魔女の棲家 二
私は桃と琥珀色のお茶を交互に食べながら、ありがとうございますと言った。しかし魔女に対して名乗りはしなかったし、魔女の素性も聞かなかった。魔女もまた、私の事を優しい顔で眺めながら桃を剥くだけで、何も言わなかった。
家は薄暗かった。窓から差し込む光は僅かに届くが、充分ではない。大方、家が西向きに立っているから光が充分に届かないのだろう。居間の奥にキッチンがあるようだが、そちらは暗い。私が苦みと甘みのお茶を飲むと、魔女は「食べたなら、こっちへおいで」一言言い置いて、玄関から見て右の部屋に入った。この屋敷に幾つの部屋があるのか分からないが、しかしあまり多くはなさそうだった。
私は魔女の後についてその部屋に入った。幾つも瓶が置かれている中に布団が敷かれている。古びた箪笥があり、それは厳然と閉じている。三面鏡を持つ鏡台には化粧道具があり、魔女が人と無縁でない事を示していた。おかしい事は部屋の中に二階へ向かう階段がある事だった。
「いいかい、この部屋とそこと、庭先と、そこで怪我が治るまで過ごすんだよ。その階段を上ってはならないからね。お風呂とお手洗いは玄関から見て左にあるから」
この奇妙な家で少しばかり過ごすのに、それは必須の確認であるらしかった。二階に何があるのか分からなかったが、その約束を破れば魔女の元にいられなくなると、私の本能が理解している。頷き、私は一枚しかない布団を見た。魔女は私が立ち尽くしているのにも構わず、姿鏡の前に立って長く黒い服の背中のボタンを外した。するとそれはするりとその場に落ちて、魔女の体は青白く健康的に肉がついた裸体を晒していた。
鼓動が強く打つのを感じた。これからこの部屋で何が始まろうと言うのか、魔女は何も言う事なく裸のまま私の前に屈み、私のシャツを脱がせた。その時、魔女の吐息が私にかかった。甘ったるい匂いが鼻を突き、私の本能の根はすぐに理性を捨てた。未完全な成育は魔女に悟られ、彼女はすぐに半裸の私を抱いて布団の中に入った。
頭は混乱して、目の前にある生白い肉体を撫でる事に夢中になっていた。魔女は私より遥かに大柄だったが、私の視線の先をよく探って、私の口に乳房を含ませた。日に焼けぬ白い乳房を撫でると彼女は私の耳を甘く噛んだ。母親との存在し得る筈の記憶よりも淫らに、私は本能に隷属した。魔女の手は私の衣服を完全に脱がせた。
恍惚とする感覚があり、私の意識はいよいよ遠くなり、柔らかい肉と湿気った布団に抱かれてぐったりしていた。魔女はどうしたか、私の背中をそっと撫で、彼女と向かい合う私の左耳をそっと舐めた。私はほとんど空腹な獣のように口を開けて涎を垂らしていた。
するりと重たそうに魔女は布団から這い出た。「しばらくお眠り」と言ってしかし部屋から出る事はしなかった。私が見ると窓際の鏡台の前に座り、右手を舐めた。奇妙な人はそこに置いてあった浴衣を着て、肌を隠した。
部屋の裸電球は初めて見る物だった。それが何故そこにあるのかと分かり切った事を考えるのに、私は親にどう言えばいいのかという問題は無視していた。魔女は鏡台の前で何かしていたが、僅かに燐寸を擦る音が聞こえた。火の手は上がらず、段々に部屋の中に妙な香りが漂い出した。香を焚いているらしかった。
魔女はふわりと浴衣の裾を翻し、部屋を出ていった。私はようやく布団から這い出て、ちらかった服を元の通りに着た。股の間に濡れた不快な感触が残っているが、構わず魔女の部屋を見た。
諸々の薬品が何に使う物であるのか分からないが、触れてはいけない物に思えた。それに触れると……と考えて恐ろしいのは我が身の危険よりも、この家を追い出される危険だった。家に帰りたくない。この家にいたい。そんな気持ちがあった。
鏡台の前に座ると、化粧品に紛れて一冊の日記帳があった。恐る恐るそれを開くと、中に書いてあるのは日記ではなく、様々な記号の群れだった。それらは理解できないなりに魔女が高等な知能を持っているという事を悟らせて、私はただただこんな家で暮らしている彼女の気持ちはどんなんだろうと考えた。
日記帳を元に戻して部屋を見ると、玄関から声がする。魔女の声の他、野太い男の声がした。
誰かうちの近所の人の声か……訛りはあった。私は部屋から顔を出してみた。
「おやこれは可愛いお客さんだ。姉さん、この子を食っちゃダメだよ」
泥鰌のような顔の親爺は私と魔女に冷やかすように言った。魔女は無花果を乗せた笊を居間に置いて、しっしと手を払った。
「食いやしないよ。いいから、物を置いて帰りな。そこの水は飲んでいっていいから」
「へい」
泥鰌の親爺は鉄葉のバケツを玄関に置いて、ぺこぺこ礼をして出て行った。一体彼がなんであるのか、私には分からない。魔女が何ものかもまた分からず、ただ私に幸せをくれる人だとだけ理解していた。ピチャン、水音がした。
「虹鱒を貰ったから、焼いてやろうね」
魔女は靨を見せて笑い、台所に引っ込んでいった。
私は居間に入って、桃を一つだけ取って皮を剥き、食べた。琥珀の茶は苦く甘く、私は妙に体が痒いのを感じていた。汗をかいたからか虫にでも食われたのか分からないが、なんだか皮膚が剥げて新しい膚に変わるような心地がして落ち着かなかった。一つの器を開けてみると砂糖壺で、その隣にドロップスの缶があったので私は一つ口に含んだ。パインの甘さが妙に不味かった。
火を使う音がして、私はぼんやりと壁を眺めた。染みが幾つもある壁のその染みが動きそうに思えて落ち着かない。しかし染みは動く事なく、私はズボンを引っ張って醜い噴出の後を見た。僅かに妙な臭いが鼻につき、顔がひしゃげる。飴玉一つ舐めながら、私は琥珀の茶が切れたのでその場に横になった。
隣室から香が僅かに匂い、光が寂しく私の顔を照らした。
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