6話 綺麗だけど鋭利な刃物
私が目を覚ますと日はもう高く昇っていた。寝過ごしてしまったようだった。いつもだったらディラティたちが起こしてくれるのに、と悔しくなる。私は音を立てずに自分で着替えた。いつもだったら、侍女たちがあっという間に着替えさせてくれるのだから、彼女たちの手際の良さを再認識する。髪を束ねて私は下へと降りていった。
私が階段を降りていくと、黒髪の侍女が目の前を通りかかり、私に気づくと口に両手をかざしてこう言った。
「サニー様がお目覚めです!」
するとディラティが駆けつけて階段下で私を待った。私は気持ち足早に階段を降りるとディラティと顔を合わせた。
「ディラティ、おはようございまず」
「おはようございます、サニー様」
「寝過ごしてすみません、あの……私の師はどこですか?」
師。
あえて彼をそう呼ぶ。エドガーは、それ以外の呼び方をすれば喜ぶだろう。しかしそう簡単に関係性に形を与えたくはなかった。
「エドガー様ですか? 先ほど目覚められて今ダイニングで食事を摂られています」
さ、サニー様もご一緒に召し上がってください、とディラティが私の背を押した。
ダイニングルームに行くとエドガーがカップを持ち上げて中身を飲み干しているところだった。彼は視線を私に向けるとカップをテーブルに音もなく置いた。
「サニー、おはようございます」
「おはようございますエドガー」
ゆったりと過ごす彼の姿に私は思ったままを口にする。
「今日は何も予定はないんですか?」
「サニーまでそんなことを言うんですか。みんな私の休暇をなんだと思っているんですか。休暇とは、日頃酷使している肉体を労り、疲れを落とすためにあるのだと思っていました。それとも私は休息のいらない謎の生命体ですか」
と、エドガーは嘆く。しかし表情にそんな色は一切出ていない。こういうところが私には面白く映るのだ。一般の人から見たら怖いだろうなぁ。
考えてみれば感情を表現するのには動作、表情、声音といった具合に方法が少なくとも三つはある。その中でエドガーは声音を上手に使って感情を表現することを選んだのだ。なので表情の変化は乏しく、動作も簡素なので黙れば本当に空気になるのではないかと思う。もちろん黙っても軍人らしい体格と目立つ容貌で存在感があるので、主張の激しい空気ではある。
私はディラティが運んでくれたオートミール入りスープを食べながらそう思う。私が考えていることを知らないエドガーは幸せそうにこう言った。
「何もしない日、というのも大事です」
こういう日は暖炉の前にサニーと並んで座って、好きな本を読んで、疲れたらそのままソファで枯れた葦のようにくったりと眠る。そして目が覚めたら隣であなたが微笑んでおはよう、と言ってくれるんです、とエドガーがひとりでぶつぶつ言ったかと思えば私に視線を向けた。
「幸せでしょう?」
共感を求められても困る。
この人は私のことになると頭がおかしいのだ。まあ私もだいぶ慣れてはきたけれど。それだけ熱烈に想われているのだと、毎日のように、感じてきた。理由も本人から聞いてはいる。
生命の危機を感じた時にいつも私が現れて救ってくれた、というのが彼が私を一心に思いを向ける理由なのだと理解している。でもそれは恩を感じても、恋愛として成り立つようには思えなかった。
しかしこの人は熱意と興味を私に向け続けていて、しかもそれを隠そうともしない。それだから私は彼をこの数日間で信頼してしまったのだろう。
弟子となる。そのこと自体は別に嫌ではない。でも考えると言葉の重みが凄まじいと感じられるのは否定できない。私が彼に感じているのは彼が私に向けるような強い愛ではない。
もっと信頼を基盤にした別の何かだ。しかし彼と一緒に時間を過ごすのは苦ではない、むしろ楽しい。楽しすぎてこのままでいいのかとちょっと疑問に思うくらいなのだから。
マーロウでは思いもよらなかったような経験に感謝している。
そしてエドガーに。
魔法に。
私に魔法を与えてくれた彼女に。
「サニー! あなたに言葉を投げても関心を示してもらえないとなったなら、私がどうするかご存知ですか?!」
不機嫌な調子でエドガーが私の思考を断ち切った。しまった、物思いに耽っていた。咄嗟の判断で私は何も考えずにこう聞いてしまった。
「どうするんですか?」
エドガーは私の質問に答えるべく、口を開きかけてつぐんだ。
「……いえ、なにもできないんですよ。理解して欲しいです。今の私ではあなたに言葉を贈り、眼差しを送り、必要以上に触れないことでしか、あなたを大切にしたいという気持ちを表現できないんです」
私は首を傾げた。
「それって、本当は一般の恋人たちみたいに手を繋いだり、抱き合ったり、口付けを交わしたいと思っていると?」
エドガーは深いため息を吐きながらこう言った。
「もちろんですよ……」
椅子の背もたれに彼は寄りかかると、脚を組み、その膝の上に組んだ両手を置いた。
「でも、あなたは妻ではありません。あなたのご両親の承諾もまだもらっていません」
この人の恋愛観というのは私の祖父母世代のものと一緒なんだろうか。マーロウの私の世代を思い返すと、みんなそうではなかったような気がする。いや、エドガーの恋愛観に関してはそれで私は嬉しいのだけれど。
「私が馬鹿みたいに真面目なのではなくて、あなたという美しい人の人生を私が土足で踏み荒らすのは私が耐えられないんです」
エドガーはそこまで言うとテーブルの上に置いてあった小さな丸いパンを手に取った。
「泥のついた手であなたは食事をしようと思いますか?」
私は首を振って否定した。
「ましてや自分の汚れた手で愛する人に食物を食べさせられますか?」
私は再度首を振って否定する。
「もし私があなたに口付けをして、結果あなたが私を選ばなかったとしたら、私のその行為があなたの手を汚す泥になるんです。その後のあなたの人生にほんのわずかでも影響するような痕跡を私はあなたに残したくないんです」
そこまで言うとエドガーは鼻を鳴らして上を向いた。
「だから私はあなたが正式に私の伴侶になるまであなたに真心を込めて言葉を投げ続けて待つんです」
私の中で好奇心が悪い顔をしたのか、それとも心が呆れたのか。
「エドガー、もし私があなたを選ばなかったならどうするんです?」
エドガーは短く息を吸った。
「一生独りで過ごします。あなたと、あなたの血を引くすべての子供達を祝福して」
その言葉が私の頭の中に一つの映像を浮かばせた。
クリアアイズの家の暖炉の部屋で、エドガーと思わしき老人がソファに深く座っている姿だ。彼の周りには人の気配がしない。その老人は首に緑のマフラーを巻いたまま瞼を閉じていた。
暖炉の炎がちらちらと揺れ、老人にしては深すぎる皺を一筋ずつ撫でた。彼の閉じた瞼の隙間から、一筋の雫が溢れるのだ。そして私の名前が囁かれる。
ああ……だめだ。
この感情をなんと呼べばいいのだろう。これは、罪悪感であり拒絶であり焦燥感だろう。今私の頭の中に浮かんだ光景を私は受け入れられないのだ。
私が彼を選ばなかった結果があの光景なら、私は凄まじく嫌だ。そしてその感情の源をたどると私のエドガーへの感情があった。これは恋ではない。深い愛だ。それも親に向ける愛情以上に、とても親しい人への。
熱がじわぁっと顔を登っていく。私は居ても立っても居られず、思わず席を蹴った。彼の座る椅子の横に立つと彼の左腕を掴む。エドガーは座ったまま私の顔を見上げる。
「サニー? どうしたんです?」
あなた、泣いてますよ……、とエドガーが言うけれど私はそんなのどうでも良かった。
無言で彼の腕を引っ張った。エドガーは席から立ち上がると私に引っ張られるままに付いてくる。私はその間涙を片手で拭った。
私は暖炉の部屋までくると、庭に続くガラス戸を開ける。外の、もう冬が近いことを示す冷たい空気が入ってくる。ほんのりと秋の香ばしい香りを漂わせて。風に当たると少し気持ちが凪いだ気がした。
「もしかして……」
私に腕を掴まれ引っ張られている男は問いかけた。
「また私のことを想って泣いてくれているんですか?」
私はなんと言い返すのが適切なのか判断できなくて無言でただしゃくり上げていた。エドガーがまた私の名前を呼んだのが聞こえた。私はもどかしくなって叫んだ。
「私の記憶を見てください!」
エドガーは私の叫びに驚いたようだったけれど、黙って頷くと私の額にそっと触れた。いつものように彼が手をすぐに離さないので不思議に思っていると、その手は私の額を覆うようにして触れてきた。
「エドガー? あの、もしかして私の記憶を全部見ているわけではないですよね?」
「あなたが差し出した分しか見ていませんよ。先ほどあなたが老いた私の姿を想像してから私の腕を掴むまでを繰り返して見ているだけです」
そう言い彼は沈黙した。私はエドガーの手に額を抑えられると同時に視界も見えていないので、彼がどんな表情で私の記憶を見ているのか気になった。
次第に私の額が暖かくなるくらい彼の手は温かくなり、本人もそれに気がついたのか手を離した。視界に映ったエドガーはどこか血色が良かった。そして彼はこう言った。
「サニーって実際の年齢よりずっと大人ですよね。落ち着いていて」
ぽつりと呟かれた言葉に、私は思わず目を瞬いた。
そんなふうに見えていたのかと、少しだけ胸がふわりと暖かくなる。
けれど、それが褒め言葉なのか、ただの観察なのか。
気づけば口をついて出ていた。
「……やっぱ年上が好きなんですか?」
エドガーは、間髪入れずに言った。
「違います」
私たちは庭をそれぞれ見渡した。エドガーは問うた。
「でもなんで私をここに連れて来たんです?」
「そうです。あなたを連れて両親のところへ行こうと思ったんです」
エドガーは顔を傾ける。
「泣きながら?」
ええ、と応える私にエドガーが疑問を浮かべた。
「要するに早く私の両親に承諾してもらえばいいんでしょう?」
それを聞くとエドガーは私の手を掴んで手繰り寄せて目一杯私を抱きしめた。
「いいんですか?! 本当に良いんですか?! あなたは私と出会ってから二週間も経っていないんですよ……! ご両親に承諾を得て、正式な手続きを踏んだら、あなたはもう私から逃げられなくなるんですよ?! あなたが本当に良しとするまでいくらでも待ちますよ!」
こんだけぎゅうぎゅうに抱きしめておいて、それでもまだ待てると言う矛盾。こういうところも彼の魅力なのだろう。
だが、正直、息ができない。
気がつけば私は黄金色の芝生の上に寝かされていた。横にはエドガーが軍服姿で膝を抱えて座っている。首にマフラーを巻いて。
いつの間に着替えたのだろう。
それとも私が思うべきなのはどれくらい私は寝ていたのか、だろうか。
エドガーは私の視線に気がつくと目元を綻ばせた。
「先ほどはすみません。舞い上がってしまって」
「親友だったら抱き合うぐらいはしますよ」
私の返事にエドガーは首を傾げた。
「果たしてあなたと私の関係を親友と呼んで良いのでしょうか」
私たちはお互いに首を傾げた。
「じゃあ恋人ですか? なんだかそれも違う気もしますけどね」
私の意見に、そうですね、とエドガーも首を傾げる。
私は起き上がると服についた芝生を手で払い落とした。
「さ、行きましょうか」
「ええ」
エドガーと私はクリアアイズの庭の傾斜を降りて行った。エドガーが反対側の手に大きな籠を持っているのを見て私はたずねた。
「何が入っているんです?」
「ご両親へのお土産ですね」
会話が途切れる。枯れ草色の草原は風に揺らいで、その姿はありのままの自然な姿で美しかった。
空は明るく、真冬と呼ぶにはまだそこまで寒くもない。冷たい風が心地よく吹く。エドガーと私の足で踏み締めた草の文句が聞こえてくる気がした。
エドガーがふと私に聞いてきた。
「……あの、私が策を企てて、あなたが私を好きになるように仕向けた、とは考えなかったんですか」
私はその質問の意味を別の言葉にして聞き返した。
「あなたが私を籠絡したと、考えなかったかと?」
ええ、とエドガーは静かに頷いた。
前進しながら彼は、私一応軍師ですし、と呟く。私も無言で乾いた草を踏み締めながら進んだ。
「マーロウから出たときは、ああこの人私の両親を丸め込んだな、と怒っていました」
私は視線を足下に落とした。そう、あの時の私は怒っていた。
「あなたにそのマフラーを贈った時も、試されている感じがしたのは否定しません。でもあなたは疲労で正気じゃなかったですし」
許してますよ、と付け加える。
ざっざ、と、二人分の足音しか聞こえない。
「それ以外を思い返すと、私の目にあなたはいつも必死で誠実に写っていました。私を好きという感情を手名付けながら、優しくて愛情深く忍耐強い。時折捨て身のユーモアを炸裂する姿を見て、本当に私のこと好きなんだなと思わずにはいられませんでした」
エドガーは前を見つめながら、捨て身のユーモアとは、と聞いてくる。
「自分の自尊心よりも愛する人の笑顔を優先したユーモアのことです」
「……そう、ですか」
「もしあれが計画されていて故意に私の心が傾くようにあなたが動いていたのだとしたら、あなたは軍師であり演者であり詐欺師ですね」
エドガーはその言葉を黙って聞いていた。
「あなたこそいいんですか? このままだと私が死ぬまで私を欺き続けなくてはいけないんですよ。あなたこそ、私から逃げられなくなるんですよ。私はあなたが詐欺師だろうと演者だろうと許し通す覚悟はできています」
エドガーが無言で歩を止めた。私は構わず前に進む。両手を背中で組むと私は彼を振り返った。
「私は魔女です。あなたこそ私に魅了されたんじゃないですか?」
エドガーは私の顔を静かに見ていた。そしてゆっくり瞬きすると柔らかに微笑む。
「人の心を操る魔法はありませんよ。勘違いさせる薬ならありますけど」
さあ、さっさと行きましょう、とエドガーはバスケットをぶら下げて私より先に進んだ。私は慌ててその姿を追いかける。勘違いさせる薬ってなんですか、と聞いてもエドガーは鼻歌を歌って聞こえないふりをする。
さっきのサニーの表情、人の魂を奪う魔女っぽかったですよ、とか言うもんだから私も聞いていないふりをした。あの顔を向けるのは私だけにしてくださいね、と軍師は微笑んだ。
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