神様考
教師になった友人が文芸部の顧問をしている。彼は今年卒業する生徒が最後に奇妙な文章を出したと言って見せてきた。私は職業の関係からそれにコメントを付す事を約して一部頂いた。と言って、その奇妙な文章以外に興味があったわけでもないが……。
以下は、私が気にした文章そのものである。
「神様考」
神様、と聞いてあなたはどんなものを思い浮かべますか?
それはきっと優しいと同時に残酷な物なんじゃないかと思います。今、私は神様に対して『それ』という代名詞を使いました。私にとって神様とは『それ』と呼ぶべき存在です。
では、もう一つ質問します。
「神様の姿を絵に描いてください」この質問に対してあなたはどんな物を描きますか?
思い浮かべるだけでもいいです、でも、思い浮かべた『神様の絵』は、ひょっとして人間の姿をしていたんじゃありませんか?
私が思い描く神様という存在を絵にすればどうなるのか……銀河の写真ってありますよね。暗闇の中に光が渦を巻いているような。私の画力で再現できるか分かりませんけど、私が神様を描くならきっとそんな形をしています。
「父なる神」という言い回しを聞いた事はありませんか。「母なる神」でもいいです。前者はキリスト教的世界観での神様、後者は多神教的世界観での神様、どちらでも同じ事です。父ならば神様は「彼」と呼び変えられますし、母ならばそれは「彼女」と言い換えられます。あなたは『神様』を代名詞で呼ぶときになんと呼びますか。彼ですか、彼女ですか、彼らですか? けれどそれは人間的な表現であって、神様に使うべき言葉ではない。私は先に書いた通り「それ」と呼びます。
聖書の最初の方を読んでも全然分からない人間がこれを書いている事には既にお気づきでしょう。神様が人間を作ったというあの話、意味が分からないんです。一体、どうして神様がわざわざ人間なんて物を作らなきゃいけないんでしょう。しかも、アダムとイヴは神様と会話しているんです。ばかばかしい作り話が世界で一番読まれている本だって、寧ろばかばかしいから読まれてるんじゃないかと思います。
神様と会話した事がある人がいるのか知りませんが、会話したと主張する人間はいるみたいです。じゃあ、何故神様が人間なんかと会話しなきゃいけないのか。可哀想な神様。人間みたいな不完全な存在に話しかけて神様に何かいいことがあるんでしょうか。
仮に、神様が人間を生み出したとしたら、話すのも分かります。私だって未来で自分の子どもが生まれて一切話しかけないって事はないと思います。神様と話したって言う人はきっと、神様が自分達人類を作ったんだと思い込んでいる傲慢な人なんじゃないかと思います。
私の神様図――それは銀河に似ていると言った通り、神様はそもそも会話できそうな存在でもありません。ただ、会話できないというのは話しかけて貰えないというだけで、もしも人間の中に神様が無視できない何かをするような人がいるなら、その人は話しかけて貰えるんじゃないかと思います。
神様が人間を生んだという考え方がどういう風に生まれたのか知りません。ただ、神様が人間を生んだのではなく、神様から自然に発生した森羅万象の一つが人間なんだという話を知っている人が大昔にいて、その話を曲解した人がいたんじゃないかと思います。
神様が人間を作るとして、何故人間みたいな不完全な存在が生まれたのかの説明は全然できないじゃないですか。神様は全知全能だという話も怪しい物です。全知全能の神様の所業を記した本を読んでも、出てくるのは想像力が行き詰まった時に出てくる便利な存在であって、どうして神様がそんなに都合のいい存在だと思えるのか不思議です。
神様を信じて生きている人は多いと思います。その中で神に愛されていると心から言えるくらいに幸福な人は何人いるでしょうか。私は神様を信じてこの文章を書いているわけですけれど、愛されていると思った事は一度もありません。
寧ろ、愛とか慈悲とか、人間が持つ感情を神様に当てはめてしまうのは人間の悪い癖です。唯一神に限らず、日本の神話でも……神話。いえ、もっと漠然と民間で信仰されている神様でも『神様が怒る』『神様を喜ばせる』なんて事言いますけれど、それも神様を擬人化して遊ぶ不真面目な信仰に過ぎないような気がしてなりません。
人間の感情を示す言葉というのはもう粗方開発されていて、新たに作っても何かの言い換え程度にしかならない気がします。では神様の感情はどうなのか。そもそも神様に感情はあるんでしょうか。恐らくあると言え、しかし同時にないとも言えます。
森羅万象に分化してなお大きな母体を持つ存在が神様であり、その存在はどんな所にもいると思えます。それ――神様は矛盾を内包する存在ですから、感情豊かでありつつなんの感情も起こらない存在だという事もできる筈です。
例えば神様が何か人格のある人間じみた気持ち悪い姿の存在だとして、丁度そういう神様を信仰している国々の間で起きている侵略や虐殺に対して悲しんで何もしない、それは神様的な事です。けれどそう考える人はそもそも神様を誤解していると思うのです。
第一、神様はこの世界をどうこうしようとしていない。すべてが勝手に回っていくのをただ感じている……感情の意味ではなく、人間で言えば肌に何か触れた、目の前を何かが横切った、そういう感覚器官での話に於いて感じているに過ぎず、その一々に神様自身が何かする事自体過去にも今にも未来にもないのです。
人間は人間の譬えがないと身近に感じられませんから、人間で考えます。人間の体が神様の体だとして、髪の毛を人間だとします。生まれた頃は髪の毛もそれほど生えていないのが人間ですけれど、そこから段々生えていく。これは自然にそうなるのであって、神様から人間が生まれたというのも自然にそうなったにすぎません。人間は髪の毛を切りますね。神様は髪を切るのでしょうか。きっとそこに人間が及ばない理屈が存在しているんです。動物の夏毛冬毛のように、神様の髪の毛は何もせずとも自然に整っていく。ただ、神様はその出来不出来に頓着しない……そうして出来上がった形が混沌としていて、それが今の世界の形です。
神様が何故こう自分の事に無頓着なのか。きっと自分一人しかいないからでしょう。神様は一つの存在であり、その中に森羅万象という無数が存在しています。『神としての意識』は一つ、『神としての視座』が森羅万象に存在するすべての数だけあると言えます。
人間は科学を発達させて様々な事を発見して、これからもきっと発見するでしょう。その中に存在する一切……元素記号なんて必死にに覚えましたけれど、その単位にも一つ一つ神様としての目が宿っていて、かつ元素の集積である人間一人にも神様としての視座が存在しているのだと思います。
もしかすると、その仕組みの中で何かのバグが起きて人間は人間に似た神様なんて不完全な存在を思い描いたのかも知れません。矛盾を内包するという事は、当然内部で様々な問題が存在して、けれど神様にとってその問題は別に問題でもない、という事になります。
何故って、神様はそこ(どこと言われれば世界です)にただ『ある』のであって、その内部で起きている事は私達が普段生活している中で起こす生理現象の束に過ぎません。
人間はただ生きているだけで細胞のターンオーバーを起こしているけれど、今どこの細胞がどうなったなんて事を一々感得する人はいません。神様にとって世界で起きている事はそういう物で、『それ』にとってはただ自然に起きている現象でしかないんです。一体、どうして人間が細胞云々なんて物に興味を持ったか分かりませんが、神様はきっと持たないでしょう。最初から知っていて、それが当たり前だと思うのなら一々疑問に思いません。一足す一が二になる事に疑問を覚える人は数学者にはなれるかも知れませんが、森羅万象に対して懐疑主義を抱いていては死ぬしかありません『死ぬような事をすれば本当に死ぬのか?』疑問一つを解消する為に。
思うに人間は神様のこういうシステムにある程度気づいて無視しているんだと思います。何故か。本当の神様であるそれは人間に対して大して関心がない事に起因します。自分が必死にアピールしているのに『目の前から何か聞こえるな』くらいの反応しかもらえなかったら寂しくなるのが人間です。そして、人間が神様に訴えるというのはアピールどころか細胞が少し動いて見せる程度の事で、母体からすれば感じる事すらない事です。
こういう寂しさを埋めるにはどうすればいいのか。何年か前に令和を擬人化する馬鹿な遊びが流行りましたよね。天災を天災のままにしていては親しめないから、仮に人格を持たせて親しめるようにする。もうお分かりかと思いますが、人の神が人に似ているのは人間が親しめるようにするための工夫であって、創世神話の類は一切関心を向けてくれない親から愛されていると思いたい人間の妄想列記です。
この意味で言えば人間が狂ったのは神様の所為かも知れません。神様が本当に人間を我が子のように愛して導いてくれる存在ならば、人類の歴史がそのまま戦争と虐殺の歴史になる筈がありません。ただ、人間の大半は愚かなので、自分達の下劣な殺意を神の意志にすり替えるなんて真似をするんだと思います。
実際には病原菌に対して免疫が反応するみたいな事は当然にあるので、人間が何をしていようが別に神様がどうなるわけでもない筈です。まして神様というのは森羅万象の総体ですから、仮に人間が滅んだならばそれはある種類の細胞が消えて、別の細胞が生まれるような物です。
森羅万象と言いますが、地球を離れたそこも神様の領域です。神様の領域がどこまで広がっているのか、宇宙にも限界はあるというのが最近分かったみたいですが、その限界の先まであるんじゃないか? そんな事すら考えられます。
と言って人間が世界を知ろうとする試みは人間にとって有用な物ですし、ただその一切が神様にとってどうでもいい事なんだろうなという程度です。この世にある様々な法則とか理論、万有引力の法則とか相対性理論とか、そういう物を神が作ったというジョークを聞いた事があります。元々あるものをどうやって作るんだろうと不思議な気持ちになりました。
今まで書いてきた事を総合すると『神=それ=森羅万象』であって、人間はそこに内包されている細胞に過ぎないという事です。
なら神様を思うのが無意味なのかというと、そうでもないと思います。細胞が肉体の健康を考えるというのもよく分からない図式ですが、けれど神様という総体が壊れる事は当然、内包されるすべての死ですから、それさえ避けられればいいのかなと思います。
『神様の為に』という考え方はあります。けれどそれはどこまでも『人の為に、動植物の為に、環境の為に』に置換されて、純粋な意味での『神様の為に』はなかなか見つからない物です。そういう物はないと割り切って、自分に都合のいい方向に向かうニヒリズムもあるかと思います。
けれどそういう利己的な考え方は歴史的に見て破滅に辿り着きますから、利己的ではなく利神的に考えたい……そんな風に考え方を詰めていきました。
けれど神様という存在の大きさに対して人間は非常に小さくか弱い物であり、その力がどこに向かうかと言えば少し前進して消し飛ぶ程度に思えます。なんだか、そう考えるとニヒリズムに走ってしまう人が多いのも頷けます。
とはいえニヒリズは軽蔑すべきと言え、少なくとも生きている分にはいいのでしょう。神様の為にと考えると、殉教するのが一番いい奉仕であるように思えてきますから。
だって、神様を擬人化して考えてみると人間なんてがん細胞みたいな物じゃないですか。ならばその一かけらでも早く死滅した方が神様の為です。
と言って神様に死はあるのかと考えると、それは曖昧な問題になってきます。人類の死によって言葉としての神様は死ぬにしても、総体としての神様は形こそ変わっても生き続けるだけの気がします。
無限に溢れる生命の総体こそが神様なのであり、その生命の為に人間が何かをどうにかできるのかと言えば、少なくともまだ当分移住できそうにない地球を優しく使うだけだと思います。
と言って、本当の無神論者が守る速度を超えて壊す物を守れるのか分かりませんが、現代において神様を信じるという事はその儚い希望を追い求める事だけなんだと、寂しくなりました。
それから、死後の世界はありますよ。神様の存在するそこに存在するから、見えないだけです。
きっと私もそこにいくでしょう。
お元気で。
冊子を一通り読んだ後、私は「神様考」を書いた人に会ってみたくなった。その内容をどうやって考えついたのか、またどの程度まで彼女自身の本心が混じっているのか聞いてみたくなったからだ。
一通りコメントを寄せて、友人に向けてその旨を伝えた。
すると、友人はその生徒が卒業後間もなく事故で亡くなったと伝えてきた。
彼女が見ていた『神』の全貌は、闇に葬られてしまった。
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