魔女の棲家 三

 一夜明けて私は気怠い気持ちで起きて顔を洗おうとした。脱衣所に向かおうとするには居間を通らねばならない。その途中にある無花果の実、そして琥珀のお茶が私を誘惑した。魔女の姿は見えず、私は無花果の皮を剥いて琥珀の茶と一緒に食べた。それはとても美味く、笊の上は瞬く間に空になった。ぺろりと口の周りを舐めると甘さはそこにこびりついていた。


 私は立ち上がり、玄関を出た。門からこちらには少しの庭が広がり、そこには様々な種類の植物が並んでいる。中には無花果もある。私はその果実を一つ捥いだ。魔女がいないと思って庭をぐるりと回りこんで家の裏にいくと、そこには桑畑があった。


 桑の実の季節は過ぎた……私が冒険していると、茱萸の実を見つけて二粒三粒食べた。この辺りは蝮が出るなどと聞かされていたが、そんな物騒な物は見えない。畑のような物があるのかと思ったがない。ふさふさと繁る茱萸の葉は燦光に照って美しい緑を垂らす。ふらふら歩く。もう膝はいいらしかった。治った。そう思った。茱萸の実を四粒五粒取り口に含む。甘酸っぱい味が口内に膨らんで私はここを地上の楽土のように考えた。


 あちらに見えるぼろい小屋はなんなのか、思った時、後ろでガサリ音がする。魔女かと思って振り向くと青大将が木からぶら下がっていて、私は驚いて大声を上げた。飛び上がった時に無花果を落とさぬようにと押さえた。


「どうしたんだい、朝から元気だね」魔女は家の方から黒い一枚着で出てきた。彼女は笊に無花果を収穫していた。私の手にあるのを見ると、彼女はそれを受け取って自分の笊に乗せ、私の後ろにいる青大将を見た。彼女が素手でそれをつかむと、蛇は逃げるでもなく捕まり、青く血管が浮く腕に絡まった。「いこう」私は魔女と蛇と一緒に庭に戻った。


「あまり無断で外に出ないでよ、心配するからさ」


 魔女は大きなお尻を振りながら、蛇を無花果の樹に継ぎ足すように絡ませた。蛇はするりと彼女の腕から枝に移り、私は艶やかな立ち姿を見ながら頬を赤くしていた。昨日の衝撃が強すぎる出来事が頭に沸き上がる。二度とはない気がしたが、魔女は玄関先の手洗い場で手を洗うと、水の滴る冷たい手で私の手を取った。


「おいで。果物ばかりじゃ悪いよ」


 私はドキドキしながら彼女と共に玄関を上がり、いつの間にか用意されていた簡単な朝食を食べた。白米、胡瓜の漬物、味噌汁に茹で卵……卵は蛇に食わせるつもりで置いていたのだろうかと馬鹿な事を考えるくらい、この場所は現実から切り離されていた。食事を食べ終えると、私は彼女の洗い物を手伝った。汚い台所の流し台に並んで立って、私は魔女が洗った食器を拭いた。


「絆創膏を変えようね」


 魔女は台所を出ると、居間に置いている抽斗からまた絆創膏の化物を取り出し、私の膝にある古いそれを取った。もう傷はほとんど治っていて、張り替えるのも馬鹿らしく思えた。しかし魔女は頑なに治療すると言って、傷口を舐めて絆創膏を貼った。肘にも同様の処置を施すと、彼女は例の琥珀色のお茶を淹れてくれた。さっきの無花果がテーブルに置かれ、私は飽く事なく食べた。


「健治、治ったら出ていくかね」


 魔女はお茶だけを飲みながら尋ねた。私はずっとここにいたかった。家にいて感じる憂鬱や家の外にいて感じる窮屈さを魔女に話すと、彼女は切れ長な目に微笑みを浮かべてにこにこと聞いてくれた。差し向かい。魔女は私に一つの笛をくれた。象牙でできた物なのだという。私が一吹きすると、調子外れな音が鳴った。チュンチュン言う声は雀のそれで、玄関先から聞こえるらしい。「外で吹くと愉快だよ」魔女が言うので私は外に出て、象牙の笛を吹いてみた。途端に雀や雲雀が集まって、目の前で囀った。驚きに目を丸くする私の後ろから魔女はそっと肩に手を回し、笛を取ってリズムよくそれを吹いた。集まった鳥達は啼きながらトントンと歩き、最後に魔女が大きく吹くと飛び去っていった。


 不思議な遊びに私は魔女の顔を見上げた。黒髪に隠れがちな瞳が優しく私を見ていた。いつかも私はこの瞳の中にいた者であるように思う。けれどそれは記憶になく、ただ何故とはなしに恋しくなった私は魔女に抱き着いてせがんだ。魔女は私の肩に手を置いて家に入り、テーブルに着かせた。


 憮然口を尖らせる私のその口の前に魔女は角砂糖を一つ差し出した。餌を出された山椒魚のように私がそれを食べると、魔女は甘さが僅かに残る指を私の口に含ませてきた。ちゅうちゅう吸うと、私の中には熱っぽい心地が湧いてきた。その瞳はどんなに飢えていたか分からない。魔女は唾液に塗れた指を取り、自分の舌で舐るように舐めると、シッと振った。その動きは何故だか憧れた。


「少し用事を済ませてくるから、家の中にいるんだよ」


 魔女は立ち上がり、テーブルの上にあった一つの瓶を持って出ていった。私はテーブルにある瓶に何が詰まっているのか気になった。しかし寝室にも同様の物はある。そちらを見てみると、一つの小壺に入っている白い軟膏が気になった。これを塗ったら……考えると恐ろしい気持ちになるので、私はそっと蓋をした。


 しかし奇妙であるのは、色々な入れ物があるのにその中身を作る道具は見当たらない事だった。私は階段を見た。その上に魔女の仕事部屋があるのかも知れないが、しかし入ればそれまでだと思うのでやめた。代わりに魔女の鏡台に向かい、あまり使っている風もない口紅を取ってみた。


 あの豊かな唇にこの紅が塗られているのを想像すると、体の芯がカッとなっていけなかった。どうしても不埒な事をしたい。刷り込まれた本能に従って、私は口紅の先を少し舐めた。なんの味もなかったが、紅は少し濡れて、私は堪らずにしまった。赤くなっていないか……三面鏡で見ても、舌は全然いつも通りだった。


 そこにある色々の物は気になった。しかし子供の良心は小さな倒錯を経てかえって冷静になり、魔女が戻るまで寝ていようと決めた。外に出るわけにはいかないが、家の中は狭く分からない事が多い。


 夏布団に潜り枕に近づくと、湿り気味のそれは優しい匂いで私を包んだ。これは私の匂いではなく魔女の匂いだ。その香りの中に溺れていると体はむず痒くじっとしていられない。残り香に溺れて蠢いている内にパチンと弾けるような心地がした。私は一人でしてしまった事を恥じながらどうにもならない欲求に荒く息を吐いていた。布団を出て裸になると、下着に残った滓が醜くて仕方がなかった。


 着替える物はないか……申し訳ないと思いながら箪笥を開けても、そこには女ものの長い着物があるばかりだった。最後の一段を開けると、丁度私くらいの子供が履いてもおかしくないような、小豆色のズボンがあった。下着も履かずにそれを履くと、私はきまり悪い心地がして、いよいよ帰ってなんと説明すればいいのか分からなくなってしまった。


 汚れた服を見て洗い場に持っていくしかないと思い、箪笥を閉めようとして見える細長い紙箱があった。服ではない。私が手に取って開けると、そこには黒髪が束ねて入っていた。


 誰かの髪の毛……しかし随分長い。それがなんであるのか考えず、私はそっと元の通りにしまった。探せばもっと不吉な物も出てくるのだろうが、幸福に不吉は少なくあるべきだった。私が洗い場に服を持っていくと、同じ時にガラリと玄関の戸が開いた。魔女かと思ったが、野太く「おおい、姉さん」と聞こえたので、洗い場の中で出るべきか困ってしまった。


 昨日の泥鰌男だろうか……しかし入ってくる気配はなく、「いねえ。蟹の家にいこう」という声が聞こえた。連れがいる。見つかっては話を聞かれる……ましてだらしない姿をしているのだから、なおの事見つかりたくない。私はそこでじっとして、数を数えていた。一、二、三……五十と数えて居間に入ると、僅かに開いた引き戸から外の陽光が差し込んでいて、私はその光がやけに惨めに思えた。


 洗う物も洗えずにいるので、苦しい気持ちで居間に寝転ぶ。畳は古く茶けていて、私は転がったそこに破れ目を見た。この家は時代からも社会からも人からも切り離されて、ただ魔女と共に永劫を揺蕩う一つの浮草であるように思えた。自分のような物がそこにいるという信じがたい事実が存在する。何故か私はその浮草に絡まった目高であり、肉食の浮草は私を捕食するのだ。


 益体もない事を考えていると、ガラリ戸が開いて「帰ったよ」魔女がきた。寝転がる私を見て彼女は唇で笑い、居間に上がってそのままキッチンへ向かった。私はようやく起き上がり、彼女の動きを見ていた。硝子の水差しに水を入れている。何かの粉末を匙で掬って水差しの水に混ぜた。魔女はそれを持って隣の部屋にいく。私が不思議に思って追いかけると、彼女は水差しを枕元に置いていた。


「そんな服よりもいい物があるのに」


 魔女は眦を下げて襖を開け、中から男児用の衣類を取り出した。私は彼女の子供になって着せ替えられた。私が裸になると、魔女はまだ湿気っている部分を手で弄んだ。私が赤くなると、頬に接吻した。彼女はどこまでも私を恋人のように見ていた。着替え終えた私を居間に連れていき、魔女は食事の用意を整えだした。


 このままここにいては自分で箸も持てないくらい骨抜きにされて、陸の水母になるのではないかと思われた。しかし私はここにいたかった。誰にも似ていないのに誰かの面影を感じる睫毛の長いその顔にずっと見られていたかった。


 魔女と共に食事を済ませる時間、私は度々食事を落として世話になった。本当に骨が抜かれているのではないかと思う程、私は彼女の子供になっていた。私が彼女に慣れるに連れて、私は徐々に幼くなっているように思えた。食事の最後に琥珀のお茶を飲むと、それはもう苦くはなかった。水に砂糖を混ぜたように甘い。不可思議な心地は段々に朧気になり、私は目の前の幻想を正しく現実と捉えるような心地になっていた。


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