午前0時のシンデレラ(上)

 何かが、静かに空から降り注ぐ。

 その音はなく、視界はぼやけている。

 まるで薄い霧がかかった映像のように、不鮮明なモノクロームの世界。


『お兄ちゃん、雪が降ってきたよ』


 遠くから、かすれたような声が響く。

 小さな女の子が、こちらを見上げている。

 だが、その顔も輪郭も、すべてノイズに覆われていて、はっきりとは見えない。


 伸ばした手は、その姿に触れる前にすり抜けていく━━。



  ☆



 電車の揺れが、灯夜とうやの意識を現実へと引き戻した。

 瞳を開けると、窓の外には茜色の空が広がっている。

 まだ日は落ちきっておらず、夕陽が建物の隙間から漏れていた。


 徳永とくなが灯夜は、二年ぶりに故郷へ戻る。

 長いようで、あっという間だった二年間。

 この町を離れたとき、次にいつ戻るかなんて考えもしなかった。

 それが今、電車に揺られ、懐かしい景色が近づいている。


 ぼんやりとしたまま顔に触れると、頬には涙の跡が残っていた。

 胸がざわつく。

 夢を見ていたのはわかるが、それがどんな内容だったのか、断片的で掴めない。


 駅のアナウンスが流れる。

 まもなく目的の駅に到着する。

 心臓の鼓動が一拍ずつ静かに、けれど確かに高鳴るのを感じる。



 改札を抜けると、頬を撫でる風にわずかに冷たさが混じっていた。

 駅前広場には、夕陽を受けて輝く街路樹が並んでいる。

 葉の隙間からこぼれる光が地面に揺れ、金色の影を落としていた。

 見慣れた景色のはずなのに、どこか遠い記憶をなぞるような感覚が胸をよぎる。


 ━━変わらない、な……。


 たった二年ほど離れただけでは、町の景色も然程変わらないように見える。

 それとも自分が気づかないだけで、細かい変化はあるのだろうか。

 高校を卒業してからこの町を出て、それ以来、一度も帰ってこなかった。

 町はまるで時間が止まったかのように、昔のままだった。


「灯夜さん?」


 静かに名前を呼ばれる。


 振り返ると、そこに立っていたのは灯夜の卒業した阿賀野中学校の制服に身を包んだ少女だった。


「和音……ちゃん?」


 泉和音。

 肩までの髪が夕陽に照らされ、細い影を落としている。

 彼女の大きな瞳が灯夜を見つめていた。

 最後に会ったときはまだ小学校高学年だったから、今は中学生のはずだ。

 けれど、面影を残しながらも記憶の彼女よりだいぶ大人びたような印象があった。

 年の離れた彼女と直接の繋がりがあるわけではない。冬夜にとっては妹で、彼女にとっては二学年上の舞雪まゆきが唯一の接点だった。


「お久しぶりです、灯夜さん」

「うん。和音ちゃんも、元気そうだね」


 小さく微笑むと、和音もふっと表情を和らげた。


「灯夜さんが帰ってくるなんて、ちょっと驚きました」

「僕も、自分が帰ってくるとは思わなかったよ」


 和音は軽く頷き、ふと駅前のベンチに視線を向けた。


「よかったら、少しお話しませんか?」

「……そうだね。久しぶりに会ったし、少しぐらいなら」


 二人は並んで駅前のベンチに座った。

 遠くで電車の音が微かに響く。

 空は少しずつ、橙から群青へとその色を変えようとしていた。



「……お会いするの、二年ぶりですよね」

「うん。最後に会ったのは町を出る少し前だったからね」


 和音は懐かしむように言った。


「でも、この町はあまり変わってないですよね」

「……うん、そうだね」


 灯夜は町並みを見渡す。

 どこか遠い記憶が、静かに呼び覚まされる気がした。

 

 暦では春になったがまだ寒いということ。

 飛行機や新幹線を乗り継いで半日ほどかかり、ようやくこの町に戻ってきたこと。

 そんな当たり障りのない会話をいくつかした後、ふと和音が少し表情を変えた。何か言い出しにくそうに、少しだけ口を噤む。


「……灯夜さんは、虎道先輩のこと、知ってますか?」


 予想していなかった名前に、灯夜は目を瞬く。


「虎道君……?」


 小学校に入学したばかり幼い少年の顔と、中学入学を控えた聡明そうに成長した彼の顔が思い出される。


「事故で記憶を失ったらしくて……」

「記憶が……?」


 記憶の喪失。

 ━━それは、彼自身にとっても他人事ではない言葉だった。


 灯夜は、幼い頃の記憶をほとんど持っていない。

 断片的に思い出せる光景はあるが、焦点が合わずひどく不明瞭だ。

 自分を呼ぶ誰かの声。

 あれは妹の舞雪のものだろうか。

 しかし━━


 それが現実の記憶なのか、それともただの夢なのかすら判然としない。


「でも、今はだいぶ回復されて、生徒会長として毎日頑張ってるんですよ」


 和音の言葉に、灯夜は静かに聞き入った。

 既に舞雪から聞いて知ってはいたが、ケンカばかりだったやんちゃ坊主が生徒会長だなんて。


 ━━きっと、彼は強いんだろうな……。


 記憶を失っても、前に進み続けられるだけの強さを持っている。

 それが虎道の本質なのかもしれない。

 自分とはまるで違う。灯夜は内心で苦笑した。


 虎道との思い出が、ふと脳裏に蘇る。

 初めて出会ったのは、彼が小学一年生だった頃。

 灯夜はそのとき六年生で、その後も何度か町内会のイベントや集まりで顔を合わせることがあった。


 なんだかいつも不機嫌そうな顔をしていたが、妹や年下の子供の面倒見が良かった。

 臆病な卯衣。

 言葉が不慣れな絵馬。

 人と関わろうとしない灯未。

 虎道が幼いながらも、そんな妹たちのために懸命に頑張っていたのをよく知っている。


「でも、あの頃から妹さんたちの為に一生懸命だった。記憶を失っても変わらないのか」

「ええ。先輩はそんな人だと思います」

「……先生によく怒られた問題児が、今じゃ区内で噂の“神童”だもんな」

「先輩、そう言われるの好きじゃないみたいですよ」


 微笑む和音の言葉に、灯夜は小さく頷いた。


「……僕が思ってるよりずっと立派になったんだろうな」

「…………。灯夜さんは、卯衣さんや絵馬ちゃんや……灯未のことも知ってるんですよね?」

「うん。何度か顔を合わせた程度の仲だけどね」


 徳永家と新城家は遠い親戚にあたる。おそらく、和音もそのことは知らないだろう。

 普段から行き来があるほど親しい間柄ではなかったが、それでも何かの折に顔を合わせる機会はあった。

 灯夜は、何となくあの兄妹たちのことを気にかけていた。


 虎道は幼い頃から妙に舞雪に気に入られており、よく彼女の相手をさせられていた。

 鬱陶しがりながらも、結局は逃げずに向き合ってしまう。それが彼の気質なのだろう。


 卯衣や絵馬もまた、舞雪に臆することなく接していた。

 ときに妹のように、あるいは友人のように。

 彼女たちの明るさが、あの気難しい妹を少しずつ変えてくれたのかもしれない。


 ただ唯一、灯未だけはどこか距離があった。

 露骨に避けられているわけではない。

 けれど、他の兄妹とは違って、舞雪や灯夜と積極的に関わろうとはしていなかった。

 舞雪の方もまた、苦手というほどではないにせよ、灯未に対してだけは不思議と押しが弱かったように思う。


 ふたりは、どこか似たもの同士だったのかもしれない。

 だからこそ、互いに踏み込みきれず、

 ほんのわずかな距離が、そのまま埋まらないままだったのかもしれない。

 そんなふうに、灯夜は思っている。


「雪先輩、喜びますね」


 その言葉に、灯夜はふと視線を落とす。

 ほんのわずかに間を置いて、口を開いた。


「舞雪が?」

「はい。先輩、よくお兄さんの話をされていましたし」

「……そうだといいな」


 舞雪がどう思っているのか、灯夜には正直なところ分からない。

 けれど、和音の言葉を否定する理由もなかった。


 灯夜は、妹が冷徹で完璧な人間などと評されていることを知っていた。

 実際、舞雪は優秀だった。学業成績は常に上位、生徒会でも完璧な仕事をこなし、一度決めたことは揺るがず、どんな状況でも冷静に対処する。

 その堂々たる振る舞いと、隙のない佇まいは、周囲の人間を圧倒していた。


 だが、彼女の完璧さは時に人を遠ざける。

 必要以上に関わり合いを持たず、他人に対しては一定の距離を保つ。冷たいというより、そうすることが当たり前であるかのように。

 結果、彼女を冷たい人間だと判断する者は少なくなかった。

 尊敬や畏怖はあれど、親しみを感じる者はほとんどいなかったのだ。


 そんな舞雪にも、彼女を理解してくれる友人がいた。


 ひとりは、有名な音楽一家の出身で、同じ生徒会に所属していた、穂村桜。

 彼女は誰とでも分け隔てなく接し、舞雪の鋭さにも動じない、稀有な存在だった。

 桜は舞雪の本質を理解していたのだろう。

 だからこそ、自然に寄り添い、友人であり続けることができた。


 そしてもうひとつの繋がりが、新城一味と呼ばれる虎道の仲間たちだった。何かと噂になるメンバーの集まりで、あの気難しい舞雪が彼らを何度か家に連れてきたこともあった。ここにいる和音もその一人だ。彼の仲間たちもまた、舞雪のことを受け入れていたようだった。

 その関係がどこで生まれたのか、灯夜は詳しくは知らない。ただ、彼らの中にいるときの舞雪は、普段とはどこか違う表情を見せていた。


 妹を支え続けてくれたのは、親友の桜に、虎道や和音たちのはずだ。

 ━━それは灯夜には出来なかったことだった。



 和音と別れ、灯夜は静かに晩方の町を歩く。


 ━━和音が他にも何かを言いたそうにしていたのに、灯夜は気づいていた。

 

 舞雪をひとりにしてしまったことだろうか。

 父親は既におらず、母親が自殺してしまった、あの家に。

 

 しかし、それが何だったのか、今となってはもう確かめるすべもない。



  ☆



 街灯がひとつ、またひとつと灯り、足元に長い影を落としていく。

 町並みに夜の色がじわりと滲み始め、輪郭がゆっくりと塗り替えられていくようだった。


 かつてよく歩いた道は、記憶の中とほとんど変わらないようで、どこか違っても見える。

 並んだ家々の窓からは、温かな灯りが漏れ、遠くから夕餉の香りが漂ってくる。

 どこかの家のラジオからは、懐かしいメロディが流れていた。


 ふと、細い路地の入り口で足を止める。

 その奥に続く道は、昔、舞雪と帰り道によく通った道だった。


 鼓動が、大きくなる。

 どくん、どくん、と。


 足を進めるたびに、記憶の奥底から何かが呼び覚まされそうな感覚に襲われる。



 やがて、目の前に見慣れた家の影が浮かび上がる。

 その門の前に、一人の少女が立っていた。

 記憶のものより、更に美しい成長した彼女が。


 宵闇が滲む風が、長い黒髪を揺らす。

 白く細い指が、何かを考えるようにそっと頬に触れている。

 昼の残り香と夜の気配が混じる空気が、わずかに冷え始めている。

 その横顔を淡い光が縁取り、まるで薄氷のような静けさを纏っていた。


 静寂の中、灯夜はゆっくりと息を吸う。


「舞雪」


 その名を口にすると、少女が静かに振り向いた。

 まるで硝子のように冷たい瞳が、一瞬だけ揺れる。

  数秒の沈黙。


 彼女はかすかに笑みを浮かべ、そして口を開いた。


「灯夜……」


 風が吹き抜け、ふたりの間に夜の静寂が緩やかに忍び寄る。

 その瞬間、胸の奥にしまっていた何かが、そっとほどけていくような気がした。

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