ジグソーガール 二
灯花との約束の日になると、私はお気に入りの緑色のワンピースを着て、ポーチ一つで外に出ました。ワンピースによく合う白いリボンのついた黒い靴を履いて……。
例えば他の女友達……中学の頃の同級生と会うくらいならそんなにおめかししません。けれど、灯花の前ではいつも綺麗でいたいから、とびきり時間をかけるんです。髪の毛もよく整えて……その頃は夏の暑い盛りになっていたので、日焼け止めもしっかり塗って。
そんな風に準備して待ち合わせ場所にいくと、時間よりも十分前に私は着いていました。灯花の姿は見えません。勿論、時間に遅れたって、灯花なら私は許せます。
それから……五分くらい待って灯花がきました。その五分が途轍もなく長くて、私は汗をかきたくもないのに夏の熱気に汗をかいて、臭くないかななんて気にしていました。
灯花は白いティーシャツに水色のシャツを合わせていて、白いズボン姿がとても似合っていました。靴も綺麗に使っているスニーカーで、私が女の子らしい格好をしてくるのを知っていたみたいに男の人みたいな恰好……その恰好が灯花のスタイルのよさを際立たせて、私は以前から抱いていた灯花の絵を描きたいという欲望が更に刺激されました。
そのまま二人で駅ビルに入っている書店へ向かいました。灯花は、将来を明確に決めていてもそれと関係ない文学の世界に興味がある、なんて言います。私は趣味で知っている程度なので、教えられる物でもありませんが……。
「どうせなら他の店も見てくか?」
焦がれている人にそんな風に言われて、断れる筈もありませんでした。けれど、この時まで私は今日のプランを全然考えていない事に気づきもしませんでした。
「うん。欲しい物あるとかでもないけど」
「私もだけどさ。あと飯食ってこうぜ。映画館の周りってそういう店ないし」
「そうだね」
映画なんてなんでもいいから丁度良くやっていた物をみよう、なんて話していました。二人で書店に入ると、私達は並んで文庫本のコーナーに向かいました。
そこで灯花が言っていた本を探して、見つかると灯花は「もう一冊買おうかな」なんて言います。
「普段どんなの読むの?」
小声で話しかけると、灯花は少し気まずそうな顔をして、書棚の一部を指さします。
「有名どころ読もうと思ってんだけど、長いのはなかなか手が出ないんだよな。そんなに時間あるわけでもないし。これとか持ってるけど途中で放ってる」
灯花が示したのは『痴人の愛』でした。私は読んだ事があって、その中にあった『友達の接吻』を思い出して、一人で赤くなりました。相手が吐きかける息を吸う行為、主人公は美味しそうにと書いていましたが、灯花の息吹を飲んだならどれだけ陶酔にとらわれるか、私は甘やかな眩暈すら感じました。
「面白いと思うけど……」
そんな風に口を濁すのは、勧めるのに倒錯的過ぎるからです。その頃の私の心境もまた、谷崎が『卍』で書いたような物だったんですから、なおの事話題にしづらいんです。
「そっか……渚のオススメどんなの?」
灯花は私の内心なんてこれっぽっちも察していないらしく、そっと身を寄せて耳元近くで聞いてくるんです。ドキドキして頭が回らない。血が心臓の辺りでぐるぐるするだけで頭まで回ってこないような気持ちになりながら、私は「ポオ読むなら、乱歩は?」二冊だけあった江戸川乱歩の本を示すと、灯花はその片方を手にしてページをめくりました。どちらも短編集です。
私は気を落ち着ける意味で、悟られないように深呼吸していました。灯花は黙って本を読んでいるので、私は谷崎が並んでいる所から一冊抜きました。『刺青・秘密』。灯花みたいな綺麗な女の子の養分になるのに、私は変じゃないだろうか……そんな風に考えて、けれど「秘密」は二人の関係に縁起でもないなと本を戻しました。秘密がばれたら捨てられるなんて、その時の私にとっては耐えがたい結末でしたから。
「これにする」
灯花はそんな事を言って、私を不思議そうに見ました。
「渚は何か買わないの?」
自然に名前を呼ばれて、私はその時まで完全に灯花の引き立て役……養分のようになっていた事に気づきました。
「でもこの辺りの本ほとんど持ってるから……」
私が本棚を見ても、ほとんど自分で買ったか、父がもっと立派な造りで持っている本かのどちらか。最近の作家の本と考えてもいまいち食指が動きませんでした。
けれど、悪戯心みたいなものがむくむく湧き上がってきました。
「灯花が読んだ事ある本は?」
忙しいなんて言っているけれど、灯花が案外読書家である事は分かりました。古い文学って、どうしても読みづらさがあるのに、灯花は全然気にせずに読んでいるようなので……それは慣れている証拠です。
「あるかな」
灯花が書棚を渉猟する後ろから歩いていく中で、灯花が通った後、つまり灯花が呼吸した後の空気が自分の口鼻に入っていくのは心地よい陶酔でした。
「あった」
灯花が手に取ったのはワイルドの『サロメ』でした。私は中学の頃に一度、図書館で借りて読んだだけだったなと手渡された本を見ます。不思議な表紙は記憶を呼び起こして、残酷な悲劇の挿絵を思い出させました。
「買おうかな」
「読んだ事ありそうだけどな、渚は」
「実は一回。でも図書館から借りてだから、本持ってるわけじゃない。パパは持ってそうだけど」
「……なんかオススメするのに微妙なの選んでごめん」
「いいよ。いこう」
こんな会話の細かい所まで、私は日記に残していました。灯花がお手洗いに立った時や、他にちょっと一人の時間ができた時、スマホに全部書き置いていたのを日記に書いて、ここにまた書いているんです。
けれど何かあるような会話はそれからもそんなにあるわけでもなく、書店を出た私と灯花は少し服を見たくらいで、お腹が空いてハンバーガー店に入りました。
品物を受け取って二人掛けの席に着くと、灯花は両手を合わせて「頂きます」と言ったのを覚えています。お昼の時も必ずそうしている……というのを知っている私も合わせて、二人でハンバーガーの包みを開けました。
「食事前の挨拶するの、将来料理人目指してるから?」
自己紹介の時から言っていた灯花の夢は料理人として自分の店を持つ事……だから、調理部に入ってるしその為の勉強もしているみたいです。実際に、灯花の成績は私なんかよりよほどいいくらいです。
「食事に感謝するのは当然の事だろ」
なんて、本当に当たり前の事のように言うその顔は凛々しくて、もしも灯花が演劇を志していれば男役も務まると思えました。
「そっか。そうだよね」
私は急に自分が恥ずかしくなって、慌ててハンバーガーを食べました。普段しない贅沢なのに、味も分からないのは灯花と一緒だから、そして生きる事への真摯さを見せられての気まずい羞恥心の為でしょう。
「渚って普段から本読むの?」
咀嚼の間に聞かれて、私は噎せそうになりました。
「うん……お父さんが大学でそういうの教えてるから、昔からそういうのは読んでたの。自分で書くのは違うかなって思って文芸部には入らなかったけど」
饒舌になるのってなんだか格好悪いな、そんな風に思います。静かに、言葉少なく本当の事だけ言えればいいのに、口を開くと次々に喋りたくなる。魔法って、意外と身近にあるみたいです。
「家にそういうのあるのか……じゃあ進路希望も文系で出したの?」
進路希望と言っても、二年次に分かれる文理を選択するだけですが。
「うん……理系よりは文系かなって。灯花は?」
「文系。理系と迷ったんだけど、まあ最終的にいくの調理師試験だし、そっちの勉強は独学でやるからいいかなって」
灯花の成績なら文理どちらでもできるだろうなとはすぐに分かります。貼り出された考査の成績順を見ても全教科上にいるんですから。私はその意味で、灯花の足元にも及びません。
「なら二年に上がったら同じクラスになれるかな」
そんな気楽な言葉はきっと、その時の関係が変わらずに続くと過信している愚か者の言葉なんだと思います。
「どうだろ。クラス少ないしいけるかもな」
六クラスで文理が半々なので希望が合えば三分の一の確率でなれる……雑な計算は寧ろ都合がいいので胸が弾みました。
それから灯花は一度お手洗いに立って、私はスマホに会話を記録しておきました。どんなことでも、忘れない事なんてないって分かってきて、けれど灯花といた時間のどれ一つも忘れたくないから……。
灯花が戻ってくると、食べ物はなくなって、飲み物だけ残って二人で少し話しました。
「そういや美術部ってどんな活動してんの?」
灯花はシェイクを飲みながら、愉快そうな顔をしています。くりくりした目がとても愛らしいのですが、写真に撮れるわけもなく、まじまじ見つめるわけにもいきません。
「モデルの人呼んでデッサンしたり、外出て写生したり、あと美術室に色々あるからそれで静物画描いたりかな。先輩は共同製作とかしてる人もいるよ」
美術部の方に私が馴染んでいるのかなと考えると、そんな風にも思えなくて、なんだか見聞きした体験を人に話すみたいに他人事になってしまいます。
「色々やってんだなあ。調理部はずっと何作るかの話しかしないし……作りもするけど」
調理部での灯花、というのを私はその頃知らなくて、気にはなっていました。
「どんなの作るの?」
「ほとんどお菓子。クッキー配ったの覚えてる?」
「うん。美味しかった」
「ありがと。ああいうのが多いかなー。個人的には洋食の練習したいんだけど」
配れるお菓子よりも洋食を作ってくれていた方が安心できるな、なんて身勝手に思っていました。
だって……。
「あんまり配り過ぎない方がいいと思う。勘違いする人もいるから」
一部の男子が、灯花によくない噂を立てているのを聞いたりもしました。モテたくてやってるとか、クラスの誰かには本命を渡してるとか、そんなくだらない話です。
「あー、高校でもそういうのあるのか……」
灯花は食傷気味の話題を聞いたみたいに倦んだ顔をしました。いいぶりから察するに、きっと今までもあったんだろうなって推測できても、確かめたくて。
「中学の頃もそうだったの?」
「うん。クラス全員に配ってるのに勘違いする奴いてさ。告白されたんだけど断った……って事が二、三回あった」
そんなに、と思うとくらっとするけれど、灯花みたいに綺麗で、愛嬌があって、優しい人に焦がれるのは何も私みたいなおかしな奴だけじゃないとは分かりました。灯花がそのどれもを断っているようで、少し安心する事も。
「今も勘違いしそうな人の噂立ってるよ」
「男子って子どもだな」
女子の中にも私みたいなのがいるよ……とは言えず。寧ろ、気になる事はもっと聞きたくなってしまいました。
「灯花……モテるみたいだけど、つきあってる人とかいるの?」
実は彼氏に義理立てして……みたいな話だと、私はいよいよ行き場がなくなります。けれど灯花はけろっとした顔をして。
「いないよ。ってかいた事ない。なんかいまいちそういう目で見れる奴に会ってないし」
ほっとする息も吐けないのは、私自身がそういう目で見て欲しいからに他なりませんでした。苦笑いで吐息を誤魔化して、クラスメイトの世話焼き係を装って「灯花美人なんだから気をつけないと」なんて言ってみると、彼女は不思議そうな顔をしました。
「そうでもないだろ。渚も美人だし」
褒められているのに、胸がズキリと痛むのが何故なのか分かりません。もしかすると、美人という言葉を向ける意味合いが、私と灯花で決定的に違うと分かっていて痛むのかも知れません。ただ「ありがとう」と誤魔化す私はどれだけ滑稽なんだろうと思います。
「あれ、でもモデルの人見慣れてる渚に美人って言われるって事は私結構レベル高いのか?」
灯花はふと思いついたように、冗談めかして言いました。
「綺麗な顔してると思う。スタイルもいいし。絵のモデル、個人的にお願いしたいくらい」
これじゃ本当に『卍』みたいなシチュエーションですが、けれど私は灯花の姿を自分の筆で再現したくなっていました。
「まあ渚に描かれるならいいけどさ。ヌードとか描くの?」
急に踏み込んだ話題、私は目を回しそうになるのを堪えて、強がるみたいに強気な顔を作りました。
「灯花がよければね」
「やめろって恥ずかしい。そろそろいこうぜ。映画何見るか全然決めてないし」
「うん」
簡単に躱されると惨めになるけれど、灯花の体の隅々までをしっかり記憶したいという願望は強くなっていて、本当に純粋な意味でのモデルを頼みたいのに言えなくて、私は店を出る灯花の後ろからしみったれた顔をしてついていきました。
それから映画館まで十分くらいの道筋で、灯花が不意に言いました。
「渚の家いくならもうちょっとマシな格好しないとなー」
動揺――が悟られたかは分かりません。ただ、灯花の中ではもう話ができているみたいなので聞くと、なんでもない事のように絵のモデルを引き受けてくれると言います。
舞い上がってしまって、私はその後に見た映画の内容がほとんど頭に入ってきませんでした。
ただ――期末考査が済んだら灯花がうちにくる事になって、約束を抱えて帰り道、私はひたすら灯花との会話を記録していました。
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