優しいけれど、過保護な兄 琉斗編
第4話 優しいけれど、過保護な兄(1)
──琉斗、大丈夫よ。
琉斗は手を握られていた。その手は母によく似ていたが、とても冷たかった。母に似た声音で、女は言った。
──今日から、私が貴方の”お母さん“
そう言って彼の顔を覗き込んで、嬉しそうに笑った女の顔は、母には似ているようで、似ていなかった。琉斗は、また泣き出してしまいそうだった。顔をひしゃげて俯く。心の中のお絵かき帳を、黒いクレヨンでぐるぐると塗りつぶしてしまいそうだった。
その時ふと、琉斗の手が、止まった。その頭を、小さく温かな手が撫でてくれたからだ。顔を上げると、妹が、あどけなく微笑んでいた。
琉斗は誰かから黒いクレヨンの代わりに、赤いクレヨンを手渡された気がした。
ページが、捲られる。
白い紙に戸惑いを感じながら、1本、赤い線を描く。
悲しさでなく、別の感情で涙が出た。
これが
【優しいけれど、過保護な兄】
江戸時代に、武家流香道から派生した
その瀧由流と縁の深い山梨県の絶念寺に、琉斗とその父であり、第9代目家元である
現段階で瀧由流を継ぐのは、琉斗という事になっている。彼は中学卒業後高専に入学して寮生活を始めて以来、ずっと実家を離れている。24歳の今、平日はシステムエンジニアとして勤めているが、土日は実家に帰って父の指導の元、香道の稽古を続けていた。これは中学時代琉斗が、卒業後は寮に入らせてもらうために、自ら父に誓った事だった。
10畳の和室には、10人ほどの客と解説役の父が、カタカナのコを描く様に座す。体験なので、今まで香道をやった事のない客がほとんどだ。その多くは女性だった。この香道体験は事前にインターネットで募集された。今日は2回席が設けられているが、即日で予約が埋まった。これは都内ではなく地方で行われるイベントとしては異例のことだ。その理由は、本日の手前を披露する“香元”にある。
襖が開かれ、琉斗が香道具を乗せた盆を手に、静々と歩んできた。その姿に、声こそ出さなかったが、客の何人かが息を呑むのがわかった。
彼は今日、紺色の袴を着ていた。琉斗は180cmまでは行かないが、高身長だ。その体格の良さもさる事ながら、顔も大変な男前である。片方の目にややかかった烏羽色の髪に、きりっと上がった形の良い眉。はっきりとした下三白眼の黒い瞳。幾分か厚めの下唇に、彼特有の耽美さがあった。
「お香をはじめます」
琉斗が座して挨拶をすると、皆一様に首を垂れた。
一連の所作をした後、腰元の袱紗を取り出す。
「今日、聞いて頂くのは八重霞と──」
父は解説を始めた。香道において、香りは嗅ぐものではなく“聞く”ものである。
聞香炉に盛られた灰の上に、小さな四角いスライドガラスのような“銀葉”を置く。その上に、小指のほんの先ほどの香木を載せる。しばらくすると、香りが立ってきた。彼の筋張った無骨な手によって行われるその所作の細やかさに、父の解説も気もそぞろに、皆見惚れているようだった。本日ここに体験に訪れた客の多くは、琉斗が目当てだった。
数年前であるが、やはり彼が香元として香道体験を行った時のことである。その時は、百貨店の催事場でデモンストレートのように行われた。その近くを通りすがった客なのだろう。その時の琉斗の写真を、SNSへ投稿した輩がいた。無論、無断でだ。それが、話題となった。それがどう話題となってバズったかは、ご想像にお任せする。そこから、異様な申し込みのされ方をするようになった。実家の母屋で行われている香道教室への稽古希望者も増えた。
とはいえ、香道というのは中々に高尚な芸道だ。その主役となる香木は、長い年月を経て生まれる自然の産物となる。昔は金の価値と同様と言われていたが、今は香木の方が高い。また、香道は総合芸道と言われ、礼儀作法ではなく、書道、漢詩や源氏物語をはじめとする古典への教養も必要である。
琉斗は左手の上に香炉を水平に載せて、右手でそれを覆う。親指と人差指の間から香りを聞く。華やかな中に、無情さを思わせるような苦味があった。
「前髪、伸びすぎじゃないのか?」
午前の香席を終え、控室までの渡り廊下歩いていると、前を行く父がそう苦言を呈してきた。琉斗はやや前髪にかかった横髪を耳にかける。
「……ご婦人方には、こういう影のある男の方が寧ろ印象がいいんじゃないですか」
香席は無論であるが、琉斗は普段、笑うという事をしない。というか、そも愛想がない。ひどく冷めた目をしているのだが、そう言った男ほど何故か、もてるのは世の常なのだろうか。
「お前そういう事を自分で言うかね」
「実際生徒さんは増えたでしょう」
その言葉に、父は言葉を詰まらせた。実際に、そうである。栄藤家が何で財を成しているか。母の栄藤幸子えとうゆきこが経営している線香の製造メーカーである、紀平香堂の収益もさることながら、主たるところは不動産収入だ。栄藤家はかねてより地主であったため、黙ってても金は入ってくる。とはいえ、瀧由流の継承のため、お弟子さんが多いことには越したことはない。それに、香木の価値は今後益々上がる。流派存続にためにも、財源が増えることは、大いに結構である。
「そういう所は彰斗にそっくりだな」
「そうですか?」
「あぁ。そんなようなことケロッと言うとこととか。顔もよく似てるしな。あ、でも朋子さんと結婚してからは、ずっと一筋だったぞ」
「それは、当たり前だと思いますけど」
「まぁそうだな。当たり前、だな」
父のその言葉に、琉斗は嬉しいということはなく、むしろげんなりとした。
やはり顔が似ているのか──。
では、寿雄の妻の栄藤幸子とは、琉斗は血が繋がっていないのか。結論から言えば、繋がっている。幸子と、琉斗の実の母である紀平朋子きひらともこは、姉妹である。つまり幸子と琉斗もまた、伯母甥っ子の関係なのだ。これには、やや複雑な事情がある。
幸子と朋子の実家である紀平家は、大正時代に起こした線香の製造業で財を成した。かねてより付き合いのあった栄藤家と紀平家は、寿雄達の父親同士──、つまり琉斗の祖父達の仲が特に良く、年端もいかない互いの長男長女を許婚とした。
それが、栄藤家の寿雄と、紀平家の幸子である。そして2人にはそれぞれ、弟と妹がいた。それが栄藤彰斗と紀平朋子だった。
寿雄と幸子の祝言の1ヶ月前の話だ。弟の彰斗が、妹の朋子を連れ立って、両家の前で頭を下げた。
──朋子さんとの結婚を許してください、と。
実はこの2人は密かに付き合っていた。その時すでに朋子の腹の中には子供がいた。
紀平家の祖父は最初こそ激昂したが、すぐに悪い話ではない、と思い直した。家業を継がせるつもりだった長男は、自分との折り合いがつかず絶縁状態だ。幸子は栄藤家との約束があるとして、朋子に継がせるしかないわけである。しかし、負い目があった。
朋子は幼少期より幸子たちと共に暮らしてはいたが、妻との間の子ではなく、愛人との間の子供だった。それに、彰斗は中々に仕事ができる男だとも聞いていた。
──彰斗君が婿養子に入るのであれば、許可しよう。
栄藤家の祖父は、自らの息子がしでかしてしまった事なので、紀平家のその許しに感謝し、彰斗と共に頭を下げるよりなかった。
こうしてその1ヶ月後、2組の婚礼は同日盛大に行われた。そしてそのさらに6ヶ月後、朋子は元気な男の子を産んだ。その男の子は、紀平琉斗と名付けられた。
「あ、すまん電話だ。もしもし、おぉ!どうだ調子は?」
寿雄の、父の携帯が鳴った。彼は立ち止まって話しをし始めた。琉斗は池の鯉を見る。餌を投げるフリをすると、ぱくぱくと口を開いて皆集まってきた。その様子に思うところあって、動画をメッセで送った。返事はすぐ返ってきた。画面に“朱里”の文字。それを見ただけで、琉斗の顔が自然に綻んだ。琉斗には4つ年下の妹がいる。
何不自由なく明るく育っていた琉斗が影を抱えて生きるようになったのは、彼が5歳の時だ。琉斗の両親である彰斗と朋子が、交通事故で2人して亡くなってしまった。
当時、紀平家の祖父は既に他界しており、琉斗は寿雄と幸子の養子となった。そして彼には妹ができた。それが当時1歳だった栄藤朱里だ。
新しく父と母の代わりとなった2人は優しかった。優しかったが、この栄藤家、というのが異様だった。
まず栄藤家には、稽古なども行う日本家屋の母屋と、寿雄と幸子が結婚した当初に建てられた一般住宅の離れがあった。ちなみに琉斗が栄藤家に連れてこられた時、栄藤家の祖父は施設に入っており、祖母はすでに他界していた。基本、朝食と夕食は離れで家族一緒にとる。けれど寿雄は母屋で生活をし、幸子と琉斗と朱里は、離れで暮らしていた。寿雄と幸子は家庭内別居していた。
幸子は独身時代から家業である紀平香堂の経営に関わっていたが、結婚後も本人たっての希望で仕事を続けていた。代表取締役であった彰斗が亡くなってからは、代わりに幸子がその役を継いだので忙しく、家を空けることが多かった。幼い琉斗や朱里の世話は、住み込みのベビーシッター兼家政婦が行っていた。
いつも両親の間で眠っていた琉斗にとって、夜1人で見上げる部屋の天井というのは悲しいものだった。それを見かねて、家政婦が朱里を連れて琉斗の部屋にやってきて、枕元で絵本を読んでくれる時があった。朱里は連れてこられた時は、むすっとした顔をしているが、琉斗を見た瞬間笑顔になり、同じ布団に横になった。「るいにぃ」と微笑まれてぎゅっと朱里に抱きしめられると、温かくて心地が良く、琉斗はよく眠れた。
家政婦が住み込みでなくなった後も、朱里は夜不安になると母の部屋ではなく、琉斗の部屋を訪ねた。彼女が6歳ぐらいになるまでは度々添い寝していた。
琉斗にとっては可愛くて温かな朱里の存在だけが、この家においての心の支えだった。
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