第2話 刑務所の名物犬ムラマサ
「──ムラマサ、おいでっ! こっちだ!」
ウィーザ地区の刑務所、その巨大な壁に囲われた中にある運動場の一角で。
芝の地面を駆けるのは一人の男。そして、その後を追う <ムラマサ>と呼ばれた一匹の大型犬。雪山のオオカミを彷彿とさせるブラック&シルバーの珍しい毛並みをしたピットブルだ。
「オンッオォンッ!」
ムラマサは芝の上を跳ねるように元気よく走り回り、舌を出し、息も荒く男へと飛び掛かる。しかしヒラリヒラリとかわされて、男をなかなか捕まえられない。
「さあムラマサッ、まだまだこんなもんじゃないだろっ?」
「オォンッ! オンッ!」
楽しそうに吠えるムラマサの声が響く。
刑務官はそれを遠目に眺め、他の受刑者たちは遠巻きにして座って見守っていた。
誰から咎められることもない。
それはこの刑務所の運動時間で、もはや名物となっている <鬼ごっこ>なのだ。
「相変わらずスゲェな、あの人は……。大型犬に負けない脚力で走ってやがる。ホントに俺らと同じ人間か?」
鬼ごっこ開始早々に捕まった受刑者の内の一人が、敏捷でパワフルな動きを見せるピットブルを相手に一歩も引けを取らずに渡り合っているその男を見ながら、ポツリとそうこぼす。
「恐ろしいのは脚力だけじゃなく体力もバケモノ級ってことだな。もう四十分の運動時間が終わっちまうってのに、ずっと動き続けてるぜ」
「しかもあれで <目が見えてない>ってんだからウソみたいな話だぜ」
鬼ごっこの逃げる役で残っているのはもうその男──レオン・ベレッタただ一人だ。
ちなみにその鬼ごっこにルールなんてものはあってないようなもので、一度捕まったとしても何度でも再挑戦は可能だ。
逃げるたびにムラマサは追いかけてくれる……だがしかし、ほとんどの受刑者たちは一日に一度捕まったらもう懲り懲りといった様子でへたり込む。
なにせ掴まったが最後、ムラマサに押し倒されてベロベロと顔を舐め回されてしまうのだから。
「あんなヤンチャ坊主に盲導犬が務まるってんだから、不思議なもんだねぇ」
「アレは務まってると言えるのか……? というか、果たして本当にレオンに盲導犬は必要なのか……?」
「言えてるな。目が見えてるヤツよりもよっぽど <感>がいい」
「ニオイと音でなんでもわかっちまう、って言ってたもんなぁ。じゃあなんで盲導犬が許されたんだか」
「それはだな、」
コソリ、と。訳知り顔の男が声を潜めつつ言う。
「刑務官の間のウワサを耳にしたんだが、なんでもレオンが収監されることになった当時、キャリアの刑事が特別措置を押し通したとかなんとか……」
「へぇ……まあ理由はなんだっていいさ。とにかく、レオンとムラマサが来てからのこの <二年近く>でこの刑務所の雰囲気は明らかに良くなった。アイツらがいてくれるだけで俺はうれしいよ」
「ま、それはそうだ。ワンコは受刑者に効くらしいしな。最近じゃ他の刑務所でも受刑者の更生とかセラピーの目的でワンコを飼ってる場所もあるみたいだぜ」
「最高だからな、ワンコは」
「ああ。ワンコは最高だ」
運動で火照った体を涼ませるような爽やかな風に乗って、ピーッ! と。受刑者たちのくつろぎの時間の終わりを告げるホイッスルの音が運動場へと響いた。
「全員、屋内へ戻れーっ! 刑務作業の時間だっ!」
刑務官の怒鳴り声に、受刑者たちはゾロゾロと動き出す。
「鬼ごっこも終わりか。今日もムラマサはレオンを捕まえられなかったなぁ」
とはいえ、ムラマサは鬼ごっこの結果などどうだっていいらしい。
逃げるのを止めた主人、レオンに後ろ足立ちで組み付き、そして抱きしめられて、その尻尾をちぎれんばかりにブンブンと振って喜びを表していた。
「レオンはこのあとムラマサといっしょに薪割りの作業なんだろ? 本当によく動くヤツだ」
「なんでもピットブルは一日にたくさん動かなきゃストレスが溜まってしまうらしい。だからレオンに割り振られているのはほとんどが外での刑務作業なんだと」
「薪割り、芝刈り、その他の刑務所修繕全般だったか。ハードだよなぁ」
訓練された牛か羊のように列をなして歩いていく受刑者たちの中に、レオンとムラマサは属さない。その一人と一匹は薪小屋の方へ向かって歩いていく。
それを見送りつつ、
「ああ、今日もよく動いた。そんじゃ俺ははんだ付けをがんばりますかねぇ」
「俺は夕飯準備だ。そろそろデカい肉が恋しいぜ」
鬼ごっこへと参加していた受刑者たちは各々の次の作業に向かっていった。
* * *
「──いまだ里親は見つからず、か」
夕刻。刑務作業を早めに終え、夕食の時間を待っていた個室の監房内にて。
レオン・ベレッタは刑務官から受け取った点字手紙を読むと、小さくため息を吐いた。
その手紙の差出人は <アナ・グロック警部>。内容はレオンが逮捕されてからのこの二年間、断続的に続いているムラマサの里親探しについてだ。
残念ながら難航しているのが現状だった。
──ピットブルは法律で禁止される以前、闘犬として扱われてきた歴史が長い。
ゆえにピットブルという犬種を指して「獰猛、よく吠える、人や他の動物を噛み殺す、恐ろしい」という印象が人々に強く染みついてしまっている。
ゆえに子犬の時期を逃し、大きく育ってしまったピットブルには特に貰い手がつき辛いのだ。
さらに言えば、里親が見つかるまでの保護期間に収監されているレオンの代わりに世話をしてくれるような人物も現れない。
「おまえももっと広い世界を知りたいだろうに」
レオンのあぐらの上にアゴを載せているムラマサの背を撫でると、ムラマサはピクリと反応して手を舐めてくる。愛情表現の一種だ。
その後、フスフスと鼻を鳴らしてレオンの読んでいる手紙のニオイを嗅いでくる。
……ピットブルは、主人に対してはものすごく強い愛情を見せてくれる子なんだけどなぁ。
もっとピットブルの良さを受け入れてもらいたいと、レオンはそう思う。
とはいえ、その危険性も熟知している。
主従の関係構築やトレーニング、飼い方を一歩間違えれば制御できない危険な生き物になってしまうのも確かなのだ。だからこそ、他の犬種に比べると共に暮らすハードルは非常に高い。迎える人間側に犬についてのベテラン並みの知識が要求される犬種だ。
「フスフスッ、プスン……」
ムラマサは手紙を嗅ぎ終わると、興味なさげに再びレオンの膝へと頭を載せた。
食べられそうになかったのが不満だったのだろう。
もうすぐ夕飯時だから。
……まあ、里親については根気強く探し続ける他ない。
そう思いつつも、心のどこかでレオンは安堵もしていた。ムラマサと、こんな時間がずっと続けばいいと、矛盾した思いを抱いている。
物心ついたときから所属していた <組織>の中で、レオンが唯一心を許せたのが精神安定剤代わりとしてあてがわれた犬たちであり、犬たちこそがレオンの家族だったから。
いつか来るだろう別れの日を、どこかで恐れている。
……だが、それは決してすぐのことではないのだから、そう悲観することもないか。
レオンがそう結論づけて手紙を畳もうとしたところで、
「ん?」
カサリ。いつもよりも一枚多く便せんが入っていたことに気づいた。どうやら、アナからの手紙にはいつもの報告に加えてもう一通続きがあるらしい。
手紙をめくって、行頭から指でなぞっていく。
『追伸:ペット可のアパートへと引っ越して、私もワンちゃんと暮らし始めました。名前はコギヅネマル。一歳のオスで犬種はスキッパーキです』
「──なんてことだ……スキッパーキだと……!?」
スキッパーキは綺麗な三角形の耳が特徴的な、小さくモフッとした犬。
絶対にカワイイに決まっているやつだ。
手紙の文章には続いて、
『写真でお見せできないのが残念です』
「ほんとにな」
レオンは一人で肩をすくめた。
犬好きにも関わらず、直接触れないどころか間接的に見ることもできないなんて。それはあまりにも残念過ぎる。しかしここは刑務所内。殺人というレオンの罪を考えるならば、そんな自由が許されていいはずもない。
……だが、そういう人生を進むと決めたのは自分自身だ。
人生には流れというものが確かにあるが、それに流されて泳ぐのも、逆らって泳ぐのも、結局は自分で決めること。だから視力を失ったのも、その後殺し屋として働いたのも、すべてはレオンが選んだ人生なのだ。誰に文句を言えることでもない。
「
レオンはうたた寝をし始めたムラマサの背を、起こさぬように優しくそっと撫でた。
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