツだった 千東風子 @chi_kochi_ko
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