秘色の人魚 三
海卯と誠の大学受験は成否半々と言った所だった。
希望の大学は二人一緒だったが、誠は落ちて海卯が受かった。海卯は誠と同じ大学がいいとごねたが、両親がそれでは困ると言って、結局海卯は元の志望校に入った。
それでも海卯の志望校と誠が合格した所は同じ都内にあり、二人を分かつ距離はかつてほど邪魔ではなくなった。
二人の関係性に変化が訪れたのもこの時だった。
誠は海卯から馬鹿真面目に恋われている自覚があった。しかしそれは彼の放埓さを束縛する物ではなかった。元々彼は地元ではモテていたし、ただ女遊びの練習に海卯を落としてみるつもりで彼女を陥穽に嵌めたに過ぎない。
しかし、自分が思うようにできる筈の女は志望校に合格し、それを征服する存在である自分が一段下に落ち着くという構図が彼には納得できなかった。不条理であるのは自分の能力の低さではなく、社会にあると彼は考えた。
誠が合格した大学の特色から言っても彼があまり感心できない活動に熱心な学生になるのは必然だったかも知れない。授業には出ず、思想を学ぶ姿は海卯であっても見てはいない。それでいて彼は海卯の前では英雄ぶった。それは彼の惨めな自尊心を保つ為に必要な事でしかなかった。
海卯の方では誠との関係を疑いもしなかった。と言うのも、彼女自身の価値観に於いて彼女は既に不滅の先へ向かう存在であり、恐れるものなど何もないに等しかったからだ。
海卯も誠も一人で暮らしていたが、海卯は軽々しく誠の家を訪ねた。そこで彼に手料理を振るって通い妻気分に浸っていたが、それは強ち間違った自惚れでもなかった。
海卯が誠の家にいった時、誠の同士が居合わせた事がある。海卯が持ち込んだ食事の材料を見ると彼は気まずそうな顔をした。しかし、海卯が腕を振るうと彼は誠と何か真面目な話をして「佐伯さんが従姉だなんて、まるで通い妻なのに?」と笑った。海卯にとって満更でもない話は誠の大学に広まり、彼女の知らない所で海卯は『通い妻』という渾名を頂いた。
海卯はしばしば誠が困った時の相談に乗った。というのも、誠は思想的活動に専念するばかりで生活的な所が欠落していた。親からの仕送りは何かのカンパに消えて、彼がバイトする塾の金では到底生活できなかった。海卯が誠に都合する事はしばしばあった。
遊びたいという気持ちが海卯にないではなかったが、誠が拒む事をあえてしようとは思わなかった。誠自身の言葉によれば彼は『戦士』であり、娯楽は病んだ思想が植え付けた物だという。海卯はそんなに難しい事を考えて生活に苦しむ理由が分からなかったが、しかしそれは自分の頭脳が彼に追い付いていない為だと誤った理解をした。
一方で海卯は自分が通う大学では評判の優等生だった。誠は彼氏と言う事にして、細かい事は友人にも話さなかった。海卯に通い妻という愛称がついているように、誠は名前と海卯の旦那という肩書、それから頭がよく格好いい人だというイメージだけが先行していた。教授達も海卯の私生活に男がいるのを知っていても、普段の素行から悪いイメージは持たなかった。
いつものように海卯が誠の家で彼の食事を作っていると、誠は読んでいた本を置いて、海卯の方にきた。
「海卯、今度の日曜日、空いてるか?」
誠が横柄な口を聞くのは今に始まった事ではない。彼は自分が生かされている立場だとも弁えていない。
「日曜? 空いてるよ」
デートのお誘いだとは海卯も思わなかった。誠からその手の話が出た事自体ない。大学に入って今までで海卯は都会に慣れていたが、誠は寧ろ田舎を恋う事もあるようだった。
「これにつきあってほしい」
誠が見せたのは、とあるデモに関するビラだった。海卯は手を止めて見たが、誠の口からいつか聞いた政治問題に関する物だった。もっとも、それは海卯の目から見れば至極どうでもいい、問題視するのもおかしいようなものでしかなかったが。
「私がいっても分からないよ」
海卯は話を拒んで、ビラを誠に返した。しかし彼は、それを海卯に押し付けて真剣な顔で彼女の肩に両手を置いた。この頃に至ってまだ肉体的な交渉を持たなかった海卯はそれでドキンとした。
「一人でも多くいてくれた方が助かるんだ。何かあっても俺の後ろを歩いてればいいから」
誠は力強く言って、海卯を抱きしめた。海卯は彼の行動を純粋に自分を頼る物と捉え、その信頼は愛情からくる物だと理解した。誤った理解であっても、彼女を動かすのには充分だった。人は自分に価値があると思わされれば進んで自分の目を潰す。
「分かった」
海卯が答えると、誠は精悍な顔に満足そうな笑みを浮かべて「じゃあ、当日は」すぐに実際的な話を始めた。海卯は調理を再開しながら聞いていた。誠の信頼と愛情は重要だったが、彼が語る思想よりは目の前で苦しんでいる生活の方が大切に見えた。
誠は生活を顧みずに思想にのめりこむので、自分が生活を守らねばならないと考えた。
それでもつきあえているのは海卯が持つ無敵の精神――不滅を信じるその精神にあった。海卯は堂々と思想に無知なままデモに参加し、人の波に飲まれて誠を見失ったりした。
デモは警官が見ている中で行なわれていて、海卯は彼らに彼氏とはぐれた事を話した。あまり取り合っては貰えなかったが、年老いた警官は憐れみみたいな目を海卯にくれた。海卯がなんとか誠と合流すると、彼はアジテーターの言葉に従って叫んでいた。
やはり誠は一人前の戦士になる事を夢見ている――海卯はその確信だけ抱いて、自分が誠を支えるべきだと考えた。後にも先にも、海卯がデモに参加したのはこの一度きりだった。
帰り際、誠は不愛想にありがとうと言った。海卯は「またご飯作りにいくね」と言って自宅に帰った。
その日曜日から一週間経たない内に父親から連絡があって、「誠とつきあうのはやめろ」と言われた。海卯は何を言われているのか分からなかった。
自分と誠の間にある交際をそれぞれの家族に明言した事はないが、暗黙の了解として、恋人のその先まで約束されたものであると思っていた。しかし父に言わせればそうではない。「誠と関わっていたら不幸になるのは海卯の方だ」とは父の言い分だった。
家族仲を大事にしたい海卯はひとまず怒りっぽく説教してくる父をなだめて話を先送りにして、自分の考えがどのような物であるのか考える事にした。
自分と誠に足りない物は肉体の交渉ともう一つ、生活に根差した考え方であると思えた。誠は留年が決まっていて、自分が支えるしかなさそうだった。それでも誠がまったく駄目な人間だと海卯には思えず、彼は自分の投書がある新聞に載った事を誇らしげに話してきた事がある。それは文章としては綺麗であり、誠が語っている問題が別の所にあれば彼は成功者として名をはせるように思えた。
そういう勘定の他に海卯は誠がくれたブローチの事を思い出した。この頃海卯は大学で人魚について調べ物をする時にそのブローチをつけている。バイトも人魚をロゴマークにしている有名なコーヒーショップにしている。それくらいに親しんだ人魚を通して様々な物が見えてくると、自分は単なる幸せな人魚姫でもない気はしてくる。寧ろ、人魚とはというイメージが時代によって変わるので四苦八苦してしまう。
今の海卯は大航海時代以前に欧州で存在した男を堕落させる恐ろしい魔物であるのかも知れなかった。そのようにして自分を見る事は一つの苦痛だった。一方で誠が堕落するならば、そこから彼を掬い上げるのは自分だという考えも存在した。
自己弁護に終始する結論は「誠くんは困ってるみたいだから」という言い訳に変わり、父親も心配しながら娘の無茶を止められなかった。
そんな季節が去り、誠が留年してしばし、海卯は順調に学業の成績を伸ばし、卒論を考えながら就職活動に入った。
誠はまず卒業までが遠く、講義にもほぼ出ていないので、その後の事は自分が考えるしかなかった。夢というのもあまりなかったが、人魚という西洋で親しまれた事物にとり憑かれた彼女は外国との繋がりを考えていた。
就職活動が本格的に始まって誠の家に通えなくなる日が増えてくると、海卯の元に岸川家の母から連絡があった。そこには「誠につきまとうのはやめろ」と書いてあった。見覚えのない事は二度あった。「私のブローチを盗んだのもあんたでしょ」ブローチ、と考えればあの日誠がくれた人魚のブローチに他ならなかった。
海卯は誠に彼の母をなだめてくれるように頼んだが、生返事で済まされた。ブローチの件で海卯は悪者にされたが、彼女の両親は寧ろ海卯をかばっていた。
年末に帰省して海卯が聞いた所によると、岸川家の事情は複雑であるらしかった。
「誠が学校にいかなくなったのが海卯の所為だって言うんだよ」
父は不機嫌そうに海卯に語る。年老いた彼は昔のように万能な存在ではなかった。
「ブローチを盗んだって言うし、本当になんなんだ」
その本当の事を話そうと余程思ったが、誠の了解を得なくては話せなくなるような気がして、海卯は黙って父の話を聞いていた。
「誠が変な活動にはまったのも海卯だって言うんだ。海卯はそんな物には興味もないだろ?」
念押しするような父の確認の言葉に海卯はなんと答えれば正解だったのか分からない。
「うん。誠くんから話は聞くけど、私には分からない事ばっかり」ただ正直に答えた。
「馬鹿らしい活動だよ。誠が関わってる団体を調べたけれど、あれは主義主張なんてないただの反社だ」
反社、と聞いて海卯は恐ろしい推測にいきあたった。
ブローチは誠が盗んで海卯に与えた物ではないか……それは事実と符合するのだが、四年前の岸川家に戻る事もできない以上、確かめられない。まして海卯がブローチを持っていると知られればそれは彼女が罪を被る事になる。海卯の考えによれば、二人分の生活を背負う事はできても一つの罪を背負う事はできない。それは不滅と言う彼女の考えに大きく傷をつける事になる。
「でも、どうせ誠も言う事は聞かないんだろうな。ああなっちゃ終わりだよ。海卯はもう縁を切ってくれ。海卯ならいい旦那も見つかるだろうから」
そんな話を断りたくとも父の顔は深刻過ぎて、海卯は「もう会わないよ」と答えるのがやっとだった。
苦しみは存在し、今まさに海卯は魂の危機に存在する童話の中のマーメイドに過ぎなかった。かつて見た不滅はどこにもなく、ただ彼女の安息を脅かす事ばかりが立て続けに起きている。そこから助けてくれる王子様は海卯に見向きもしない。
一体、自分の恋はどうなるのだろう……海卯の中には不穏な心ばかり湧いてきた。今誠に関係を迫るのは自分達の間にある絆を疑う物に思えてできなかった。かと言って縁は切るに切れない。誠は生活のほとんどを海卯に依存していて、まともに生きていけるタイプではなかった。
想念の上で描いた幸せは既にみすぼらしい子猫に変じ、海卯はそれを助けたくとも水の中から見ているしかできない哀れな生物でしかなかった。
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