秘色の人魚 一

 不滅の魂とはなんだろう。幼い日の佐伯海卯にとって不可思議であるのはアンデルセンが「人魚姫」に書いた言葉だった。曰く人間は不滅の魂を持つが、人魚をはじめ他の動物は持たない。人魚姫は不滅の魂に憧れて魔女の薬を飲み、悲恋の果てに死ぬ。


 幼い頃の海卯にとってこの物語は憧れであり、彼女のその後にも大きな影響を与えた。


 ただ、彼女の身の回りに海が身近だったわけではない。彼女が住んでいたのは寧ろ内陸の街だった。郊外にある丘の上の家で母が寝る前に海卯に読み聞かせる話は多かった。しかしとりわけ人魚姫は海卯がせがんだ。


 初め、人魚のようになりたいわけではなかった。人魚という未知の生物に興味を抱いていた。海に住む人間に似た生物は不滅の魂を持たない。それは憐れむべき事のように思えた。持たないからこそ彼女は悲恋の果てに虚しく消えるのだと思えた。


 佐伯家の親戚に岸川家というのがあって、年中行事の折に海卯の両親は彼女を連れて海辺の町にあるその家にいった。


 その家にいる海卯と同い年の男子が岸川誠と言って、よく日焼けした痩せた男子だった。彼は海卯を連れてよく海にいった。


 夏の太平洋はどこまでも続くように思われた。時折貝殻が落ちているがそれとは分からない茶色い砂浜に立って波に足を晒していると立っているだけで足元が動くような感覚がする。海卯にとってそれは特別な物だった。誠は海卯の横に立って一緒に不動の移動を楽しんだ。


 その内二人は浅瀬に繰り出し、お互いの体に潮水をかけて遊んだ。べたべたになる経験も海卯にとっては楽しく、母親は「女の子なのに」と嘆くふりをしていた。


 岩場にいくと人魚がいる気がして、海卯は海パン一つの誠を連れてよくそこに向かった。人魚は見えなかったが、誠は巧みに岩場に生息する海栗だの海星だのを取り上げて遊んだ。海卯は貝殻を一度に一つ、飛び切り気に入る物だけ思い出に持ち帰った。


 この頃の海卯にとって世界は広く大きな未知の物であり、そのどこかに未知の生物、不滅の魂を持たない憐れむべき生物が存在しているように思えた。海にいく事があると、海卯は決まって誠と一緒に散策した。


 ある年の夏の事だった。


 海卯が誠と一緒に浜辺で遊んでいると、一組のカップルが見えた。空想家の海卯は女の方の足が気になった。内股で、パレオから覗く脚には僅かに赤い筋が見えた。血を流しているのか、怪我をしているのか、もっと別の物なのか。海卯はこっそりその男女の後をついていった。誠はついてきた。


 二人は岩陰に入り、海卯は気づかれない場所から見ていた。


 彼女は腰かけて不満そうな声を上げる。男は申し訳なさそうに謝って、彼女にキスした。その光景、恋を叶えた人魚のように海卯には見えた。人魚は脚を得るのと引き換えに血を流すようになる。その血は彼女が人魚である証明のように思えた。


 海卯は誠を連れてその場を離れ、自分もいつかあんな風に恋を叶える一人の女となるのだと考えた。普段、海にくると活発な海卯がこの時は飲み物を片手ににやにやしているので、両親は訝っていた。しかし咎めるような事はない。


「お母さん、私人魚を見たの」そんな事を言い出すのは困りものだったが、子どもだけの愛嬌と思えば寧ろ母親にとっては可愛かった。


「どこにいたの、綺麗だった?」


「うん、綺麗だった。男の人とキスしてた」


 ませた発言に母親はきまり悪そうな顔をして、「そういう事は秘密にするの」と教えた。海卯の中に芽生えた人魚への幻想はこの時いっそう強く確信的な物へと変貌した。


 まだ見ぬ世界には人魚がいて、大人はそれを隠している。そんな風に考える事が海卯にとっては楽しい物に思えた。


 それから海卯は岸川家に戻る帰りに寄った店で、人魚の絵が描かれた絵葉書を手に取った。海卯の人魚好きは家族だけではなく親族にも周知の事だったので、それくらいはと父親も財布の紐を緩めた。


「お父さん、私今日、人魚を見たの」


 饒舌な娘の話に苦笑いしながら、父は海卯に絵葉書を渡した。


「そうか。海卯は好きだもんな」


「うん。幸せそうだった」


「そうかそうか」


 父の後について店を出て、自販機で父がコーヒーを買う。


「海卯は何がいい?」


「メロンソーダ!」


「分かった」


「ねえパパ」


「ん?」


 自販機のボタンを押した父は海卯にメロンソーダを渡して、その手を取った。


「人魚でも幸せになれるの。私もいつか素敵な人と結婚する」


 随分早い花嫁願望に、父は寂しさを覚えた。しかしそれは海卯の口からいつかもっと別の形で聞くのだと思うと、彼はこの時から覚悟を決めておく必要があった。


「そうだな。海卯もいつか結婚しなきゃいけないもんな」


 結婚しなきゃいけないというのは父が持つ古い価値観に起因する言葉だが、彼は無自覚にこういう言葉を放つ。海卯はその狭い世界を広大な世界を知る大人の見識と誤認した。


「その時はパパにも教えてあげる」なんて無邪気な事を言う少女がどんな大人になるのか、父は心配そうな顔をした。


 しかしこの空想豊かな娘にいずれ幸せな縁談が舞い込む事は、自分にとっても欣快であるように思えて、父は上機嫌になった。


「誠くんみたいなしっかりした人を選ぶんだぞ」


 そんな事を言ったのは、空想的でいつもあり得ないような話をしがちな海卯に対して、現実を見せるのが誠だったからに違いない。


 事実、岸川家に戻って海卯が人魚の絵葉書を見ていると、誠は不可解そうな顔をしていた。


「これを描いた人も、人魚を見た事があるのかなあ」海卯がふと漏らすと、誠はぷっと笑った。


「そんなわけないだろ。人魚なんていないよ」


「でもさっき見た」


「あの人は怪我してたんだよ」


「違う、人魚だった」


 そんな子どものやり取りは少しの喧嘩に発展した。海卯は人魚の実在を主張し、誠はそれを全面的に否定した。海卯が軽く誠を小突くと、誠はむっとした顔をした。それでも彼は海卯にやり返さなかった。


「私もあの人魚の人みたいになる」そんな事を言って、海卯は大切に絵葉書をしまった。誠は「なんだよ、そんなの」と不平そうに言っていたが、結局海卯の中に存在する空想のアイコンを打ち砕くには至らなかった。


 海卯の中にある人魚の像は不幸と幸福の両面で存在した。幼年期に芽生えたイメージは不滅を持たない存在から不滅よりも強固な物へと変じた。


(あの人魚は、きっと恋を叶えて人間以上の魂を手に入れるんだ。それが恋を叶える事なんだ)幼い思念は一つの結論を出し、以降長く海卯の中にこのイメージは通底する事になる。


 海卯にとって人魚の発見は大きな物だったが、それは未知を既知に変えはしなかった。寧ろ未知の物を垣間見た事で憧憬がより膨らむという方向に向かった。


 自分はいつか大人になって人魚に等しい恋をする。そして不滅以上の魂を得る。そんな信仰に似た考えは海卯の中に根を張ったが、彼女がその後の生涯で人魚を見る事を叶えたわけではない。見えない世界はいずれ見えると信じる幼気が存在していて、その時には自分は必ずそこに溶け込めると信じる。


 夢見がちな少女はその後も岸川家に向かう事があった。


 誠との身長差は徐々に開いていった。誠は痩せたままではあったが、日々力強さを増していた。色黒で日に焼けたその顔は王子様にはちょっと見えなかった。しかし、海卯の中には彼のような活発な少年への憧れも確かに芽生えていた。


 海卯が岸川家にいくと、誠はどこかで見つけた人魚をあしらったプレゼントを渡す。交際でもないが、そういう地道なやり取りは確かに海卯を充分に彼に親しませた。


 小学校の終わりごろまで仲よく海にいっていた二人は、中学になると恥ずかしがってただ家の中で遊ぶようになっていった。


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