浴槽の魚

 二月のある日の事だった。


 買い物からの帰り道に雨に降られた。春雨には早い冷えた雨は体も頭も存分に冷やしてくれたが、アパートに着く頃にはやんでいた。郵便受けを確認しようと思って、ぽちゃんと大きな音がするのでそちらを見た。


 オタマジャクシくらいの大きさの魚が水溜まりの中にいた。なんだろう、この魚は見た事がある気がする。見た目すらりとした魚だが、鰓の部分から大きなひれが左右に伸びていて派手な髭のようだ。僕は郵便受けに何もない事を確認して、その魚の前にしゃがみこんだ。尻尾はシュッとしているが、ある種の魚がそうであるように尾鰭が生えている。オタマジャクシ。そんな筈もなく、魚は水溜まりが深いため池であるかのようにピチャンと跳ねた。


 こんなアスファルトの水溜まりではいつまでも持つまい。僕は何かないかと思って買い物袋を探った。いや、そんな事をする必要はなかった。注意して水溜まりに手を入れると、泥水の不快で不潔な感触と共に魚のぬるりとした手触りを感じる。鯰のような肌触りだ。僕はそれを買い物袋に突っ込んで、部屋に上がった。


 魚は飼っていないから、水槽はない。何かないか……二つあるボウルの片方に水を張って魚を移すと、彼か彼女はそこで身を震わせた。水槽を買ってこないと、思いながら僕は近くにペットショップなんてあったかなと考えた。犬の散歩をしている人は多いが、ペットショップを見た事がない。


 マップで検索しながら僕は買い物袋の中身を冷蔵庫に入れていた。魚にも何か上げないといけない。もずくは食べるだろうか。それを取って蓋を開けて、ボウルの中に入れる。すると魚はみるみるそれを食べきってしまった。あまりにもいい喰いっぷりで、もずくはものの十秒もたたずになくなった。


 魚ってこんなに食べる物だったろうか? しかし、恐らくさっきまで泥を啜って生きていた魚だから美味しい物に目がないのだろう。僕がもずくをどんどん入れると、魚はそれをどんどん食べる。すぐになくなって、魚のお腹が卵でも孕んだようにぷっくりと膨らんだ。


 食事は大丈夫そうだ。人間と同じ物を食べるならば僕の食べ物の余りをあげればいい。僕はボウルを下駄箱の上に置いた。魚はゆらゆら揺れているようだった。


 水槽を買ってくるのは明日でいいかな。今日は疲れてしまった。泥水にも触れたし。夕飯は何を食べよう。魚はきっと、誰かの落とし物でもないだろう。野生に生息している物を取るのはいいのか悪いのか。ただ、アスファルトの水溜まりに生態系はないから破壊される物はない。


 しかしボウルがやけにうるさい……僕は卵を茹でて、それを少しずつ与える事にした。その間も魚はバシャバシャやっている。自分の食事も用意しなければならない。けれど水を沸騰させる過程でできる物は一品か二品だ。僕はトマトとモッツァレラを切った。ゆで卵の一つは自分の分にしよう。そういう考えで軽い食事を作る。魚は何を食べるのか……それは種類にもよるのか、きちんとした餌も水槽と一緒に買ってこよう。僕が種類を確かめるのに魚を見にいくと、さっきよりも大きくなった魚がぷかぷかボウルに浮かんでいた。大きくなった? そう、明らかにさっきよりも一回り大きい。食べたからか……成長を終えてしまった僕は羨ましくなった。


 テレビをつけるとまた雨が降るような事を言っていた。夜間には雪になるという。玄関に魚を置いておくと寒いだろうか。けれど、外で平気だった奴だから平気だろう。僕はできたゆで卵を持って玄関に向かった。ボウルの前で殻をむくと、その一欠けらがとぷり水槽に落ちた。魚はすぐにそれを食べる。パリパリという可愛い食べ方ではなく、バクンと一口で食べる気持ちい食べっぷりだった。もしかするとこいつは卵一個くらい丸のみにするんじゃないか……確かめたくて殻をむいたハードボイルドを入れると、期待に応えて魚は一口でそれを食べた。そしてぷかぷか浮いている。


 気になったのは大きくなるメカニズムだった。メカニズムという程の事でもないけれど、魚はどうやって大きくなるのか。スマホスタンドを置いて撮影しようとしたけれど、持ってきた時にもう魚は大きくなっていた。ボウルの中にはひよこくらいなら丸のみにできる大きさの魚がいて、窮屈そうだ。


 調子に乗って餌をあげすぎたのが悪かったか、僕はボウルを抱えて、家の中でどこかこの魚を入れられる所を考えた。これより大きなボウルもあるけれど、魚はすぐに大きくなるだろう。僕は浴室に入って、浴槽に水を溜めた。魚をそこに入れると、すいー、気持ちよさそうに泳いでいる。一度大きくなった魚はきっと、元には戻らないだろう。この魚がどこまで大きくなるのか知らないが、いざとなったら捌いて食べよう。そんな道化じみた事まで考えた。


 浴槽を魚に与えた僕はシャワーだけ済ませて寝ようとした。石鹸を取って体を洗おうとすると、つるり勢いよく抜けて浴槽に入ってしまった。危ない、魚のいる浴槽に入ってしまった。けれど浴槽を見ると魚は石鹸にかじりついて、見る間にそれを飲み込んでしまった。果たして、石鹸を食べて平気な動物がいるのだろうか? けれど僕はいつか石鹸を食べる人を見た事がある。これはきっと大丈夫な魚なのだろう。けれど石鹸がなくなった僕は体をごしごしとこすって、髪の毛を洗って浴室を出た。出る前に魚を見ると、また大きくなっていた。


 魚は何を食べるのか。調べてみるとペットショップで売っているパラパラしたあれの情報が次々に出てくる。あんな勢いよく食べる魚にフレークは不似合いだ。ペットショップの位置を検索してもなかなか近くにない。面倒だが歩いて向かうしかないのか……僕はぼんやり考えながら眠りに落ちた。


 その晩、僕は不思議な夢を見た。


 夢の中で僕は生まれ育った家の自室にいて、そこにはおもちゃ箱のように色々な物があった。それは僕があの家で過ごした幸せな時間の所産に他ならなかった。いつか友人に貰った金魚の絵が飾ってある。今はもうない物だから、これは夢だなと分かる。お母さんもお父さんも今と違って幸せそうにしている。けれど三人で居間に並ぶと、お父さんとお母さんは口論を始める。


 お父さんは怒声を上げて家から出ていった。僕がその背中を見ていると、お母さんは一人でキッチンへ向かっているようだ。どくどくと心臓の音が聞こえて僕は目を覚ました。


 朝の光がぼんやり差し込んでくる。スマホで天気を確認すると今日は晴れるらしい。僕はあの魚に好き放題に色々な物を食べさせてみる事にした。


 使えなくなった電池、骨の折れたハンガー、セロテープの芯、空のペットボトル、薔薇のタイピン、そういういらない物を浴槽に入れていくと、魚はパクンパクン食べていく。昨日は見る事もできなかったけれど、魚はグググと大きくなって、鯉みたいな大きさになった。本当になんでも食べる種類の魚らしい。僕が短くなった鉛筆を持って浴槽に手を入れると、魚はその大きな口を開けて僕の手ごと鉛筆をくわえた。


 ぞっとする。いつか見た山椒魚の食事のシーンを思い出す。俊敏な動きを持つ大きな口の魚は獲物をくわえて、バクバク食べてしまう。手袋を脱ぐように取れていく人間の手肉……けれど僕の手はそんな事にはならなかった。


 魚の口内はぬるぬるする事もなく乾いていた。洞窟のようにごつごつする。指を伸ばすと、鉛筆の先端に触れた。次の瞬間、それは奥に吸い込まれていく。僕が魚の喉に指を入れると、その指をつかむ小さい何かがあった。見えないけれど、僕の指を愛撫するように撫で回して、僕が指を押し込むとひゅっと消えた。針、釣針で魚を釣って口の中身を見たい。けれどそこにあるものは無間に広がる暗い穴であって、その先にある一つの世界、宇宙までは見えはしないだろう。


 なんとか魚の口から手を離すと、僕は手のにおいを嗅いだ。生臭いけれど、魚の口内にそんなものがあったのだろうか。どこに繋がっているか分からないあの口の中に海がある……僕が魚に視線を落とすと、そいつは僕を見上げていた。知能があるのだろうか? こんな奇怪な生物に。


 魚の餌を工面する事はわけもなかった。なんでも食べるからゴミが出たら食べさせればいい。小さなゴミでも魚は食べるし、それだけで空腹を感じる事もないようだった。僕はバイトの日々の中で、魚を買う密かな楽しみを持った。


 魚に知能があるのか分からないけれど、僕を餌を運ぶ人間と認識しているらしく僕が浴室に入ると顔を出してくる。僕は持ってきた餌を入れてやる。たまに指を浴槽に入れてみるけれど、魚は僕を食べる事なく指をぱくりとくわえる。


 そんな日々の中で、お母さんが僕のアパートの近くにきたついでに寄っていくと言い出した。魚を飼っているのは秘密だけれど、まさか息子の家の浴槽までは見ていかないだろう。


 僕がお母さんを迎えると、実家から持ってきたと言ってお米をくれた。最近はお米が高いから助かる、なんて言いながら。


「随分部屋片付いたんじゃない」


 お母さんは僕の殺風景な部屋を見てそんな事を言った。


「うん、あんまり物を持っても仕方ないから」


 実の所、取り繕った言い訳なんだけれど、それは言わない。


「無駄に物をため込むよりいいよ。実家にあんなに溜めて。捨てるの大変だったんだから」


 むっとする一言は急に言われた。


 このアパートに僕が引っ越す時に家に置いてきた色々な品――中には友人からもらった自筆の絵画もあった――そういうものは一切、母の手で処分された。直接いる物じゃないからと持ってこなかった大学の学位記、二度と買えない稀覯本、限定で買ったCD、幼い頃に幼馴染から貰った贈り物……そういう一切が母の手で処分されて、僕は家にいた頃の過去をなくした。


「うん。ごめん。ところで」


「何」


「お風呂に妙な物があるんだ」


 僕の言葉をお母さんは訝しんだようだけれど、せかすとあの魚がいる浴室に向かった。僕は後ろからついていった。


 ひぇっと妙な声が聞こえて、僕はお母さんの肩越しに餌を求める魚の姿を見た。僕がいらない物をなんでも食べてくれる有利な友人の方へお母さんを突き飛ばすと、大きく空いた口は彼女の頭をくわえ、悶えるその人を丸のみにした。


 魚はどれくらい大きくなるんだろう……僕が浴槽の魚を見ていると、ぐいぐい大きくなった魚はもう浴槽からはみ出るくらいになった。


 水から頭がはみ出た魚はパクパクと口を開けていた。けれど、僕がずっと見ているとその動きもなくなって、ついには死んだようにぐだりと頭を横にして、一つの眼球を吐き出した。


 後に残ったのは、何もかもなくしてしまった僕自身だった。

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