第二幕 そよ風のフーガ
神童
横浜の外れにある冠帯区。
ここには“神童”と呼ばれる少年がいる。
その名は新城虎道。阿賀野中学校の生徒たちの間で、その名前を知らない者はいない。
なぜなら彼の名を冠した噂話が、校内中どころか冠帯区全体にまで広がっているからだ。
「新城くんだ」
「噂通り目つき悪いな……」
「オーラが違う」
「でもやっぱり目つきが……」
校内をひとりで歩く虎道の背中を、噂話が追いかけてくる。
虎道はそれを耳にしながら、心の中でため息をつく。
━━そんなに目つきが悪いか……。
彼は密かにその指摘を気にしていた。
「未経験の剣道で、県内最強の子を倒して弟子にしたってホントかな?」
「野球も始めたばかりの年で、リトルリーグで優勝したんだって」
「小学生陸上の記録は見たことある」
本当にあった話だけでも、彼を“神童”と呼ぶにふさわしい。
だが、噂話というものは、それだけでは収まらない。
話はそこから広がり、形を変え、尾ヒレ背ヒレがついていく。
「教室を血の海にした」
実際は工作中にカッターで深く手を切っただけだ。
「家庭科室を全焼させた」
調理実習でのボヤ騒ぎだ。
「妹が十二人いるらしい」
現実は五人。それでも十分多いが……。
そして果てには、
「たった一人で暴走族を一夜で壊滅させた」
「会社を経営していて国家予算に匹敵する財力がある」
「人生二周目」
「異世界転生者」
もはや現実離れした噂話も交じり始める始末だ。
虎道自身は、小さくため息をついてそれらを聞き流す。
そもそも神童というあだ名。これがよくない。
あまりに仰々しい。虎道はそう思っている。
なぜそんな風に呼ばれるようになったのか。その理由は単純だ。
しんじょう、こどう。
その名前が、口から耳へ、耳から口へと伝わるうちに、いつの間にか“神童”になってしまったのだ。
『ククッ……! し、神童……! 兄ちゃんが神童……!』
その名を初めて耳にしたときの、妹の灯未の反応が未だに忘れられない。
『かっこいい! うちも、とらくんのこと、神童って呼ぶ!』
『やめてくれ』
虎道はその日、初めて絵馬に頭を下げた。
窓の外からは、昼休みの賑やかな声が流れ込んでくる。
グラウンドでは、ボールを追いかける掛け声や笑い声が響き、太陽の光が廊下のタイルに反射して、ちらちらと揺れていた。
廊下を歩いていた虎道の視界に、一人でプリントの束を抱えている 、クラスメイトの
腕いっぱいにプリントを抱え、慎重に足を運んでいる。
翠鳥ほどではないが、小柄な彼女ではプリントの束がやけに大荷物に見えてしまう。
距離が近くなると、彼女が小さく呟く声が聞こえた。
「慎重に……慎重に……よし、あとちょっと……」
両手が塞がったまま、目の前の道のりだけを見つめている。
歩くたびに紙がわずかに揺れ、それに合わせて指先にぎゅっと力を込めるのがわかった。
「佐藤さん」
「……新城くん?」
声をかけられた実秋は、一瞬驚いたように目を瞬かせた。
けれどすぐに、柔らかく微笑む。
「こんにちは」
「こんにちは……って、挨拶は何か変じゃないか? これ、教室までだろ?」
虎道は特に躊躇もなく、積み重ねられたプリントの三分の二ほどを取った。
手の中の重さが半分以下になったことで、実秋の肩がわずかに軽くなったのが分かる。
「悪いよ、昼休みなのに」
「購買に寄って、教室に戻るところだったんだ。だから気にしなくていい」
「……やっぱり新城くんは優しいね」
「普通だろ」
「ううん。新城くんって、昔からそういうとこ変わらないよね」
「……ほら、行くぞ」
虎道は視線を逸らし、プリントを持ち直して歩き出す。
隣を歩く気配に、ちらりと実秋を見た。
彼女は小さく笑い、軽い足取りで並んでくる。
「……新城くん、去年や一昨年のこと、まだあまり思い出せてない感じ?」
「ああ。
「……そうなんだ」
実秋は少しだけ考えるように目を伏せた。
「新城くんは、わたしが困ってたとき、必ず助けてくれたよ」
虎道はその言葉に少し驚きながらも、表情を崩さず答えた。
「俺が?」
「うん。わたし、ドジでノロマだし……。委員長だってしっかりしてるからじゃなくて、誰もやりたくないから引き受けてるような感じで……。だから失敗ばっかりで、副委員長の新城くんに頼ってばかりだった」
「…………」
「一年生の途中から新城くん、生徒会副会長になって、クラスの副委員長も別の人になったんだけど……それでも、こんな風にいつも助けてくれてた」
虎道は言葉を選ぶように少し黙った後、低い声で言った。
「……少しだけ思い出したけどさ。佐藤さん、そんな風に自分を卑下してるけど、ずっと皆から慕われてるだろ。一年の頃なんか、俺結構怖がられてたし」
「それは、まだ新城くんが誤解されてたから……」
「それでも。佐藤さんが橋渡しみたいになってくれたお陰で、俺もクラスメイトと仲良くなれたんだ。俺だって佐藤さんに助けられてるし、頼りにしてる」
━━実秋を見ていると、まだ幼かった頃の卯衣のことを思い出す。
人前で話すのが苦手で、いつも不安げだった頃の卯衣。
自分に自信がなくて、何かあるたびに『ごめんなさい』と言っていた姿。
しかし、そんな彼女が虎道の心の支えになっていた。
実秋は、昔の卯衣ほど臆病なわけではない。
けれど、どこか自分を小さく見せようとする癖がある。
だから放っておけなかったのだろう。
実秋は少し顔を赤らめて、言葉を返す。
「新城くんって、みんなのことは呼び捨てなのに、わたしだけいまだに『佐藤さん』なんだね」
その言葉に、虎道は一瞬だけ黙り込む。
「……佐藤さんは、佐藤さんって感じだし」
実秋が思わず吹き出すと、虎道も少し照れたように口元を隠しながら言った。
「そっちだって。卯衣は卯衣ちゃんなのに、俺のことはずっと名字呼びじゃないか」
「だって……新城くんは、新城くんって感じだもん」
「何だよ、それ……」
虎道が口元を緩めると、実秋もつられて笑みをこぼすのだった。
これは、“神童”と謳われる少年、新城虎道。
不器用ながらも、妹たちの為にひたむきに生きる少年と、彼を取り巻く愉快で騒々しい仲間たちの物語。
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