魔女の棲家 四

 怪我が治った所で出ていく理由にならず、私は魔女の家にあるやけに泡立つ石鹸で体を洗われ、泡の中に排出した。魔女は愛しみのように私の首筋に接吻し、泡を流した。水と布で体を清めて子供の体躯に合わせた浴衣を着せられて寝室にいく。


 魔女は仙薬に似た水薬を作っているらしかった。あれは精神を高揚させる。私は既に堕落を覚え、布団に残る二人の匂いに心を乱していた。骨抜きにされると考えて数日で私は魔女の水母になっていた。泳ぐ事のできない海月は布団の上に広がって根を立てていた。夜の静けさに月明かりは届かず私は熱に浮かされたように快楽を夢想して魔女を待っていた。


 不意に、光差さぬ外にちらちらきらりと人工の光がついた。誰かきたと考えて、今まで夜の来客がなかった私は怖くなった。魔女は寝室の戸を少し開け「絶対に声を立てるんじゃないよ」と言った。果たして何が起こるのか分からなかった。頷いた私は寝室にこもり、居間への戸に耳を当てて聞き耳を立てた。


 ガラガラ声が聞こえて声を押し殺す。女の嗄れ声が聞こえた。その声は酷く醜く合間に魔女の声が聞こえた。その二者を取りなすような胴間声はなんだ。聞いた事がない。魔女はいつもよりも毅然と話していたようだが、やがて怒声が聞こえた。バンと何かを戸に叩きつける音がした。それが合図であるかのようだった。


 ガヤガヤと人の声がした。いずれも大人の男だった。気味が悪く恐ろしい。悪魔が群れて私と魔女の棲家に押し寄せてきたかに思えた。


「――返せ!」


 誰かの野太い声がする。同時に戸が破られる音がする。私は恐ろしい気持ちになりながら、僅か居間の戸を開けて覗いた。


 そこには魔女が無理に座らされ、苦悶の声を上げる姿があった。何人かの男がそれを押さえ、打ち棒で打っている。半狂乱で魔女に嗄れ声を向ける醜い女性は首をつかんで頬を張っている。ドシリ音がして「あっちだろ」と声が聞こえ。いよいよ危ない。私は窓の外を見た。逃げられない。光が既に満ちている。私はこの時ほど光が恐ろしく思えた事はない。


 魔女を助ける事はできないだろう。しかしどうにかせねば私もあの悪魔達に捕まり殺される。逃げ場が寝室にない。上に見えるのは上がるなと言われた階段ばかり。どうにか逃げなければならない……私はもう開きかけた戸を尻目に階段を駆け上がった。


「いたぞ!」獲物を見つけた悪魔達が叫ぶ。


 私は急いで二階に上がろうとして、最後の段に躓いて前のめりに倒れた。暗い二階に灯りをつける前に、階下に向けて手に触れる物を投げつける。何かの瓶であるようだった。私が立ち上がって僅かに見える紐に手を伸ばした時、ガタン何かが倒れた。カサと乾いた音がする。それよりも電灯を……つけて見える物は異常だった。


 私と同じくらいか、それよりも幼い人間の上半身だけの木乃伊に、魚の皮を貼り合わせた張りぼてをつけた人魚だった。それも一匹だけではない。二、三、四……倒れた一つを合わせて五はある。魔女に追い出される心配よりももっと恐ろしい悪魔が階段をダンダン上がってくる音がして、私は奥にある大きな長方形の箱の前に座った。


 この中に隠れると思ったのは幼気な稚拙さだったが、力を入れて蓋を開けた時に見えた物に私は大声を上げた。中には大人と子供の中間程の年齢の男が眠っていた。腰を抜かした私を悪魔が捕まえる。私は半狂乱になって抵抗した。悪魔達は異様な部屋にぞろぞろと入ってきた。何を言っているのか理解しかねたが、いずれも部屋の中を荒らし回り、人魚の木乃伊は一つ残らず破壊された。


「信じられねえ! あの女は悪魔だ!」


 本物の悪魔の一匹が叫んだ。私は体を引きずられ、抱えられて階下へ連れ出された。寝室を通り居間に入ると倒れた魔女が口から血を流していた。乱れ散らばった黒髪を踏みつけて、醜い女が私に駆け寄り、抱き着いてきた。私は泣き叫びながらなんとか振りほどこうと必死だった。しかし魔女を打ち据えていた悪魔が私を捕まえ、家から引きずり出そうとした。私は裸足で、浴衣も脱げかかっている中で後ろを見た。魔女は亡者のような目で私を見ていた。


 それきり、魔女とは会っていない



 里帰りすると、私は懐かしい廃道を通って魔女の棲家にいった。


 既に住民はいなくなり、戸も外れた廃屋の前に立つと数日間の故郷への帰省の記憶が思い起こされた。魔女が何者であったのか、この二階にあった異常な光景はなんだったのか、今もって私は知らない。


 もうじきこの辺りからは人がいなくなる。それぞれの事情から土地を離れていく者が多く、我が家も老朽化の激しさから引っ越す事になっている。


 魔女の棲家にくるのもこれで最後だろう。もう一度もう一度と思いながら二度とがなくなり、私の郷愁は砂上の蜃気楼へと変わる。


 あの人の名前は、今も知らない。





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