第0話【序】宿 ep.3

◇◇◆


 夜の闇は深く、静謐の中にカラスの羽ばたきと鳴き声だけが響く。

 人目につかぬように夜に出立した一行は、有一郎の親族を頼るため奈良の五條市を目指していた。

「名古屋は今も終戦後の混乱で人混みが多い。おとの風貌では目立ってしまう。遠回りにはなるが関ケ原を越えて彦根にさえ着けばシボレーを持っている知人がいる。彦根から五條までなら半日もかからぬはずだ」

「……伊吹山の近くを通るのがちと気がかりやわ」

 物憂げな表情で権七が呟く。

「ん、伊吹山になにかあるのか?」

「伊吹童子だがや」

 ――――伊吹童子。

 ヤマタノオロチの魂が転生した妖として、陰陽師の中ではかなり有名な大妖怪だ。

 権七が心配するのもわかる。だが、国鉄を使えない以上は仕方ないと有一郎は腹をくくる。

 一行は揖斐川いびがわを越えてまもなく金生山きんしょうざんに入ろうとしていた。

 丑三つ時はとうに回り、あと二時間とかからずに朝日が上り始めるだろう時間だ。

 周囲を警戒しながらも颯爽と歩く権七や有一郎とは異なり、おとは既に額に汗を浮かばせながら疲労困憊の体で歩いていた。

「おと、辛かったらこなたがおんぶするから直ぐに申してくれ」

「……まだ、大丈夫です。それよりも、先を、急ぎましょう」

 息も絶え絶えに応えながら、おとは気丈に首を振り、慣れない山道を歩く。

 その姿を見入ったのも束の間、道端の木々の間の夜闇に翡翠色の瞳を見つけて、有一郎は咄嗟に身構えた。

「権七!」

 権七とおとも有一郎の声に気づき、翡翠色の瞳を見つけて身構えた。

 その瞳は一度だけ瞬きをすると、周囲を見回しながらゆっくりと三人に近づいてくる。

 そうして木々の陰から姿を現したのは、白毛碧眼はくもうへきがんの猿だった。猿はおもむろに口を開いた。

「久方ぶりだな、有一郎」

「その声は油瀬ゆせか? この猿はそなたの式神か」

「その通りだ。お前が金華山にいるとお前の親戚から電報があってな。俺の式神で向かってる途中で偶然見つけたのだ」

「そうか、行き違いにならずに済んでよかった。――二人とも安心されよ、油瀬辰次ゆせたつじはこなたの知人で高位の式神使いでもある。合流できればこれほど頼りになる男はいない」

「油瀬家と言えば関東派閥における御三家の一つだがや。それがなにゆえ滋賀におるんだぎゃ」

「今回の戦争の際に油瀬と知久間ちくまの当主同士が諍いを起こしたそうだ。それが原因で油瀬は当主の父と共に滋賀に移り住んでいる」

「隠居したワシには関わりないことだがよ、相も変らぬ派閥争いかや……」

 ふーっ、と呆れたように権七が嘆息を吐く。有一郎は頷いた。

「残る遠島とおしま家も陰陽寮に報告だけして事態を静観。国が外敵と戦う最中に身内でも争い合うのはなんの因果か……」

「――有一郎、話の腰を折って悪いが立ち話はこのくらいにして、三人とも先に進まないとな」

「うむ、それもそうだな」

 辰次の言葉に頷いた三人は歩を進める。白毛の猿が先導するように先を歩く。



 山道を進む三人と一匹は、旅路に慣れていないおとを気遣って途中で休憩を取り水を飲んだ。そこまでは敵の妨害はなく順調であった。

 朝日が昇ろうとする時刻になって山を下っていると、不意に麓の土がミシミシと盛り上がり始める。

 立ち止まって警戒する一行の目の前で、盛り上がった土は巨大な猪に姿を変えて、有一郎に向かって突進してくる。

庚辛こうしんのイ、回避しろ八十兎やそうさぎ

 有一郎が地面に放った呪符がモコモコと茶色い毛を生やしながら膨れ上がり、二メートルを超えるであろう兎が有一郎とおとを背中に乗せて跳び上がる。

 猪の突進は真っすぐに山間の木々にぶち当たり、メキメキと木を倒しながら進む。

 五メートルほど進んだ先で猪は停止し、赤黒い肌の大男の前で前足を折って座り込んだ。

「陰陽師が二人と宿陽士が一人。このような時間にどこへ行く?」

 大男の額からは白い一本角が生えており、その目は金色に怪しく光っていた。

 見るからにわかる鬼の風貌であり、権七は冷や汗を流した。

「伊吹童子かや。おみゃーさんこそなにゆえワシらの邪魔をする」

「山賊が旅人から金や女を奪うのは当然だろう。むしろ、お前らの方が不自然だと思うがな!」

 風を切るように走りだすと、伊吹童子はあっという間に権七との距離を詰める。

 すかさず権七は伊吹童子の拳を刀で受け止めるものの、その巨腕の一撃で軽々と刀ごと後方へと吹っ飛ばされる。

 有一郎は袖から二枚目の呪符を取り出し、指で血文字を書く。

「こなたの呪は丙丁へいちょうのイ、啜れ髑髏火どくろび

 呪符が青く燃え、頭蓋骨を形作る。

 青い頭蓋骨はゆっくりと揺らめき、対象の伊吹童子へとゆっくり迫り始めた。

「ほおぅ、式神を二つ同時に召喚するとは器用なことだ。それなりに実力がある陰陽師なのだろうが、扱う式神が低位すぎるな。ははあ、さてはお前、本家筋ではなく分家の出だな?」

 伊吹童子が兎の背に乗る有一郎を見ながら嘲笑う。有一郎はそれに臆することなく式神を行使し続ける。

「包み込め、髑髏火!」

 いつの間にか青い頭蓋骨は伊吹童子のすぐ頭上に浮いており、重力に従うようにすとんと落ちると、まるで桶からこぼれた水のように伊吹童子を頭から包み込み燃え広がる。

 ゴゥっと燃え上がる火を尻目に、伊吹童子は平気な顔で有一郎の方に歩いて近づく。

「ザコめ、お前に式神の力の一端を見せてやろう」

 未だに燃える体を気にせず、その巨大な右腕を山道に突き刺し、大地を引っ張る。

 ゴゴゴゴゴと地鳴りと共に大地がめくれ上がり、伊吹童子と比肩する巨大な四つ足の竜が姿を現した。

 伊吹童子は颯爽とその獣の背中に跨ると、鬼竜一体となって有一郎とおとが乗る兎に突撃してきた。


 ――――まさに一瞬の出来事であった。

 兎が弾き飛ばされ、その背中にいた有一郎とおとは大地に投げ捨てられた。

「はーっはっはっは! 戊己ぼきのハ、麒麟の体当たりは凄まじいだろう? だが今のは軽く当ててやっただけだ。コイツが本気なら今の一撃でお前らは胴体バラバラだったぞ」

 権七も有一郎も地べたに這いずりながら面を上げる。対抗したいが、高笑いする伊吹童子の圧倒的な力の前に二人は既に満身創痍だった。

 伊吹童子はハエでも追い払うかのように身に纏わりつく青い炎を払い除けた。そして倒れているおとの方にゆっくりと歩きだした。

「……な、なぜそれほどの強さを持ちながらこなたらを殺さぬ? 遊んでおるのか?」

「はあ? アホめ。俺は楽して生きたいからな。人間はなるべく殺さぬ。適度に生かして、適度に奪って、適度に暮らす。お前らザコは一生俺に奪われ続けるだけの家畜だ」

「きさま……」

 有一郎が体を震わせながら伊吹童子を睨む。それを伊吹童子は歯牙にもかけない。

 巨大な腕がおとの雪のような肌に触れようとした瞬間、茂みの陰から白い稲妻が飛び出して伊吹童子を押し戻した。

「ギリギリだったが、何とか間に合ったな」

 稲妻の正体は二十歳そこそこの青年を乗せた白い虎だった。

 青年は中国の道士服に似た、袖や足首が広がっているゆったりめの着物を着ており、茶色の髪を白のヘアゴムで頭の後ろに縛っている。そしてその腰には偃月刀を佩いていた。

 白虎に跨った青年は腰の刀を横なぎに走らせ、咄嗟に後ろに避けた伊吹童子の腕に浅い傷をつけた。

「まだ動けるか、有一郎?」

 白虎から下りて刀を構える青年が有一郎に尋ねる。有一郎はそれに頷くと、体を起こして新しい呪符を裾から取り出す。

「――油瀬よ、当代における天才式神使いと呼ばれたそなたには敵わぬが、こなたとて陰陽師の端くれ。この程度ならまだ戦える」

「いや、俺がしんがりを務めよう。お前は二人を抱えて市街地まで逃げろ」

「何を、――っ!?」

 有一郎が反論しようとするも、有無を言わさずに白虎が有一郎を咥えて倒れているおとの元に跳ぶ。

 瞬間、伸びてきた伊吹童子の腕を辰次の刀が防いだ。キィインっと鋼の音が明け方の空に鳴り響き、火花が舞う。

「ははあ、まだ金を奪ってねえんだ。お前らを逃がすものかよっ!」「有一郎、早く行け!」

 叫び。嘲笑。

 二つの声が重なり、巨腕と刀が鍔迫り合いを三度行う。

 おとを抱き上げた有一郎は歯嚙みしながらも権七を探して、気づいた。

(……権七の気配が消えている)

 何かを狙っていることは確かだが、皆目見当がつかない。

 再び召喚した茶色い兎におとと共に乗り、市街地に向かって一目散に逃げる。

 権七の思惑はわからないが、元陰陽師にして腕利きでもある彼ならば上手くこの場を切り抜けられるだろう。有一郎はそう信じて気絶しているおとと共に伊吹山を後にした。

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