ジグソーガール 三
灯花が絵のモデルになってくれると決まってから、私は一体灯花のどんな絵を描きたいのか考えていました。
綺麗に着飾った灯花を写実的に描きたい? その美しい容姿を抽象化して残したい? そういう物でもなく、私はただ灯花という人間の肉体美を余すところなく描き残しておきたいのだと、いくら考えてもその結論に落ち着きます。
期末考査にも身が入らず、成績が下がるのを心配しながら灯花との約束の日を迎えて、私は自室にカンバスを用意して、お茶の用意を整えて灯花を待っていました。
まさか本当にヌードモデルをお願いするわけにもいかないので、灯花がどんな服を着てくるのかで描ける絵も変わってきます。細かい指定はしませんでした。いえ、
「どんな服着てけばいい?」と聞かれたのですが、私は上手く答えられませんでした。というのも、灯花に似合わない服を探す方が困難ですし、正直な所を言えば……私が最も描きたいのはその裸身であって、服などどうでもいいからです。
私が待っているとインターホンが鳴るのが聞こえて、迎えにいくと灯花でした。以前とは違う、綺麗な白いワンピースを着ていました。
「よっ」
それでも中身はいつもの灯花と変わる事なく、男の子っぽい口調で声をかけてきます。
「おはよ。入って」
すぐに私は灯花を中に入れて、自室に招きました。お茶の準備もしてあって、私はすぐに灯花にお茶を勧めました。灯花は「お土産」と言って、クッキーをくれました。見てみると手作りのものらしいのです。
「これ、灯花が作ったの?」
「うん。昨日作っといた。手ぶらでいくのも悪いと思って」
灯花が私の為に焼いてくれたクッキー……もしかすると週が明けたらクラスに配ったりするのかも知れないけれど、今は自分の特権だと思い込む事にしました。
「ありがとう。気にしなくていいのに」
私はその時の自分がどんな顔をしていたのかよく覚えていません。嬉しそうではあったと思います。けれど、もっと切実に、灯花という愛しい人を見て、その肉体という物質的な物を記録するある種神聖な仕事を前に、緊張も相当にあったような……けれど、それをどうやったらいいかはまったく手探りなのです。
「で……どういう絵にするんだ?」
「うん……」
灯花が着ているワンピース姿をそのまま残したくもありました。それはいつも制服を着崩している灯花にしては珍しく、女の子らしい服を綺麗に着こなしている様子だったので……。
「ちょっと、カンバスの前でポーズ取って貰うのがいいかな。ポーズって言っても、無理な物じゃなくていいけど」
私はカンバスの前に座って、灯花はその向こうに立ちます。
「ポーズって言われてもな。こういうの初めてだし」
などと言いつつ、灯花は左腕を上げて胸を隠すような動きをしました。私は目を細めたのを覚えています。いつも溌溂と生命力を感じさせる灯花が初心な女の子のようなポーズを取っているその姿をよく網膜に焼きつけたくて……。
「うーん……灯花はスタイルいいから、体よく見せるようなポーズの方がいいかも」
下心を隠しながら私が指示すると、灯花は左手で頭を抱いて、その肘が天を向くように体をくねらせました。右手は腰に置いて、いかにもファッション誌でモデルがするようなポーズを取っています。
「うん……ひとまずこれで描いてみる」
私は鉛筆を走らせてスケッチを始めました。
その均整の取れたプロポーションは白い布に隠れていますが、確かに健康的に肉がついている事が分かります。光の加減で胸の下に影ができて、くねらせた腰に見えるお尻のラインは形がよくて、どうしても心の中で雑念が起きてしまいます。
そんな私の欲望を灯花は感じていたのでしょうか? 特に表情を変える事もなく「美人に描いてくれよー」なんて言っています。灯花を不細工に描きようがない……なんて返そうとしたんです。けれど、私の画力で灯花をどこまで再現できるかは甚だ問題でした。実技ができないわけではないですけれど、灯花の肉体の曲線、眉の形、そういう物を細かく描いていくと、どうしてもどこかに不備が出るように思われます。
それでもなんとか形にして、細かい所を見ている内に、私は雪の夜に灯火に感じる妖しい心地を受けていました。灯花の肉体が艶めかしい一つの像としてそこに立っている事実がとても猥雑に感じられて、衣服一枚を脱がしてしまいたい気持ちにとらわれて……。
「ごめん。とりあえずスケッチはできたんだけど……ちょっと休んでて」
「ん? うん」
私の言いぶりに引っかかったのか、訝し気な顔をしながら灯花は一度テーブルの方にいって、お茶を少し飲みました。
私はカンバスを変えて、もう一枚お願いする気でいました。今度はヌードで、その肉体の細かな所まで再現するつもりで……。
「男子に知られたら渚が羨ましがられそうだな」
灯花が何気なく言った一言は、私の中の後ろめたさを刺激しました。
「うん……灯花をモデルにしたいって人多そう」
実際にはそんな話は誰からも聞かないのですが、私の推測として灯花は相当な数の人に好かれているという前提がありました。それも、恋愛の意味で。
「でもこういうの渚だからできるんだよなあ。この間、カラオケで言い寄られたりもしたけどさ」
言い寄られた――私は灯花が何人かの友達と遊びにいく所を見ていたのを思い出しました。その中には女子も男子もいて、男子が……と考えて眩暈を堪えました。
「……どうするの、その人」
名前はあえて聞きませんでした。聞けば呪ってしまいそうだから。
「どうもしないよ。単にふざけて「俺なんかどう?」とか言ってたくらいだし。真剣に告白するなら……いやでもそういうのはいいな。面倒くさそうだし。そういうのより渚と遊んでたい」
私は――カンバスを画架に置いて、そっと灯花の前に立ちました。灯花は不思議そうに私を見上げてきます。
この人の遊び相手に……遊び相手程度でも、灯花と一緒にいられるならばそれは私にとって本懐を遂げるのと同じ事です。ただ、それだけで我慢できるのかと言えばできなくて、私は灯花の前に顔を出して、まじまじとその黒い瞳を見つめました。
「どうした?」
「……そんな事言ってると、危ないよ」
警告は、私についての事でした。灯花の事を誰よりも狙っているのは、私に他ならないんですから。
「危ないって、男子に言い寄られるの一度二度じゃないし……」
「そうじゃない」
私は右手を灯花の方に置いて、その肩の素肌に指を這わせました。
「そういう無邪気な人って……憧れられるんだよ。私みたいなのからも」
ワンピースの肩の部分をそっと外すと、灯花は気づいたように私の右手を取りました。
「渚って……そういう趣味の人?」
ああ、終わる――私と灯花の関係が終わる。そんな風に思って、私は捨て鉢になっていました。心は錯乱して、もう欲情をどうにもできなくなっていました。
「灯花の所為だよ。元からじゃなかった。灯花にだけこういう感情を抱くの。もっと灯花の体をよくみたい。灯花の綺麗な指も、まだ見てない所も、目に焼き付けたい……モデルにしたいなんて言い訳だよ」
私の自棄な告白に、灯花は戸惑っているようでした。けれど、彼女は……私がその衣服を脱がす手を拒みはしませんでした。ワンピースの下からペチコートが出てきて、私はうっとうしく思いました。
「間違った感情だって分かってるけど、でも止められないの。灯花の事をもっと知りたい……灯花が自分で知らないような所まで知りたい。つきあってくれなんて言えたもんでもないけど、でも一度くらい、私と『間違って』ほしい……」
灯花の綺麗な肩が見えて、形のいい鎖骨から乳房へのラインが見えて、私は熱情でどうにかなりそうでした。灯花は戸惑っているのか、ただされるままになっていました。私の手は灯花の体をなぞって、徐々に下に向かって……。
ふっ、と灯花の吐息が私の鼻腔に入り込みました。服がはだけた灯花は興奮する私を冷ますように、私の顔に息を吹きかけたのです。
それで私の頭が冷えたかというとそんな事はなく、憧れていた灯花の息吹を吸えた興奮にいよいよ目が回りそうでした。空腹を感じたように涎が口角から零れそうになって、慌てて口を塞ぎました。
「女にそんな風に見られるのって初めてだからびっくりした」
灯花はなんでもないように言って、まだ彼女の肌に伝う私の手をそっとどけました。その手つきは優しいお姉さんのようで、私は涙に潤んだ目で灯花を見上げる他ありませんでした。
「まあ、渚がそういう趣味だとしても、別にそれで渚の事を嫌いになったりはしないけど」
本心なのか、形だけなのか、灯花の言葉は嬉しいようで悲しくて、私はいよいよ泣きそうになっていました。
「でも……いきなりこういう事されるのはちょっと嫌だな」
きっぱり言うその顔は歪んでいても綺麗で、私は両手で口元を覆って感嘆の声を押さえていました。
「ごめん……でも……」
服を直していく彼女のその衣服をはぎ取りたい衝動に駆られながら、私の言葉は詰まるばかりでした。
「もっと、簡単な所から始めようぜ。そういうの。私はまだ自分の気持ち分かんないし」
答えは保留、けれどそれは実質的な拒絶なんだと、私の遺伝子の深い所が理解していました。
「とりあえず、今日は帰る。渚もちょっと落ち着いて考えてほしい」
そんなに冷静に言われると、一人で興奮している自分が惨めで、私は立ち上がる灯花に縋ってしまいました。
「待って……帰ってもいいけど、その前に……」
もう一度私に吐息を拭きかけて欲しい、私は声を振り絞ってお願いしました。灯花は不思議そうな顔をしていました。けれど、私の顔にふっと息を吹きかけると、私の方から灯花にかけた手を解いたので、もう満足したと思ったようです。
「じゃ、またな」
また、と言い返せたのかも覚えていません。ただ、私は灯花を見送るその間中、息吹を吸いこんだ口腔に残る甘い香りに陶酔していて、告白した事のどれも受け入れて貰えなさそうな事を忘れようとしていました。
けれど残り香はすぐに消えて、私は部屋に戻るとベッドに倒れこんで泣きました。月曜から灯花にどんな顔をして会えばいいのか分からなかったのです。私は、望んでいた関係に近づこうとして、かえってその関係を壊してしまっていました。
私の思いにこたえてくれなかった灯花のそれは優しさだとも思いましたが、けれど拒絶は恨めしく、シーツが破れそうになるほど爪を立てて、ほとんど獣みたいにうめき声をあげていました。
その日の日記にはこんな風に書いてあります。
『こうして、私と灯花の関係は終わったと思う。
けれど灯花のあの息吹、友達の接吻、もう一度味わいたい何度でも味わいたい、できる事なら恋人の接吻へと変えたい。触れたあのきめ細かい肌の奥まで撫でまわしたい……けれど、もうその機会も二度とはやってこないんだろうと思う。
どうして壊してしまったんだろう、どうして……』
けれど、私と灯花の関係は変わりはしても、終わってはいませんでした。
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