異世界転生という病

楽天アイヒマン

異世界転生という病

「先生、また202号室の患者が発作です」

『またか、薬はいつ投与したっけ』

「3日前です」

『はあ、全く…池田くん、薬と拘束具と点滴器具を用意してくれ』

 その時、絶叫が廊下の静寂を切り裂いた。

「かしこまりました…先生、今の聞こえました?」

『聞こえたよ、いつもと同じだ。僕はまともだ、ここから出してくれ。だいたいこんなところだろうな』

「寛解はいつになるのでしょうね」

『わからない、けど最近増えたよなあ、異世界から転生してきたんだという妄想は…』

 リノリウム貼りの廊下に革靴の音を響かせながら、N先生は苛立たしげに歩いて行く。看護師の池田は慌てて彼の跡を追いかけた。


 N先生は優秀な精神科医だった。しかも仕事に対して熱心であり、成功は約束されているようなものだった。そのような順風満帆の彼を悩ますのが、件の患者たちだった。彼らは特に中卒、高卒のブルーカラーに多く、自分はこんなところで終わるわけがないと言った自意識が肥大し続けた結果、精神に異常をきたしてこの病院に運ばれるに至ったのだった。

 彼らは皆一様にこういった。僕はこんな所にいて良い訳がない、早く世界を救わないと。僕は、僕達は異世界からきたんだと。それらの言葉を無視して、N先生は職務に励んだ。診断をし、処方箋を出し、患者に薬を投与した。しかし、症状は多岐化し、いろいろな薬を出しては、また次の妄想が現れるといった、完全なイタチごっこの様相を呈していた。

 考えてみてほしい。今の世の中どこかおかしい。持たざる者はさらに持たざるようになるしかないではないか。そうやって全てを失ったものが縋り付くのは、全てをやり直せる異世界という妄想しかないではないか。

 社会の底の底をさらって漉し取られた人間がたどり着く場所がN先生が在籍する、この県立の精神病院なのだ。 

 こんな状況だから、N先生は患者とわかりあうということを忘れてしまっていた。諦めとか、寛容とか、それらの感情を通り過ぎた場所に立っていた。患者が何を言おうが、もはやどうでも良かったのである。そのようなドライな心と医学への情熱が、彼を優秀な精神科医たらしめていた。


 『池田くん、すまないね。君今何連勤目だ?』

 「12勤目です。気にしないでください。先生は?」

 『ん?何がだ?』

 「何連勤かって話ですよ。先生、疲れてるんですか?」 

 『すまないねえ、もういつ休んだか覚えてないんだ。疲れ過ぎて一周回って元気だよ』

 「なら安心しました…先生、この部屋です。薬の準備はできています」

 『よし、気をつけて。患者は凶暴化している』

 「はい、この部屋の患者は2年前にも入院しています。今回と同じ症状で。薬が聞けば良いのですが。」

 『それは私が判断するから大丈夫だ。池田くん、患者に対することは私を信頼してくれ。』

 「はい先生、すみませんでした」

 『謝ることはないさ、ほら、鍵が空いた。行こう』


 部屋の中は酷い有様だった。散らかって汚物に塗れた服に、投げ出されて嫌な匂いが立ち上っている食事。どうやったのかわからないが、焦げ跡まである。

 「佐々木さん、入りますよ」

 部屋の中は薄暗かったが、隅っこにうずくまっている患者を見つける事は容易なことだった。

 佐々木と呼ばれた男は背は低く痩せ型で、特徴のない顔立ちをしていた。N先生の姿を確認すると、目がギョロリとむかれ、唇の端から涎を垂らしながら、切羽詰まった様子で捲し立ててきた。

 「また薬ですか?何度も言っているじゃないか。僕はまともだ」

 『佐々木さん、今朝の薬は飲んだんですか」

 「あんなの飲まないよ。あんたたちの陰謀には気付いているんですよ」

 『陰謀なんてないさ、僕達は君を助けたいんだ』

 「いいや、匂いでわかるんだ。あの薬にはマンドラゴラが入っている。飲み込むと僕は死に、新しいマンドラドラの苗床になるんだ。あんた達はそれを待っている」

 『そんなもの入ってやしないよ。池田くん、準備を』

 「はい先生」

 池田は佐々木のそばまで行くと、手際良く拘束具を取り付けた。佐々木は抵抗したが、食事もろくに取らず痩せ細った体は、女性の池田でも容易に抑え込めた。

 「放せ、はなしてくれ、嫌だ、死にたくない」

 『少しちくっとしますよ』

 N先生は手早く消毒を済ませると、佐々木の腕に注射器を突き立てた。薬の効き目は凄まじく、半狂乱だった佐々木はすぐに呂律が回らなくなり、まもなく寝息を立て始めた。

 『よし、点滴の準備をするから、池田くんはその間部屋の掃除を頼む』

 「はい先生」

 池田は嫌な顔ひとつせずに汚れた部屋を掃除し始めた。その動作はキビキビとしていて、彼女の優秀さを示している。その背中をN先生は複雑な表情で見ていた。

 池田は看護の専門学校卒業後、N先生が働くこの県立病院に就職した。彼女の第一印象は「すぐに辞めそうだな」といったよくない印象だった。髪色は金色に近い茶髪で、口調も荒い。男性看護師や医者との距離感は近く、すぐに結婚して辞めるだろうと思っていた。

 しかし周囲の予想に反して、池田は10年近くこの仕事を続けている。患者からのクレームもない。動きもテキパキしており、変人揃いの医師たちとも難なくコミュニケーションが取れる。

 きっと彼女なら、もっと条件のいい病院にも就職できたはずだろう。そこで玉の輿に乗ることだってできたはずだ。なのになぜ、こんな県立の精神病院なんかに…それが周囲の、そしてN先生からの彼女への評価だった。

 「先生、掃除終わりました。佐々木さんの状態はどうでしょう」

 『ん、ああ、問題ないよ。安定している』

 「良かったですね…私たまに思うんです。異世界から転生してきたという彼らの考えが本物だったらって」

 『なんだと、君も疲れで妄想が始まったか?』

 「冗談きついですよ先生。そうじゃなくて、彼らは現実に耐えられなくて妄想の世界から抜け出せなくなってしまった人たちじゃないですか?」

 『まあそれも原因の一つだろうな』

 「彼らに対して、現実は悪くないってきっぱり言い切れないくらい、今この世界は辛いものだと思うんです。彼らの妄想が本物だった方がまだ救いがある」

 『ほう、明るい君からそんなネガティブな言葉が出るとは珍しい』

 「そうでもないですよ先生、私の精神分析やってみますか?」

 『機会があればぜひやりたいね。絶対面白い。』

 「変なこと言ってないで、仕事に戻りましょう」

 池田は薬品や器具を手早くまとめると、ひと足さきに部屋を出た。

 残されたN先生は、佐々木の寝顔をじっと見つめた。先ほどまで絶叫していたのが嘘のような穏やかな顔だ。彼の額をそっと撫でて、ため息をつく。前回退院した時から2年ほど経つ。誰にも聞こえないような小さい声で一人ごちる。

 『きっと大丈夫って言ったじゃないか』

 だが返事はない。ふと自分は天涯孤独の身なんじゃないかと思う。いくら患者に対してドライだとしても、何度も入退院を繰り返されるのは心に来る。一度穏やかな顔で退院したはずなのに、今となっては鬼の形相で叫んでいる。「僕は地球から来たんだ」と。

 やはり池田くんのいうとおり、この世界は狂うのが当たり前なくらい辛いのかもしれない。精神科医が狂うというのも、なかなかナンセンスな話だと思うが。


 病室から出て、厳重に鍵を閉める。廊下には分厚い扉が等間隔に並んでいる。異変がないか、注意しながら事務所へと戻る。変わり映えのない風景のためか、佐々木への対処で疲れたせいか、ひどい眠気が襲ってきた。途中で自販機に立ち寄り、ブラックのキャフィを買う。これがあれば眠気もどこかへ行ってくれる。行儀が悪いと思ったが、歩きながらキャフィを飲み干し、出口の近くにあるゴミ箱まで歩いていく。自動ドアが開くと強い月光がN先生の心を揺らした。

 そうか、今月は月がふたつある月だった。しばらく夜空を見上げる。二つの月は煌々と夜の街を照らし、その周りを真っ赤な星たちが楽しげにチラついている。

 しばらく夜空を眺めた後、キャフィのペットボトルをゴミ箱に投げ捨て、事務所に戻った。事務所では池田が淡々と書類の整理をしている。

 『今外に出たら、月がふたつ綺麗でね。君もみてみるといいよ』

 「先生、月が綺麗っていうのは遠回しな告白らしいですよ」

 『なんと、それは初耳だな、誰の言葉だい?』

 「夏目漱石です、明治の作家の…」

 『誰だいそれ、聞いたことがないな』

 「…無名な作家ですからね」

 そういうと池田は不機嫌そうに作業に戻ってしまった。なぜ彼女が不機嫌になったのか、今でもわからない。

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