第5話 美は観る者の目に宿る
「エドガーさん」
呼びかけるとしばらくして彼は顔を上げずにくぐもった声でこう言った。
「エドガーと呼んでください」
「エドガー」
彼は顔を上げて私を見た。
「赦してもらえるなら何度でも呼びますよ」
「赦す、とは?」
そう尋ねたエドガーの隣に、私はそっと腰を下ろした。
エドガーがこちらを向いた。その顔が再び見れるのがどうしてだか嬉しかった。
「私があなたに喋らせた内容が魔法使いの掟に触れたんじゃないんですか?」
「なんですって? そのような掟は存在しないかと」
否定的な反応に私は少し怯んだ。
「じゃ、じゃあ、私があなたの話を聞いている間、態度が悪かったとか」
彼はそれを聞くなり顔を背けた。
「あー……もう思い出させないでください」
私は慌てた。
「やはりそうなんですね、ごめんなさい。謝りますから許してください」
「ちょっと待ってください。私の話を聞いてください、サニー。あなたは……」
そこまで言うと彼は空を無理矢理見上げたように見えた。そして私を横目で見ると、何も悪くないんです、と静かな声で言った。
「どういうことです?」
「卑怯かもしれませんが、今そのことを口にすると体が水になって地面に吸われてしまいそうなので、私の記憶を幾つかお見せしても良いですか」
私たちの言葉の間を埋めるかのように、とても心地良い風が吹いた。
「卑怯かどうか、私が判断して良いのなら、見せてください」
今、私はどんな顔をしているのか知らない。けれど、彼の表情を見る限り、人を不快にさせるような顔ではないのがわかった。彼はグローブをそっと外すと右手をためらうようにゆっくり差し出し、私の額に触れた。彼の手は暖かで、そこから冷たい流れが私の脳と視界に広がった。
「どうか」
そう何かを願うエドガーの声を最後に、私は記憶の世界へと沈んでいった。
マーロウの踏み固められた土に淡い緑の粒。それを辿ると私の家が視界に入った。これはこの前にも見せてもらった記憶と同じだろう。彼が私の魔力の痕跡の量を見て私に会いたくないと思った次の瞬間。彼は井戸のそばにいる私を見たのだ。
その途端に私は胸の辺りが激しく苦しくなったのを感じた。それは不愉快さからくる苦しさではなかった。視線は私の、いや彼女の顎のラインを捉え、唇に移り、それから鼻筋をなぞるようにして茶色の瞳へと辿った。その途端、胸の奥がぎゅうと締め付けられる。
すると彼女は顔を背けて井戸水を汲み出した。表情が見えないことから湧き上がる苛立ち。
衝動的に歩み寄って声をかけると、彼女は警戒したような瞳でこちらを見上げ、すぐに視線を地に落とす。どうにかして瞳を見たくて、声を聞きたくて、ここへ来た口実をうまいこと質問に織り交ぜた。彼女を包む魔法は、夜明け前の霧のように淡く、だけど確かだった。
探していた魔女は、多分彼女だ。ーーいや、彼女であってほしかった。
場面が切り替わった。収穫祭当日の朝。風の便りで彼女のことを耳にした。裕福で男前なジョンという男の申し出を断った風変わりな娘、と。
その理由が、誰とも踊るつもりはない。
なぜ誰とも踊らないのか、と本人に聞きに行った。好きな人がいるのに片想いだからとかだったら凄まじく嫌だった。けれど彼女の答えは手を取り合ってまで踊りたい相手がいない! いかに心が晴れたことか。
また場面が切り替わり、彼女の家の入り口が見える宿屋の窓からの風景。彼女が家から飛び出したのでその後を追いかけた。その先は夜のマーロウの森の中。彼女の魔法の粒子を辿ってみれば、男が発した不快な言葉を耳にした。
誰が優しさのかけらもなければ、美しさがないだと?
鍬を振り上げた男の先に彼女が恐怖の表情で逃げて。様々な汚い言葉よりも圧倒的に実害のある怒りが湧き上がった。
立場や地位、そして自分の命を投げ捨ててでも、目の前の男を亡き者にせねばならなかった。
しかし彼女は髪を引っ張られ悲鳴を上げると、怒りに我を忘れて森の空気いっぱいに魔法を放出した。凄まじい量の光に視界を奪われた。自分も魔法に巻き込まれるのかと思ったが、彼女の怒りはただただあの愚かな男にだけ向けられていたのだと知った。大胆で繊細な魔法を使う女性だと思った。
次に見えたのは図書室。彼女がいると侍女たちから聞いて扉をそっと開けた。すると侍女頭のディラティが唇に人差し指を当てて静かにしろと合図した。
私が部屋の中に入ると彼女は微笑んで自分から退室した。恐ろしく気の利く侍女だと思う。人の心でも読めるのだろうか。
何の本を読んでいるんだろう。読み終わったらその本の話でもできれば、彼女の表情豊かな顔を見ていられる。そうでなくとも、彼女と同じ空間で過ごせることが幸せだった。彼女が本を読み終えると小さく伸びをして喜びを口にした。その心地よい声に、思わず声をかけてしまった。彼女は力を暴走させた。
そんなつもりじゃなかったのに!
咄嗟に安全を確保するべきだと思い、風の吹き荒れる部屋の中で危ないもの。机に置いてある万年筆。そう思った瞬間に万年筆が浮かび上がった。それを宙で握り締めた。改めて彼女の禍々しいほどに膨大すぎる魔力を見て恐怖する。
しかし祖母の教えを思い出した。
「暴走を止める時は、相手に向ける良い感情が盾となってくれる」
これで嫌われようとも、形容できる言葉を持ち合わせていなくても気持ちだけはある。そうして彼女を引き寄せた。彼女を抱きしめる腕にきゅっと力が入る。
視界が暗転した。どこからかこれが最後です、とエドガーの声がした。
暖炉の中で燃える手紙を眺めていた時だ。彼女に魔法で火をつけないのだと、意外そうに言われた。自分は水という物質が関係しない魔法は使えないと伝えたつもりだった。すると彼女が興味を示しているのが瞳の輝きと表情で理解できた。
自分のできることをひけらかすことはしないのだけれど。話していくうちに彼女が私の話に顔を綻ばせて微笑みかけてくれて……うっとりとした顔で聞いているのだから。
ふと平常心が保てなかった。このきれいな顔を前にして心臓が苦しい。この歳になってまで心を制御できなくて魔法を暴走させるわけにはいかない。
間の悪いことに彼女が私の名前を呼んだ。いつになく柔らかで親しみのこもった声で。あのきれいな茶色の瞳と薄紅色の唇。これ以上この感情を押し殺したままでいるのはもう無理だ。その場を立ち上がると彼女に背を向け、断りと謝罪を兼ねた言葉を口にして家を飛び出した。
そこで映像は消え、眼前は星空に変わっていた。エドガーは隣で膝を抱えてこちらを静かに見ていた。
「記憶を見せてくれてありがとうございます」
気がつけば私の頬を涙がボロボロこぼれ落ちていた。その様子に相手は息を飲んだ。
「……なぜ泣いているんですか」
彼は指先で私の頬を拭った。
「あなたの記憶の世界はきれいでした」
その言葉に彼はまぶたを伏せて視線を地に落とした。
「サニーの手にかかると私の記憶ですら良いものに変わるんですね」
実際は強烈で主観まみれなのに、と彼は呟いた。
「違う。あなたの記憶のおかげで私は救われたの」
エドガーは小首を傾げて問いかけた。
「私、自分の顔が嫌いだったの。でもあなたの記憶を見て」
涙が再びぼろぼろとこぼれ落ちる。
「今この顔で良かったって心から思えているんです」
「そうですか……」
エドガーはほっとしたようにそう言った。
しばらく私たちは無言で眼前に広がる景色を眺めていた。紺碧の星空の下でそれぞれ物思いに耽る。
人が何を感じているかは本人に聞いてみなくてはわからないものだと、思う。
視界でひとつ、流れ星が落ちた。
「あの、私の記憶で見たことですが」
エドガーが思い出したように言うけれど、その続きに言いたいことはわかる。
「誰にも言いません、私だけの宝ものです」
相手の微弱な安堵の表情に微笑む。だけど次の瞬間男は真顔になった。
「あの、私があなたをどう思っていようと、あなたが私を知りたいと思うまでは、平常心でいるように努めます」
エドガーはそう宣言すると鼻から息を吐いた。でもその後に自信なさげな声で
「暴走したらすみません」
と謝ってくる。
「じゃあその時は私が止めますよ」
私は静かに告げた。
「三回までなら」
エドガーと私が家の中に戻ると、両親がほっとした表情で私たちを出迎えた。その後私たち四人は夕食を一緒にとり、他愛のない話で笑い合ったのだった。
ディラティたち侍女に促され私は寝る支度をした。部屋の窓には薄いレースのカーテンがかかっていたが、その向こうで何かが動いた。気になってカーテンをめくると、それは雪だった。まだ雪の降るような季節ではないと思うのだけど。ディラティが腕にブランケットを抱えたまま私の横に立って外を見た。
「あらあら、雪ですか。まあ、どなたかにとって何か幸せなことでもあったのでしょう。さあ、サニー様、今夜は冷えますから早く寝床にお入りください」
ディラティは嬉しそうに微笑むと私を寝床に入れて布団をいつもより一枚多めにかけてくれた。
「おやすみなさい」
柔らかな声でディラティが言うと部屋の明かりが消された。
私は、今日一日に起きたことを振り返ってしばらく寝床の中で寝れずにいた。腕を抱え込むと思考が止まらなかった。ずっと考えないようにしていたのだけれど。
この体を、あんなに優しく抱きしめてくれた人を両親以外で私は知らない。ディラティも私を抱きしめてくれた。この家の人たちはエドガーの言葉の通り、私に危害を加えるつもりなんてないのかもしれない。ふとその時、エドガーが言った言葉を思い出した。
いたら許しません。
その声音は、真剣そのもので、その時に触れたエドガーの体温を思い出した。とても温かかだった。そして彼の記憶を知って、自分があんなにきれいに見えて、あんなにも想われていたのを知って。驚いたけれど、嫌じゃなかった。
たぶん、この記憶があれば、私は一生幸せだろう。
Closed.
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