ちゅーしちゃった?

 新城虎道の朝は早い。

 登校の支度をするには時間が有り余る、空がまだ薄暗い内に目が覚める。幼い頃から日課になっているジョギングに行く為だ。この日はどうやらアラームが鳴る時間より早く眠りから覚めたらしい。


 もっとも、早起きする習慣があるとはいえ、虎道は目覚めがいい人間というわけではなかった。いや、布団に入る時間は人並みで、それでいて朝は早い為、睡眠時間は短くむしろ悪い方といえる。

 まず寝起きは、意識自体はあっても思考がしばらくはっきりしない。昼間は強烈な睡魔に襲われ、教室や生徒会室で五分から十分程度の仮眠を取るのが常となっている。

 きちんと眠る時間を確保するべきとも思うが、もう何年も続いてる生活スタイルを見直すのもなかなか難しい。


 瞼を重く感じながら、いまだ覚めやらぬ思考回路のまま、ぼんやりと天井を見つめる。


 ……違和感を覚えた。


 すぐ近くから、何かの視線を感じる。

 というか、今更になって自分の隣に何かがあるのに気づく。


 顔を横に向ける。


 ━━目の前に、同じベッドの上で、自分をじっと見つめる卯衣の顔があった。


「おはよう、お兄ちゃん」


 虎道は思わず身を引き、壁に頭をぶつけた。


「…………!」

「……大丈夫?」


 声にならない声で悶える虎道を、卯衣は心配そうに覗き込んでくる。


「布団には入ってくるなって言っただろ……!」

「言われたけど、わたしは返事してないもん」


 記憶のほとんどが戻ってから、卯衣の遠慮がなくなってきたように思う。甲斐甲斐しいだけではなく、鳴りを潜めていた甘えたがりな性格が顔を出すようになってきていた。

 ……記憶がなくなる前の状態に戻っただけといえば、それまでなのだが。

 

 幾分か痛みも引いて、虎道は恨みがましい表情で卯衣の方へ向き直る。


「お兄ちゃん、寝癖ぴょこんってなってる。かわいい♪」

「…………」


 無言で髪を押さえる虎道。

 何だかすっかり毒気を抜かれてしまったようだった。


「……走ってくる」


 手短に言うと「うん」という言葉が返ってくる。返ってきただけ。


「…………どいてくれ」

「どうしようかなぁ」

「どうしようかな、じゃないよ」


 卯衣はじっとこちらを見上げた後、ふっと笑う。

 そして、両手を虎道の方に突き出した。


「はい」

「……何の真似だ」

「アメリカじゃ親しい人たちは本当に挨拶でハグしてたって、絵馬ちゃん言ってたよね」

「アメリカではな。ここは日本だけど」


 新城家に来る前、絵馬は母親の鹿乃とともに世界各地を旅してきた。

 いつか洋画を観ながら、『アメリカの人って本当に挨拶で抱き合うの?』と卯衣が訊ねたとき、『初対面の人にはしないけど、家族とか友人にはしてたよ』と言っていたのを思い出す。


「アメリカニゼーションって知ってるよね?」

「俺が知る限りだと、日本は挨拶まではアメリカ化してないな」

「……じゃあキスする?」

「ハグしようか」


 卯衣の提示された代案を、虎道はノータイムで却下した。


「最初から素直にしとけばいいものを……」


 何故か悪役のような台詞を言いながら、卯衣はもそもそと虎道に近寄り、彼の胸に体を預ける。

 背中に彼女の腕がまわり、頬が軽く押し付けられる感触がした。


 虎道は、その腕の細さと頼りなさを意識する。振りほどこうと思えば、大して力も込めずに簡単にほどけてしまう。━━だからこそ、虎道にはそれが出来なかった。


「あったかいね……」


 耳元で囁くような声。

 鼓動が静かに伝わってくる。

 部屋の中は朝の冷たい空気が残っているのに、なぜか心までじんわりと温かくなるようだった。


「…………」


 虎道は言葉を返さず、けれど拒むこともしなかった。


「ドキドキしてる……」

「……うるさい」


 思わずぼそりと呟くと、卯衣はくすくすと笑う。

 直視するのが躊躇われ、虎道は明後日の方へ視線を逸らす。


 ……ドアの隙間からこちらを伺う絵馬と目が合った。


「…………。……いつから?」

「……うさちゃんが、とらくんの寝顔を見ながら『ふふっ』って言ってるところから」


 虎道が起きる前から、ずっと見られていたらしい。

 無言で頭を抱える虎道。もう一度寝直して、目が覚めてからのすべてをリセットしたい気分だった。



  ☆



 ジョギングには、たまに絵馬もついてくることがある。この日も朝早く目が覚めたので、虎道の部屋にやってきていたらしい。

 そして、そこには既に卯衣の姿があったということ。


 外に出ると、朝の空気は澄んでいて、遠くの空は淡い青に溶けるような色をしていた。

 まだ人通りも少ない静かな街を、虎道と絵馬は並んで走る。


 ひんやりとした風が頬を撫でる。

 体を動かすうちに、次第に心地よい熱が内側から広がってくる。

 それなのに、虎道の胸の内にはどうにも晴れないもやもやが渦巻いていた。


「……なんでお前、声をかけなかったんだ」

「だ、だって……ちゅーするのかと思って」

「しない!」


 ━━いつかの灯未の言葉を思い出す。


『義理っていうか、ギリギリだけどね』


 そうだとは思っていたが、どうやら妹たちは何かしら感づいている様子。

 けれど、どこまで知られているのか虎道に確かめる勇気はなかった。


 ……そもそも今は、そんな空気ではない。


「でも……ドラマとかのそういうシーンの空気になってた……!」


 虎道はぐっと言葉に詰まる。

 そんなつもりはまったくなかった、はずだ。……少なくとも、ついさっきは。

 けれど、妹の言葉を完全に否定できないあたりが、何とも言えない。


「……俺の話はもういいだろ。お前だって……ほら、闘志のこととか言われたら、その……アレだろ」


 らしくもなく、たどたどしい言葉で妹に反撃する。


「なんで、そこでとうくんが出てくるんすか!?」


 案外効果があったらしく、絵馬は少し慌てた様子で大声を出した。

 顔が少し赤くなってるのは走っているせいだけなのか。


「俺は覚えてるぞ。お前、初めて闘志と会ったとき━━」


 そこまで口にして、ようやく少し冷静になる。

 

 ━━いや、なんで俺は朝から妹とこんな話をしているんだ……?


「……やめよう」

「……うん」

 

 兄妹の間に生まれた、説明しがたい気まずさは、帰宅するまでとうとう消えることはなかった……。



  ☆



 朝のジョギングを終え、新城家の玄関をくぐる。

 まだ冷たい空気の名残を感じながら靴を脱ぎ、室内に足を踏み入れた瞬間、背後で絵馬が聞こえるぐらいのため息をついた。


 ━━元気の象徴のような絵馬がため息とは、めずらしい。……いや、原因は自分だが。


「おかえりなさい」


 卯衣が二人を出迎えてくれる。

 そして、どこかよそよそしい雰囲気の兄妹を見て、ぽつりと一言。


「……ちゅーしちゃった?」

「するか!」


 ……朝からこんな調子では、今日一日が思いやられる。

 完璧と評される少年の、完璧とは程遠い朝の光景だった。

 

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その鼓動を感じていたい あにうえ @aniue

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