秘色の人魚 二
海卯と誠の柔らかい交流は十年ほども続いて、二人は高校生になった。その頃はお互い、海にいくなどと言い出さなかった。
それでも佐伯家では夏冬に必ず岸川家にいくし、岸川家にいく度海卯は誠にお土産を渡し、誠は海卯にプレゼントを贈る。そういう関係は恋慕だったか分からない。単なる従姉弟同士のやり取りにしては親密に穏やかに、二人は毎年会っていた。
高校二年の夏に二人が家族ぐるみであった時の事だった。
海卯はこの頃になると人魚の実在を信じてはいなかった。ただ、好きではいた。それは毎年誠がくれるプレゼントに人魚があしらわれていた刷り込みに似た効果であったかも知れない。
二人が会うと誠は快活に笑った。誠は昔から痩せ型ではあったが、小学校から始めた水泳の効果で健康的に筋肉がつき、よく日焼けした肌は気さくな印象を与えた。海卯は明るい印象を与える見た目をこの時お淑やかにしていた。人に見られる時はなんでもないのに、誠と会う時は少しでも女らしく見られたいという願望がささやかに芽生えていた。
「海卯、ちょっとこいよ」
言葉は荒いが、気軽な印象で誠は海卯を呼ぶ。海卯は「うん」と頷いて後から誠の部屋に入った。彼の部屋は綺麗に整い、中に水泳の地区大会で手に入れた賞状が飾られていた。
海卯が誠のベッドに座ると、誠は椅子に座って「元気だった?」声をかけた。
「元気だよ。誠くんも元気そう」
「だな。大会はダメだったけどさ、今年」
「でも、来年があるから」
「うん。でも、来年が最後だと思う。大学いっても水泳やるとは思わないし」
「やめるの? 勿体ない」
「だって、プロを目指すわけじゃないし。それよりはもう少し、泳ぎの経験活かせる資格取る方が身になるじゃん」
誠の中にあるのは将来への漠然とした不安と、それに対して自分が打ち勝つ事ができるという自信だった。自分以上の強者に負ける事を彼は体験していたが、それは彼の自信を根本から折る事はできなかった。
寧ろ海卯と二人でいて感じるのは彼女を徐々に自分に近くしていく征服者の手応えだった。彼の考えによれば、それはこの時に確たる物になるべきだった。
「かっこいい」
誠の思惑に関係なく、海卯はただ将来の事を明るく語る誠のその姿に気高さを感じていた。英雄の像が彼に見えていた。英雄はくじける事なく航海に打ち勝ち、美しい人魚を抱くだろうとすら思えた。
「いや、俺は頭悪いから。それよりさ」
誠は机の引き出しを開けて、そこから青磁色の、人魚をかたどったブローチを取り出した。乱暴に海卯に投げると、彼女はそれを両手で受け止めた。
「今年は特にあげる物見つけられなかったんだけど、それ」
海卯は両手にある人魚のブローチを見た。美しい女性の上半身に魚の下半身を持つ女性があしらわれた派手なブローチには見覚えがあった。誠の母がたまにつけていた。親族で一緒に旅行にいった時だろうか。海卯はそれに強い憧れを抱いて、欲しいとせがもうかと思った。けれどそんなはしたない事はできないと思った。
「母さんが処分するっていうから、貰ったんだ。言うなよ。彼女に渡すって言い訳したんだから」
彼女、という響きが海卯にはとても魅惑的に響いた。
誠以外の男に惹かれた事がないわけではない。しかし、彼女にとって誰よりも慣れている男は誠だったし、トリトンを思わせて泳ぎが上手い彼をかっこいいと思うのは、単に彼女の美化されたイメージだけではなかった。
この間きた時に海卯は誠が告白された話を聞いたが、彼は断ったと言っていた。その断った先の恋情が自分に向けばどれだけいいかと内心もやもやしていた物がこの時、晴れる気がした。
「じゃあ、私が彼女って事?」
海卯は喜びに歯を見せて笑い、しかし言葉はからかうように言って、誠がくれた人魚のブローチを胸に当ててみせた。
「ってわけでもないけどさ。でも、海卯の事は好きだぜ」
歯の浮くような台詞は出てこなかったが、この口説き文句は充分に海卯を自惚れの錯覚に落とし込んだ。彼女は「ふふ」笑い、「じゃあ、ちょっと二人で出かけよう」と上せた事を言った。
二人はそれぞれの家族にことわって家を出て、浜辺まで歩いた。昔は車で向かわなければならないような道でも、今は二人で歩けた。
かつてのような晴天はそこになく、暗い灰色が空に広がっていて海でも人は疎ら。二人は海岸線の防波堤の上に立った。
「待ってね。これ、つけてみるから」
海卯は真珠色のワンピースの上に秘色のブローチをつけた。似合わないかも知れないと思う心は月並みだったが、思い人は「似合ってる」少し頭が悪そうに見える笑顔で言った。馬鹿らしく見える所も愛らしいと思う程に海卯は蹉跌に落ち込み、誠の方に駆け寄ってそっと寄り添って海岸線を歩いた。
「大学、どこいくんだ?」
腕を絡ませて歩く中で、誠は何げない話題を出した。
「迷ってる。県内の方がいいかなと思うんだけど、興味あるのは……」
海卯は海を見た。灰色は海を必要以上に青くして、白色の波はいつも見るよりも高く、人魚や海の生き物でなければ難儀しそうに見えた。しかし今の自分は誠と共にその波に打ち勝つ事ができる。
「民俗学。そっちで入って、色々資格の勉強して……」
型にはまる会話をしながら海卯は海の先に人魚が祝福しているような錯覚を感じた。今つけているブローチと同じ生物をどうしてアザラシやジュゴンと見間違えるだろう。木乃伊として作られた形でもなく、正しく人魚を捉える事ができればそれは彼女にとって長年の夢が叶う物であるように思われた。
人類が長年夢想した人魚そのものの自分自身、ただその人魚はアンデルセンの人魚姫のように悲恋で終わるのではなく、精悍な思い人と結ばれて不滅の魂をより強固にするのだと思われた。
絡めた腕は誠のごつごつした腕の感触を知らせた。海卯の体はその肌触りに魅せられて、より誠の体を知りたいと願い出した。誠はどこの大学がいい、あそこは難しいなどと言っている。海卯にとって目の前に存在する二つの肉体こそ真理であり、そこに存在する精神は言うまでもなく一つだった。
そして二人を取り巻く環境がどんな物であっても、あと数年後、もしくは十年後に不滅を超える魂に影響しない物であるように思われる。だから海卯は誠が五月蠅く喋る口を人差し指で塞いだ。
今まさに海卯は自身を理想の
このまま銀幕に出ても問題ないくらいに浮かれた気分で帰ろうとする海卯を誠は止めた。その胸に人魚のブローチがまだついていたからだ。彼の人魚の絡繰は家族に知られてはならなかった。
何も知らない人魚姫はブローチを大事にしまい、誠との距離すら惜しく思える気持ちで家路に就いた。
その短い滞在期間で二人はともに同じ大学を目指す事を決めて、これが海卯にとって大きな転機となった。
一年二年離れていてもどうなる物でもない、一つの契りまで向かう約束が交わされ、不滅の魂はその先への一歩を踏み出したのだから、何も恐れる必要はない。海卯の心には航海に挑む船乗りよりも勇敢な心が存在していた。
思われ人はそれほどの勇気も必要とせず、ただ大胆な賭けを成功させた事に満足していた。下品な欲望は窃盗の証拠を隠す事を忘れず、海卯はその隠された悪意に気づく事もなく、秘色の人魚を大事に荷物の奥にしまい込んだ。
魂の不滅を信じる事が必要であっても、不滅を自覚した時、魂は堕落へと向かう。海卯はこの時己の中にある慢心に気づきもしなかった。
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