2話 雪の日と足りない睡眠2
今日は寒いので火のついた暖炉の部屋での勉強だ。エドガーはいつの間にか首に緑のマフラーを巻いていた。暑くないんだろうか。
私はソファに座ると膝にノートとペンを置いた。エドガーはソファの前のテーブルに一冊本を用意していた。
「何の本です?」
エドガーは表紙を開いた。
すると内側に美しい飾り文字でこう書いてあった。
魔法の系譜
「この本の面白いところは、魔法が継承されると名前が勝手に追加されるんです」
「私の名前も載っているんですか?!」
「ええ。あなたを家に届けた収穫祭の夜、宿屋で開いたら、あなたの名前が追加されているのを見た時はどういうからくりなのか不思議でした」
からくりって、魔法でしょ。
「ほら」
そう言って魔法使いの軍人はページを開いて私に見せた。サニー・ポーターという文字が黒く美しく、そこにはあった。ページの最後に書かれている。
すごい。
私の名前から前の持ち主の名前まで線が引かれていた。どんどん名前を辿ってページを前へめくるとひとつの名前に辿り着いた。
「プリュミエ、ソウサレス?」
「古語で最初の魔法使いという意味です」
古語。つくづくエドガーの知識の幅の広さに驚く。そう言えばこの人も読書が好きなんだっけ。強烈な言葉選びの多い彼だからなのか、時折その事実を忘れてしまう。
「エドガー」
どうかしました? と穏やかな声が返ってくる。あの、と言いかけて質問を変えた。私は指先を本の開いたページの名前に向けた。
「この下の名前が初代の風の魔女の名前ですか」
エドガーは何も言わずに私の目を見ていた。
サニー。
魔法使いはただ静かに名前を呼んだ。そして彼はしばらく黙っていた。何かをものすごく考えているのか、それとも私に言いたい言葉を、伝えたい言葉を選んでいるのか。
「今、本当は何が知りたかったんですか」
その言い方は疑問ではない。私は、口を開こうとして閉じた。また同じ動作を繰り返した。エドガーはその様子を見るとすみません、と私の頭をそっと撫でた。
「あなたには自由に選んで欲しいんです」
何をとも何故とも聞き返せない自分に気がついた。
サニー。
ひどく柔らかな声でまたそう呼ばれる。エドガーは再び呼びかけてくる。この人に返事ができない。段々と呼吸が浅くなってきた。なんだろう、この不安と恐怖は。
この人は、私のことを本当によく見ている。私の一挙一同を記憶に焼き付けている。これより時間を重ねれば、私の些細な変化に誰よりも先に気がつくようになるだろう。いいや、もう遅いのかもしれない。でもマーロウを離れてまだ一週間も経っていないのに。私のことを凄まじい勢いで知ろうとしている。
「……誤魔化して、すみません」
やっとのことで発せられた言葉はそれだった。私は目の前の人の顔を見れなくなった。すると魔法使いは私に背を向けた。少し呼吸が楽になった気がした。エドガーは背を向けながら私に声をかけた。
「あなたが私の名前を呼ぶ時は、私に関心が集中している時なんです」
この人は、私が気づいていない私の癖を知っている。
「だから何を質問してくれるのかと、とても興味がありました」
この人は自分のことを私に知ってもらうのが好きなのだ。
「私のことを、少しでも知りたいと思ってくれたのだと」
私に関心を寄せられるのがとても好き。
「それにあなたは自分で見てわかることを、わざわざ私に質問しません」
そしてこの人は、私と、とても、似ている部分がある。それは。
「私のこと、怖いですか」
小説の行間を読むように、表舞台に出ていないことを感じ取る才能。そしてその才能を現実にも反映させていることだ。
エドガーの背中を見つめても何も変わらない。
「いいえ。怖くは、ないです、でもしばらくひとりにしてください」
私はそれだけ言うと階段を駆け上がって自分の部屋に入るとベッドに倒れ込んだ。
さっき、何が怖かったか。
自分がエドガーのことを知りたいと、思ったことだ。きっと聞けば、彼は快く話してくれるだろう。でもあの時私が思ったのは、この人のことを知りたいと思えば、その好奇心に果てなどなく、私はあの人についていく事になると、そう思ったのだ。
自由。それが私の魂に焼き付けられている望みなのだ。だから今まで家族以外と深い関係を築かなかったのかもしれない。本の世界は私にたくさんのことを教えてくれるが、知ってもその知ったことで私を悩ませはしない。でも他人は。エドガーは。
私のことをすごく大切にしていると、父が言っていたのを思い出す。そうなのだ。その通りなのだ。彼の「愛」とひとくくりにしていいのかわからない感情を、愛と認めないならば、呼べないならば、私の心は正常に働いていない。
ひと通り考えて、正常、という言葉が引っかかった。そして今日一日を振り返る。
ああ、私、眠いんだ。納得が行った。眠ろう。目を瞑る。すると耳に窓を控えめに叩く雨の音がした。ひとつの考えと無表情な男の顔が頭をよぎる。でも今は少しでも寝るべきだ。目を閉じれば、なんの苦もなく眠りに落ちた。
夢、だろう。
狭い小さな部屋。今より小柄で若いエドガーが、檻の中にいる人を眺めていた。檻の中の人の身体は、言葉という形にしてしまうのをためらうほど、痛々しく損なわれていた。エドガーは檻の中に音もなく入るとその罪人の額に白い手袋をした手で触れた。しばらくして彼は罪人の額から手を離すと口元を抑えてよろめいて、檻から出た。彼は檻の錠を手間取りながらかけると、しばらくかがみ込んで頭を抱えていた。彼はそうしている間、しきりに何かを呟いていた。耳を澄ますと彼が祈るようにしきりに唱えている言葉がやっと聞き取れた。
ペリウィンクル、僕をたすけて。
しばらくすると落ち着いたのか、彼はこの狭い部屋を無表情で出て行った。
私は目を覚ました。なんだ。今の夢は。内容をほぼ全て覚えているし、思い返して考えてみれば、あれが現実なら過去の話だと、思う。そもそも現実とは思いたくないけれど。
幸い、寝たおかげで頭はすっきりしているし、気持ちも元気だった。ただ、エドガーのことが頭を離れない。
窓の外を見ればもう暗く月が見えていた。雨は止んでいる。今が何時なのか判断できなかった。この部屋には時計がない。私が時間を気にせず休めるように、という配慮なのか。
部屋の外に出ると、廊下は暗く静まり返っていた。私はなるべく音を立てないようにそっと歩いた。階段下の暖炉の炎は消されていて、でも何か、物音を聞いた気がする。ぱらっ、と微かな。聞き覚えのある音。紙がたわんで戻ろうとする音。
本のページをめくる音だ。
私は確信を得るためにこの音の音源を知りたい、と心に訴えかけた。すると脳裏に今私がいる階段上から階段下が見え、暖炉とは反対側の廊下へと続いた。その廊下の先には部屋がひとつ。図書室だ。
図書室まで行くと、扉の隙間から灯りがこぼれていた。私はそっと中を覗きこむと、銀髪で覆われた頭と緑のマフラーが見えた。
私は部屋の中へ滑り込んだ。この前私が荒らしたのが嘘のようにきれいになっていたのを見て、使用人の皆様に心の中で深く感謝する。
私は空気だ。空気は聞こえない。そう思って行動すれば彼の読書を邪魔せずに済んだ。部屋にはページをめくる音と、時折彼の深いため息が聞こえた。ひどく声をかけたくなった。でも最後の会話を思い返す限り、なんと声をかけたらいいのかわからなかった。
そういえばエドガーはこう言っていた。
あなたが私の名前を呼ぶ時は、私に関心が集中している時なんです。
そうか。
「エドガー」
私は囁き声で彼を呼んだ。
すると彼は前を向いたままその場で背筋を正すと、本を閉じた。そしてこちらを振り返ると微弱に表情を動かした。驚いているのか喜んでいるのかわからない。
「昼間はすみませんでした。とても眠かったみたいです」
「ですよね。朝四時に起こしてすみませんでした」
お互いに謝り合うとなんだか照れくさい。彼は自分の隣の椅子を引くと手で叩いた。私はそこに座ると机の上に視線を走らせた。先ほど彼が読んでいたのは、私も読んだことのある児童書だった。それも当時一番気に入っていたダークファンタジーだ。終わり方は好きじゃなかったけれど。
「エドガー」
はい、と彼は静かに応えた。
「いずれあなたが私の記憶を見る日が来た時のために言います。昼間私は眠すぎて、考えと気持ちが腐っていました。謝ります」
エドガーは、その言葉にひどく動揺したようだった。視線が私の右と左の瞳を交互に移っている。私は構わずに続けた。
「私は確かにあの時恐怖を感じていました。あなたが私のことを急速に理解しようとしているから」
私は目を逸らして壁の本棚を見た。
「でも私もあなたのことを知りたいなって思ったんです。でもそうなったら果てなくあなたのことを知りたくなるのだろうと結論が出て」
私は両手の指同士を絡めながら親指を遊ばせた。
「それが疲れてて自分でも受け入れられなかったんです」
エドガーは自分の座っている椅子ごと私から遠ざかった。彼はとても狼狽えているようだった。物理的に距離をとりたくなるほど、私は何かまずいことを言ったらしい。
「待ってください」
サニー、今何時か知っていますか? と彼は囁いた。そして本棚の置き時計を指差した。
「夜中の二時です。私も判断力が鈍っています。その話、またしてくれませんか」
私は目を閉じると開いた。
「いいですよ」
彼は小さくため息をついた。
「大事なことだから言いますが、私はあなたがただ大切なんです。お願いですから今私の心をかき乱さないでください。今すぐ寝床へ戻ってください」
私は彼の静かな真面目さにひどく惹かれているのだと思う。自分でも驚くけれど、そんな彼の姿勢が、信念が、そして忍耐に惹かれているのだ。
サニー。
エドガーが囁いた。
「今何を考えていたんです? まるで慈悲深い女神みたいでしたよ」
「いずれ知ることになりますよ」
いずれとはいつです、と期待のこもった声で彼は言った。
「占星術で予測すればいいじゃないですか、それとも今、判断力の鈍った夜中の勢いで私の記憶をこじ開けますか?」
「プライベートは死んでも占星術の対象にはしません。怖すぎる」
仕事で散々恐ろしいものを見てきただろう人が言うとすごい怖くなるじゃないか。
記憶については、いつか見せてもらえる日を楽しみにしています、とだけ言った。
彼の名前をもう一度呼ぶと眠気を帯びた柔らかな返事が耳に届く。
「私も、あなたのことをもっと理解したいんです」
私の言葉に彼は微笑んだようだった。
「じゃあ今日また目が覚めたらいくらでも聞いてください」
どうせ今日も休みですし、と彼は眠そうに言った。
Closed.
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