第9話

いずみと久々に会った。

 いずみは松田さんと一緒に住みだしたので家に遊びにおいでと誘ってくれたのだ。

 いずみは松田さんと昼食を作って待っていてくれるという事だった。

 本当は湊さんも一緒に来られれば良かったのだが、土、日曜日は中々休めないという事で一人で行く事になった。

 最寄りの駅まで迎えに来てもらい、いずみに案内されて家に着いた。

「綺麗なマンションだね」

 俺は上を見上げた。何階あるのだろう。

「うん。まだできたばかりのマンションだからね。高いでしょー。でもうちは六階」

「六階でも高いよ」

 俺はこんな所に湊さんと住めたらいいなぁと湊さんとの事を考えていた。

 それからエレベーターで六階へ行き、エレベーターのすぐ近くがいずみ達の部屋だった。

 部屋へ入るといい香りがしていた。中に進むと開放的なリビングがあり、そこから外が見渡せた。

「すごい」

 思わず声を上げてしまうほど綺麗で広くて素敵な部屋だった。

「朝陽君久しぶり」

 松田さんはオープンキッチンに立っていた。

「松田さんお久しぶりです」

 挨拶をしてから、いずみにまあ座ってと言われ四人掛けの椅子に腰を下ろした。

「もうすぐできるから」

 松田さんは俺に向かってそう言った。いずみは俺の正面に座り、「あ、なんか飲む?」と聞いてきた。

「うん。何があるの?」

「ビールとかワインもあるよ。でもお酒はやめとく?」

「ううん。じゃあビールもらう」

 いずみはビール缶を持ってきて俺の目の前に置いた。

「なんか朝陽顔色良くなったね。元気もあるみたい。仕事辞めて本当に良かった。私は早く辞めた方が良いって思ってたんだけどね」

「うん。ほんと辞めて良かった。今はなんか生きてるーって感じがするよ。毎日楽しい」

「それなら良かった。それに朝陽には湊さんもいるもんね」

 話しているとオープンキッチンで料理をしていた松田さんが料理を持ってやってきた。

「お待たせ」

 パエリアにカルパッチョ。サラダやローストビーフもあった。お洒落な食卓になった。

「すごいですね」

 松田さんは「今日は特別だよ」と言った。

「そうそう。こんなの毎日は食べられない」

 三人で乾杯をして食事を楽しんだ。

 食事をあらかた食べ終わり、お酒をゆっくりと飲みながらまったりしている時だった。

 松田さんから「朝陽君は次の仕事決まってるの?」と聞かれた。

「いえ。まだ何も決まってないです。今有休消化中なのでその間に決めようかなって考えていて」

「そう。それなら朝陽君事務の仕事とかに興味はない?」

「事務ですか?」

 事務かぁ。地道にコツコツとやる方が好きな俺には事務という選択肢もあるかもしれない。けど今は分からない。

「事務の人が今月いっぱいで一人辞めちゃうんで募集をかけようかって話になってて、それでもし朝陽君が嫌じゃなかったら、うちの会社にどうかなって思って。事務だから営業職とは違って給料もきっと前よりは安くなっちゃうかもしれないけど」

「事務仕事はやった事なくて未経験なんですが大丈夫なんですか?」

「うん。朝陽君まだ若いし。いずみに来てもらうのでも良かったんだけど、会社的には未経験の人の方が変な癖とかないからいいかなって。即戦力よりコツコツと育てていく方がいいんじゃないかって話になっててね」

 コツコツ。俺にピッタリだ。

「そうなんですね。少し考えさせて貰ってもいいですか?」

「うん。勿論。考えて答えが出たら連絡ちょうだい?」

 まだどうするかは分からないが頭の隅に入れておこう。色々な選択肢を探したい。でも松田さんがいる会社なら安心できそうだ。

 夕方になり、いずみと松田さんに駅まで送ってもらった。

「今日はご馳走様でした」

「ううん。朝陽の元気な姿見れて安心したよ。またご飯食べたり飲み行ったりしようね」

 二人と別れて俺は湊さんの家へと向かった。湊さんと出会って、俺は何だか人生が充実したものになっている。松田さんからの誘いはとても嬉しかった。帰ったら湊さんに報告しよう。

 湊さんはまだ帰ってきていないようだ。部屋の電気がついていなかった。俺は湊さんからもらった合鍵を鍵穴に入れる。

 玄関で靴を脱ぎ、「ただいま」と暗い部屋に投げかける。

 シーンと静まり返った部屋は、俺が入った事で息を吹き返した。

 電気をつけて料理をし始める。まだ慣れない料理にスマホで料理のレシピを見ながらゆっくりと時間をかけて作る。

 今まで忙しいながらも料理は母親がしてくれていたので俺はここで初めて料理をした。

 ガチャリ。

 鍵の開く音がした。湊さんが帰ってきた。

「ただいま」

 湊さんはドアを開け、玄関で靴を脱いでいた。

「おかえり」

 なんかいい。こういうのやって見たかった。こういう些細な事が幸せと感じられる。素敵な事だ。

「今日は何作ってくれてるの?」

 料理をしている俺の手元を湊さんは覗き込み、「カレーだよ」と俺は言った。

「カレーいいね」

 カレーは簡単だ。食材を切って鍋に入れて煮込んでルーを入れて完成だ。

 会社に行かなくなってすぐに湊さんは俺に部屋の合鍵を渡してくれた。仕事決まるまで良かったらうちで一緒に住んでよ。と言ってくれたのだ。母親には湊さんの家に少しの間住む事になったと伝えると、浮かない顔はしていたものの、好きにしなさいと言ってくれた。湊さんと本格的に一緒に住むための準備期間だ。もしそうなったら母親は一人になってしまう。そして一人で住むとなるとあの家は広すぎる。家賃だって今まで二人で払っていたのでなんとかやってこれた。現実的に俺が湊さんと住むのは難しいかもしれないけれど、いつか。いつかきっと湊さんと一緒に住みたい。夢が叶うといい。

 カレーを食べながら湊さんに今日松田さんから誘われた事を話した。

「良い話じゃん。事務には興味ないの?」

「ううん。そんな事ないよ。未経験で不安だったけど、未経験の人を雇いたいみたいだし、それにコツコツとやる仕事の方が俺には合ってるって思うし。でもどうするかは他も見てから決めようかなって思って」

「そっか。まあ人生一度きりだしね。やりたいようにやるのが一番だよ。その方が楽しい」

 湊さんはいつも前向きな事を言ってくれる。それがどれだけ救われているか。湊さんは俺の心の支えだ。

「ねえ。明日の休みは映画観に行きたいんだけどいい?」

 湊さんはカレーを食べ終え、ふぅと一息ついていた。

「いいよ。観たいものあるの?」

「うん。昨日から上映されてる映画でさ。恋愛ものなんだけど話題になってて観たいなぁって思って」

 湊さんと恋愛ものを観たい。二人はそれで盛りあがって・・・。なんて今でも充分幸せだが二人の愛をもっと強固なものにしたい。

「映画なんて観るの久々だな」

「俺も。仕事してる時は観に行ってなかった。休みの日はずっと寝て過ごしてたし。映画を観に行くっていう考えもわかなかった」

 この家から電車で三十分位の所に映画館がある。他に色々店もあるし街をプラプラ歩く事も出来るのでそこで観る事にした。お昼を食べて映画を観に行くという流れで、丁度十四時からの上映があったのでそれを予約した。

 次の日は十時頃起きて二人で出かける支度をして家を出た。二人で並んで歩いて駅まで向かい、二人で電車に乗る。幸せだ。二人だけの世界がここにはある。湊さんと同じ時間を共有し同じ場所にいる。

 離れたくない。

 そんな事を思った。

 お昼はオムライスを食べた。卵がふわとろのオムライスだった。デミグラスソースも美味しくて大満足だった。湊さんも美味しいと言ってすぐ食べ終えてしまった。映画までまだ時間があったので少し街をぶらぶらする事にした。

 雑貨屋がありその店に入ってみた。

 かわいい小物や食器が置いてあった。

「この食器かわいいね。二人分買う?」そう言って食器を手に取った。

「いいね。でも値段見て。ちょっと高いよこれ」と、湊さんは小声で言った。

 一つ二千円以上したのでそっと食器を戻した。

 この店は割と高めの値段だったので、店内を見て回り、店を出た。

「あの店値段が高いね。お皿に二千円とかかけられないよ」

 湊さんはそうだねと言って苦笑いを浮かべていた。

 次は洋服屋だ。

 湊さんと俺は洋服の趣味が似ている。この店はまさに二人の好みの洋服が置いてあった。湊さんに似合う洋服を買ってあげたい。そんな衝動にかられ、「ねえこれ湊さんに似合いそうだよ」と洋服を湊さんにあてては見て、あてては見てを繰り返した。

 その都度湊さんは「うん。良い感じだけど今は洋服いらないよ」と言っていたので、一枚プレゼントする。と言ったら、誕生日とかでもなんでもない日にプレゼントなんて悪いよ。しかも今朝陽は仕事探し中なんだから無駄遣いは駄目だよ。と諭された。

 がっくりと肩を落とした俺に、でも気持ちは嬉しいよと湊さんは言ってくれた。

 こんなに優しい彼氏が俺の彼氏なのかと胸がきゅんとした。

 そんな事をしていたら映画の時間が迫ってきたので映画館へと向かった。

 予約したのは真ん中の席だ。一番見やすい特等席。平日なので人はまばらで、恋愛映画なので女性客が多かった。

「なんか場違いな感じしない?」と周りを見回して湊さんは言うので、そんな事ないよ。と言ってスクリーンをみた。周りを気にする事なんてない。二人だけの世界なのだから。

 本編の前に他の映画の宣伝などが流れそれから本編が始まった。

 映画を見始めたら面白くてあっと言う間に時間が経っていた。

 映画が終わり場内が明るくなる。湊さんを見ると大きなあくびをしていた。

「面白くなかった?」と聞くと、「ううん。すごく面白かったよ。話の展開にハラハラドキドキしたよ」と言った。

 映画を観終わり、現実世界に戻る時がいつも不思議な感覚になる。薄暗く大きなスクリーンに映された非現実的な世界。そこに飲み込まれ帰ってきた時には現実があって。明るくなり席を立った時にはもうその世界はなくて。

 ああだったとかこうだったとか話し合う。まだその世界にいたくて、余韻を楽しむ。

 スマホの電源を切っていたので二人で電源を入れた。

 すると湊さんが「あれ?留守電が入ってる」というので映画館を出て湊さんはスマホに耳をあてた。

「え?」ビックリする湊さんに、どうしたのと聞くと、「親父の会社からで親父が病院に運ばれたって」と言った。

 湊さんは会社へ折り返しの電話を入れた。

どうやらお腹を押さえ痛がり動けなってしまったので救急車を呼んだとの事だった。そして病院からの電話があり緊急に手術をするという留守電が入っていたので、病院へも連絡を入れて蓼丸さんの運ばれた病院へと向かった。

 電車を乗り継ぎ四十分程で病院の最寄り駅に着き、タクシーに乗って病院で下ろしてもらった。

 湊さんは落ち着かない様子だった。それもそうだろう。自分の親が病院に運ばれたなんて聞いたら心配で仕方ない。それにせっかく仲が戻ったのだ。これからという時にこんな事になって心配だ。

 湊さんは受付に事情を説明し、受付の人が確認を取ってくれ、どうやら手術は終わっているようだった。

 俺は蓼丸さんの事も知ってるし湊さんの彼氏だ。けれど家族ではないのでロビーで待つことになった。湊さんは案内されて行ってしまった。

 どれくらい待っただろう。湊さんは戻ってきた。

「どうだったの?」

 戻ってきた湊さんは険しい表情をしていたが、「大丈夫だって。けど四日から一週間くらいは入院みたい。荷物とか取りに実家に帰らなきゃならない。これから行ってくる」と力なく言った。

「俺も手伝うよ」

 大丈夫なら良かったけど、入院は大変だ。俺も手伝いたかった。

「いや、大丈夫だよ。一人で出来るから」

「ううん。湊さんが心配だから。蓼丸さんの心配は湊さんがするけど、湊さんの心配は誰がしてくれるの?そのために俺がいるんだから一緒に行く」

 湊さんは、わかった。と言ってくれた。それで二人で湊さんの実家へと向かった。

 湊さんの実家は一軒家だった。蓼丸さんは一人でここに住んでいたのだ。広すぎる。でも色々な思い出の詰まった家なのだろう。

「お邪魔します」

 二人は家に入り、俺は湊さんの後についていった。一緒に行っても結局俺はやる事がなかったなと思ったが、湊さんの心のよりどころになれたらと、湊さんの側を離れなかった。

 湊さんは大きなバッグを見つけてきて、そこに箪笥の中に入っている下着などをバッグに詰め込んでいった。それを俺は少し離れた所から見ていた。

 そこでひらひらっと何かが床に落ちた。

 湊さんはそれを拾った。

「えっ」

 湊さんは声を発した。

「どうしたの?」

 俺は湊さんの側まで行くと手の中にあるものを覗こうとしたら、「いや、何でもない」と言って湊さんはそれをポケットにしまった。

 なんだったのだろう。大切な物だったのだろうか。それから、今日はもう遅いし、身内しかどうせ入れないから先に帰っててと言われた。

「わかった。じゃあ家で待ってるね」そう言うと、「いや、今日は一人になりたいから実家に帰ってくれないかな」と言われた。

 側にいたかった。側で励ましていたかった。「え、でも」

「いいから!」

 湊さんは声を荒げた。

 俺はそんな湊さんを見るのが初めてだった。

 それ以上何も言うなという雰囲気が流れた。

 あんなに優しい湊さんが声を荒げるなんて

相当の事がないとそうならないだろう。一体どうしたというのだ。

 俺は仕方なく実家に帰る事にした。

 湊さんは電車の中でも無言だった。なんて声をかけていいか分からず黙っていた。嫌な空気が二人を包み込み、そして心がざわざわとした。

 乗り換えの電車で湊さんと別れ、俺は実家に帰った。

 家に帰ると、母親が「あら、どうしたの?」

と聞いてきた。結構遅い時間なのに母親はまだ起きていた。

「何でもない」

 俺は何も話したくなくて自分の部屋に向かった。

「ご飯は?」

 背中から母親の声がしたがそのまま無視して部屋に入った。

 スマホを手にとり、湊さんから連絡が来るかもと待っていた。

 しかし、その夜は連絡が来ることはなかった。

 次の日。俺は湊さんの家に行くか迷っていた。一人になりたいと言っていた湊さんだ。今日行っても一人になりたいと言われるだけなのではないかと思った

 助けたい。湊さんを。でも拒否されたら嫌だ。昨日の湊さんの態度。一体どうしたと言うのだろうか。湊さんに会いたい。

 俺は湊さんへメールを送った。今日は行っていいかという内容だ。

 今日湊さんはバイトだ。朝から夜までなので返事は夜に来るだろう。夜に返事がきて、うちに来ても良いと言われたらすぐ向かおうと思った。それで俺は外出着に着替えて部屋のベッドの上で横になってじっと湊さんからの返事を待った。

 一日がこんなに長く感じたのは久々だった。仕事をしていた時、時間はすごく長く感じた。それに似ていた。湊さんとの心の距離がなんだか離れたように感じたのは気のせいだろうか。自分の親の事は心配だ。入院するような事だったら尚更だ。けれど、四日から一週間で退院できるし、大丈夫だと言っていた。じゃあ何が湊さんをあんな態度にさせたのだ。考えても分からなかった。

 結局湊さんから連絡は来なかった。

 それから何日が経っただろう。湊さんから連絡が来ないまま、俺は毎日悶々とした日々を送っていた。部屋に籠り、お腹が空いたらコンビニで買ってきて食べ、夕飯は母親が準備してくれたのでそれを食べた。

 母親から「どうしたの?」と聞かれたが、なんでもないと答えた。

 湊さんの家に行ってみようか。けど、連絡が来ないのに行くのはどうかと思った。忙しいのかもしれないし、何かあったのかもしれない。何かあったなら相談して欲しいがそんな雰囲気でもなかった。連絡をただただ待っていた。

 そんな日々を過ごしていた時、久々に湊さんから連絡が来た。

 話したい事があるからうちに来てほしい。という事だった。

 久々に湊さんと会える。俺は嬉しくて、久々に身支度を整えた。

 話したい事とは何だろう。けれど湊さんに会えるという気持ちがそんな疑問を上回り、軽い足取りで湊さんの家に向かった。

 湊さんの家に着き、ドアに手をかけ回すと鍵は開いていた。

「湊さん?」

 俺はドアを開け中を覗いた。

 突き当りにある部屋に湊さんは座っていた。

 俺は中に入り、湊さん、ともう一度声をかけた。

 湊さんは顔を上げて、座ってと言った。

 とても嫌な予感がした。

「何を急に。どうしたの?元気だった?」

 俺は頬が引きつるのを感じた。それでも必死に笑顔を作ろうとした。

 湊さんは下を向いていた。

「話があるんだけど・・・」

 湊さんは唾をごくりと飲んだ。

「俺達もう別れないか」

「えっ?」

 俺は身体が冷たくなっていくのを感じた。

「だから別れようって」

「どうして」

 俺は湊さんが何を言っているのかよく理解できなかった。

「いやさ。付き合ってちゃいけなかったんだよ。俺達。それに俺、好きな人が出来た」

 好きな人が出来た・・・。

 いつから・・・。

 そんな疑問が頭をよぎった。けれど言葉にする事が出来なくて、俺は混乱していた。

 あんなに楽しく過ごしてたのに。自分だけ好きな人が出来たって言って別れるなんて酷すぎるよ。親にだって紹介したじゃないか。蓼丸さんにだって、何があっても二人で考えて二人で歩んでいって欲しい。って言われたじゃないか。それを湊さんは受け入れてくれたじゃないか。それなのになんで。

「なんで・・・」

 俺は色々な言葉が頭をぐるぐると周り、結局発した言葉がそれだけだった。

「なんでって・・・」

 湊さんもどう言おうか考えているようだった。下を向いた湊さん。かろうじて見える目元は目玉が左右に動いていた。

「好きな人。いつからできたの?」

「いつ?」

 ふと顔を上げた湊さんと目があった。俺は湊さんをじっと見つめた。

 湊さんはまた下を向いて、「ずっと前から」と言った。

 ずっと前?なんか湊さんの言っている事がよく分らない。辻褄が合わないというか、何かを隠しているような。

「ねえ、顔見てよ。顔見て話して」

 湊さんは恐る恐ると言った感じで顔を上げた。

 目が合った。

 湊さんは目を逸らす。

「だから別れて欲しいんだ」

「やだ」

 俺は我儘だ。だって湊さんの事が好きだから。ずっと一緒にいるって決めたんだから。

「無理なんだ。分かってくれよ」

 湊さんの声は震えていた。

「好きな人。どんな人なの?」

「良い人だよ」

 眉間に皺を寄せ、息苦しそうに話す湊さん。

 それ以上聞くなと言うような目つき。俺はどうしたらいいのだろう。これ以上言っても湊さんを苦しめるだけなのかもしれない。けど、俺の気持ちは?この好きだっていう気持ちはどうしたらいいの?

「俺は湊さんが好きだ。ずっと一緒にいたいと思っている。けど無理なんだよね?」

 湊さんは、うん、と頷く。

「友達としても無理なの?」

 俺はこんなに女々しかったのか。どうしても湊さんと繋がっていたいと思ってしまう。

「友達・・・」

 湊さんは上を見上げた。

「一ファンとして、これからは湊さんを応援しても駄目なの?」

 湊さんはどうしてそんなに苦しそうな顔をしているのだろう。別れ話だからだろうか。大学の時付き合っていた彼氏に振られた時、その人はこんなに苦しそうな顔はしていなかった。あっさりしたものだった。

「駄目だ」

 湊さんは俺を正面から見て苦しそうにそう言った。全ての関係を絶ちたいという事なのだろう。

 もう何を言っても無駄なようだ。一度決めた人間の気持ちを変える事は容易ではない。

「わかった。じゃあこれでさよならだね。今までありがとう。さよなら」

 俺はそう言ってポケットから合鍵を取り出し、机の上に置いて部屋を出た。

 ドアを閉めると同時に膝からがくんと倒れ込んだ。そして視界が滲んだ。嗚咽を漏らした。涙が頬を伝い止まらなかった。

 俺は立ち上がりその場を離れた。湊さんの家の前で泣けない。数歩歩いた所で空を見上げた。今日は満月だ。月がかすみ、目からは涙が溢れ出てきて、胸の辺りからこみ上げるものを感じた。

 苦しい。

 苦しいよ。

 大声を出して誰かにすがりつきたかった。湊さん。俺はあなたが好きなのに。嫌だよ。別れるなんて嫌だ。

 心にたまった言葉達は、目から大量に溢れ出てきた。ううっと声が漏れる。

 近くにあった電信柱に寄りかかり、俺はその場で涙を流し続けた。

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