悪鬼の恋

ふと目を開ける。カーテンの向こうは白んでいるが、まだ早い時間だろう。

気だるい空気は未だまとわりついているが、それすらも心地良いと感じるのは、腕の中で眠る妻の存在があるからだ。


一目見て心を奪われた、雪の結晶のように美しい少女。ユリシア・ハルフェスト侯爵令嬢。

王国一の美少女との評判を欲しいままにしている彼女は、内務省の長官を務めるハルフェスト侯爵が、掌中の珠と溺愛する愛娘である。

しなやかに流れる癖のない銀髪。しみ一つない真っ白な肌。透き通る水面のような美しい水色の瞳。人形めいた美貌だが、微笑むとまるで咲き誇る花のように華やぐのだ。

こんなにも美しく、心を奪われる女性がいたのか、と。ヴァルハイトの心は高揚した。

だが、彼女は自分には手の届かない高嶺の花。

辺境伯という地位は、王国内においては侯爵位と同等ではあるが、何せ自分は国のはずれの辺境地で、魔獣や外敵相手に剣を振り回すような武骨な男。しかも11歳も年上だ。そんな男が懸想けそうしたところで、振り向いてくれるはずもない。迷惑にしかならないだろう。

たった一度、夜会でダンスを一曲だけ。

自分の腕の中でくるくると踊る彼女は、まるで幻のように美しかった。

けれどそれ以降、目が合えば微笑んで目礼はしてくれるものの、こちらへ近づく素振りはなかった。やはり敬遠されたのだなと納得はしても、こんな自分に自嘲するしか無かった。


だから、その想いは、胸の奥にしまったはずだった。遠くから見守るだけで、満足したはずだった。

それが、王家の意向で、彼女の身の安全と引き換えの婚姻を打診され、もしやだまされているのかと、何度も国王陛下に確認したくらいだ。


ヴァルハイトは、父譲りの鋭い顔貌のうえ、あまり感情表現が得意ではなかった。

怖がられると分かっていて、何とか笑おうとすると顔がこわばり、まるで睨んでいるかのような表情にしかならない。

特に女性を前にすると、苦手意識もあって上がり症と赤面症まで出てしまう始末で、それがまるで悪鬼のような憤怒の表情を形成してしまう。

そうなると、緊張のあまり会話もままならず、これまで3度の見合いは、すべて女性側からの辞退によって不成立となった。

そして、どこからかヴァルハイトは悪魔のごとく恐ろしく、常に不機嫌で、気に入らない女性をにらみつける非道な男なのだという噂が流れ始め、ついに見合いの当てもなくなった。

おそらく見合いをしたどこかの家から流れたものだろう。

まさか見合いをしただけで、そのようなよろしくないうわさを流されるなどど思っておらず、さすがに繊細なたちではない彼でも少なからず傷ついた。

こちらで何かをしたわけでもないのに、そんな噂を流す女性も怖いと思ったし、そう取られてしまうふがいない自分も情けなくて。

おかげで、ヴァルハイトはますます女性が苦手になってしまった。

幼馴染の副官に、『強面、赤面症、上がり症に口下手。お前……詰んだな』と気の毒そうに言われるに至って、ヴァルハイトはついに結婚を諦めたのだ。

それから間もなくのこの降って湧いた幸運に、初めて自分に流れる帝国の血筋と神に感謝をしたぐらいだ。

とは言え、相手は深窓のご令嬢であり、日々切った張ったを生業なりわいとする野蛮な男に嫁ぐなど、誰から見ても可哀想な境遇に変わりはない。

女性への苦手意識と、また拒否されるのではと尻込みするヴァルハイトに、件の幼馴染は、

「もう顔はどうしようもないから、せめてきちんと自分の気持ちを伝えろ! 口下手なら手紙を書け! 余計なことはいらん、あなたが好きです、一生大事にしますってことだけを率直に書いて読み上げろ!!」

と身も蓋もない一言でぐっさりとヴァルハイトをえぐりつつ、そんなアドバイスをくれたのだ。

たしかに、自分の口で言うよりは、言いたいことを最初から用意するほうがマシと思えた。しかし、書けば書くほどユリシアを賛美する美辞麗句ばかりどんどん書き連ねてしまい、読み返すと自分で自分が気持ち悪いと思うほどのドン引きな内容になってしまい、ヴァルハイトは頭を抱えた。

これではいけないと書いては消し書いては消し、結局カンペは便箋1枚びっしり真っ黒になるほど書き込まれたのだった。

だが、そうして決死の思いで告げた言葉に返ってきたのは、

「わたくしも、旦那様が大好きです。一目ぼれなのです!」

というまさかの返事で。

まるで世界がひっくり返ったかのような衝撃だった。世界が輝いて見える、と思った。

いや、輝いているのはユリシアだ、と思った。

頭の中で、昼間に聞いた讃美歌がエンドレスで鳴り響いていた。

その時の彼は間違いなくポンコツだったが、そんなことすら気づいていなかった。


そのあとは、夢を見ているかのように幸せなひとときで。

何もかも初めての妻を、理性をかき集めて必死に気遣いながら、どうにも離し難く、夜半まで付き合わせてしまった。


怖いから名前を呼んでくれと。

これで本当の妻だと。

妻にしてくれてありがとうと。

幸せだと。

大好きだと。

この一晩だけで、自分はユリシアからどれだけの幸せをもらったのだろうか。

焦がれて焦がれ続けて、これ以上ないほどに愛しい妻となった彼女の声に、言葉に、痴態に。

完全に煽られた結果、寝落ちか気絶かわからないほど疲れさせてしまった。

あとで土下座して許しを請おうと思う。


「ユリシア、愛している」


眠っている時になら、こんなに簡単に言えるのに。いつか、自分の口から、自分の言葉で伝えたい。

が、果たして生きているうちに、きちんとユリシアの目を見て言えるようになるだろうかと、一抹の不安を抱く。

情けないが、仕方がない。何とか努力していくしかないな。

そう思いながら眠る妻の額にキスを落とすと、ユリシアはんん、と小さく声を上げ、ヴァルハイトの胸にすり寄り、また安心したようにすうすうと寝息を立て始めた。

(可っ愛かっわ……!!!)

内心鼻血が出そうなほど身悶えしつつ、ヴァルハイトはユリシアの体をそっと抱え直した。

起きたら、またこれが夢ではないと確認しなければならないな、と思いながら目を閉じて。

愛しい妻の甘い香りをかぎながら、ヴァルハイトは再びとろとろとした眠りに身を委ねたのだった。


その後、ヴァルハイトに有益なアドバイスをし、見事初夜の成功に導いた副官には、金一封が出たとか出なかったとか。

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