秘色の人魚 四
実の所、海卯と誠の関係はほとんど終わりながら決定的な一度を待つだけとなっているのだが、海卯自身はまったく自覚がない。寧ろ、一度の切っ掛けで一気に解決に向かうように思っている。しかし実行できないのは、そこにある痛みを無視はできないからだ。
海卯が考える幸せの在り様はただ自分と相手の間に不滅以上の物を生み出すという物だった。一件不可能に見えるこの事は、しかし多くの男女の間で当たり前に成立している。海卯の周りでもそうなりそうな友達はいる。自分は先んじていた筈が、いつの間にか落伍しかけている。
と言って、海卯はあくまで生活的に生きていた。きちんと日を送り、就職も貿易会社の大手に決めて、卒業論文の目途も立った。まったく、彼女の優秀さは恋心の未熟さに反比例するように高かった。
海卯が卒論の調べ物をするのに出かけた日、彼女は街角でばったり誠と会った。二人はまだ切るに切れない関係を続けていたが、この時誠は気まずそうな顔をしていた。家の事だな、きっと誠も佐伯家の父から言われているのだろう……父は誠のような人間を軽蔑しているだろうから。
そんな風に思って、海卯は誠を食事に誘った。誠は頷き、二人が入ったのはどちらかと言えば海卯の好みである洒落た店だった。
注文を決めて待つ間中、誠は落ち着かないように両手で脚をこすり、肩を揺らしていた。海卯は近況報告などしていたが、誠はまるで気にしている風でもない。
私の王子さまはいつからこんなみすぼらしくなったのかな……海卯自身が思う事は、誠の零落ぶりに対する失望だった。それは直ちに幸福の放棄とはならないが、以前に感じた誠への英雄の像はなく、落ちぶれた男の惨めな姿がそこにあった。古臭い服を着ていづらそうに水を飲む彼は、とても過去に海卯が憧れた人には見えなかった。
「誠くん、今年はどう?」
進級とは言わない。誠は留年が重なる事を恥に思わないが、海卯の方では気を使っていた。
「いや、それがさ」
誠は海卯の目を見ず、彼女の手元を見て厭らしく笑った。その下卑た笑いは海卯に並々ならぬ不興を呼び起こした。こんな顔をする人を喜ばせる為に自分は今まで苦しみながら生活を守っていたのかと、白けた気持ちで彼を見ていた。
「大学、やめる事にした」彼は飛び切りの発見をしたような顔で海卯に言った。「いい就職先を見つけたんだ」続ける言葉にだらしなく舌なめずりして、彼は昼食を飢えた犬のように貪った。犬であってもまだ可愛げがあるだろうと海卯には見えた。
「どうして」と尋ねるのはほとんど紋切り型の会話に過ぎなかった。
「知り合いがやってる会社に誘われたんだ」
大学入学以来、出た講義の数も少なく、資格も何もない誠に誘いがくるようには思えなかった。しかし、それは海卯が誠のいる魔鏡にあまり関わらずに済んだ幸運な無知、それが生んだ偏見でしかない。
「見ろよ。まだ小さい会社だけど、ここの社長が俺の事を認めてくれたんだ」
誠が見せたのは一つの会社のサイトだった。聞いた事もない企業で、事業内容を見ると個人規模の物が少し軌道に乗った程度、何故まだ残っている大学の課程を捨ててここを選ぶのか、海卯は理解できない。
「どのくらい稼げるの?」
「稼げるなんてどうでもいいんだ。ここなら資本主義に縛られない仕組みで……」そこから誠は夢物語を話し出した。曰く、経営そのものは社長個人の資産でなっていて、従業員は実質的に『新しい社会の形』を考える為の実験をしているに過ぎない。この考えに自分は共鳴し一緒に向かう事にしたと。
海卯は自分の顔が険しくなるのを感じた。誠がそれを理解しているのかは分からないが、しかしこの店に二度とこれなくなるくらいに恥ずかしい文言で誠はまくし立てている。たまたま入った店でよかったと海卯は冷静に安堵していた。
とうとう、誠は生活を完全に捨てて、誰かの駒となって生きるだけになったんだなと理解できた。それは、彼女にとってこそ難解な事実だった。
食事を終えて飲み物を飲む段になっても、誠の興奮は冷めていなかった。社長と呼ぶ人のアカウントを見せられたが、言っている事は単なる反社でしかなかった。
「待って」驚くほど冷酷な声が出て、海卯は自分にこんな声が出せたのだなと寧ろ感心した。
「それなら私はどうなるの」いつの間にか誠の生活の中に自分は必須の物であるような錯覚を感じていた。
「ああ、海卯は海卯で就職決まったんだろ」
「うん」
「俺も彼女できたし、もう海卯に頼りきりになる事はないかな」
不愉快どころでないのは、誠に別の女がいるというよりは、自分を一人の女とも見ていないようなその言い草だった。
海卯は伝票を取り、誠の首元にねじ込んだ。
「は?」
「今まで奢ってきたツケ、それでまけとくから。払ってよ」
既に、海卯は準備を整えて立ち上がっていた。
「待てよ、金が……」
「黙れ下衆」
一言言って、海卯は先に見た。
恋の最後まで、海卯は童話の人魚姫にはなれなかった。盲目に男を信じ切る事もできなかったが、一方で完全な不幸を迎える事もなかった。その寸前で今までの清算ができたならば、それは寧ろ彼女のリスタートに丁度いい福音だった。
しかし、海卯の考えにずっと存在した不滅への憧れはガラガラと音を立てて崩壊していた。既にそれはそこらにある石ころと変わらない物で、ただただ風雨にさらされてやがて砂になる一つ二つの物質に過ぎなかった。
不滅を得られなかった人魚姫のいきつく先がなお不滅を目指す透き通ったものの世界であった事を思い出す。
都会の中にあってビル風は生ぬるく吹き、海は近いようで遠い。今、海卯は海の上に存在する透き通る世界を見たいと願って涙を流した。自分の数年間の月日と心が無為の物であったとしても、その間にあった自分自身の懸命な姿は嘘ではない。その正直な姿のいきつく先に、不滅への階梯が開かれているのならば、またそこを目指したかった。
靴の行く先を変え、海卯は少しでも海を感じようと、慣れている水族館への道のりを歩きだした。
涙が流れるごとに彼女の心は透き通り、朧気に見える秘色の人魚は微笑んでいるようだった。
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