第8話
本格的な梅雨に入り、じめじめとした毎日が続いていた。気分もいつも以上に沈んでしまう。
「湊さん行くよ」
「ちょっと待って。鍵忘れた」
金曜日の夜から湊さんの家に泊まっていた。
今日は蓼丸さんと三人で飲みに行く日だ。
約束した最寄り駅に着き、二人で待ち合わせ場所で待っていると、蓼丸さんもすぐやってきた。
「待たせちゃったかな?」
「いえ。うちらも今来た所です」
それなら良かった、と蓼丸さんは言った。蓼丸さんと湊さんは軽く目を合わせただけだった。
それを横目に、じゃあ行きましょうと俺は歩き始めた。店はもう予約していた。
個室の居酒屋だ。ゆっくり話すなら個室の方がいいだろうと湊さんと二人で話し合って決めた店だ。
店に着き、席に案内され、蓼丸さんと向かい合う形で俺と湊さんは隣同士に座った。
「湊とこうして面と向かって会うのも久しぶりだな」
湊さんは気恥ずかしそうにしていた。
「そうだね。もう六、七年ぶりかな」
湊さんと蓼丸さんは遠い目をしていた。俺はこの中に入っていいのだろうかと思った。二人だけで会った方が良かったのではないだろうか。しかし今日、湊さんは蓼丸さんに、俺と付き合っていると言う事を伝えると言っていた。受け入れてくれるといいのだけど、どうなるかは分からない。
三人はビールと料理を頼み運ばれてくるまで待っていた。沈黙が三人を包み込む。何を話したらいいのだろう。ここで俺が話をしても意味がない。湊さんと蓼丸さんがきちんと話さなければならない。
沈黙を破ったのは蓼丸さんだった。
「歌手。続けてたんだな」
優しい蓼丸さんの声だった。
「うん。諦めきれなくてね。ずっと続けてた。お母さんから認められた歌声だったし」
「そうか。お母さん言ってたよ。湊の歌声は天使の歌声だって。病院で看護師さん達に自慢してたよ」
「うん。憶えてるよ」
二人の間に温かい風が通るのを感じた。良かった。どこかに暗い所のある湊さんだったが、なんだか明かりが灯ったみたいだ。味方が出来るって心強い事だ。それが親なら尚更だ。
ビールが運ばれてきて、三人で乾杯をした。美味しいビールが飲めて俺は幸せだった。
「俺が歌手としてやっていく事、本当に認めてくれるの?」
湊さんは不安そうにそう蓼丸さんに聞いた。
蓼丸さんは笑顔で「うん。今は応援するよ」と言うと、湊さんははにかみながら、良かったと言った。
「なあ親父。今日はもう一つ話があるんだ」
湊さんが姿勢を正したので、俺もそれを見て俺の事を話すのだろうと思い、俺も姿勢を正して真っ直ぐ蓼丸さんを見た。
「なんだ改まって」
蓼丸さんは湊さんと俺を交互に見た。
「実は朝陽と付き合ってるんだ。久々に会ってこんな話もどうかと思ったんだけど、やっぱり親父にはきちんと伝えなきゃって思って。ビックリさせたらごめん。でも真剣に朝陽と付き合ってるから」
蓼丸さんは目を瞑り、そして目を開けてから「うん。何となくわかってたよ」と言った。
「交際許してくれる?」
湊さんの声は少し震えていた。
「許すもなにも、湊は天馬君の事が好きなんだろ?それならお父さんがどうこう言う事じゃない。二人で幸せになってくれる事を祈るだけだよ。まあ世の中まだ偏見はあると思うけど、二人で乗り越えていけたらいいな」
蓼丸さんの優しい声に、言葉に包まれて俺はほっと一息ついた。
湊さんもほっとしたのだろう。顔が緩んでいた。
「ありがとう」
湊さんはそう言うと机に置いていたビールジョッキを取り、ぐびっと飲んだ。
「でも一つだけ約束して欲しい。何があっても二人で考えて二人で歩んでいって欲しい。何があってもだ」
真剣な表情になった蓼丸さん。きっと二人の事を応援してくれて言ってくれてるんだろう。必ず二人で歩んで幸せになる。そう心に決めた。
「うん。分かってる。俺は人前に出る仕事をしているからいつかそういうのが噂になったり、もしかしたら歌手として致命的な事になるかもしれない。それでも二人で考えて歩んでいきたいと思う」
湊さんの真剣な気持ちに俺は胸が熱くなる思いがした。そうだよな。俺より湊さんの方が俺と付き合ってる事はリスクにもなる。それでも付き合ってくれていたんだ。好きだと言ってくれていたんだ。湊さんの本気さに胸を打たれた。
うんと蓼丸さんは頷き、そして俺に、湊を宜しくねと言った。
俺は「はい」と元気よく返事をした。
湊さんはコンビニのバイトを辞めた。
歌手としてそこそこ人気が出てきて、歌手だけではまだ食べていけないまでも、二つバイトをする程でもなくなったのだ。俺はそれに触発されて俺も仕事を辞める事にした。
辞めるにあたって、家に入れるお金の事などもあるので母親に辞める事を伝えると、「次の仕事はどうするの?」と聞かれた。
「探すつもりだよ。でも今度は営業じゃない仕事をするつもり。家にはお金ちゃんといれるから安心して」と言った。
母親は、「そう」と言った。
そして蓼丸さんへも話した。いつもの様に定食屋でお昼を食べている時に、「仕事辞める決心がつきました」と報告した。
蓼丸さんは「そっか。決めたんだね。寂しくなるけど応援してるよ。それに湊との事もね」と言ってくれた。
そして休憩が終わったその足で上司の所へ行き、退職願を出した。
「あー。やっと辞めるんだ。新人も入ってきてるし良かった」と最後まで嫌味を言われた。
有休も余っていたので後四日間働いて後は有休消化となった。
湊さんへは前に辞めるかもと伝えていたのでメールで『今日会社に退職願出したよ』と送った。
なんだか気分が良かった。これで解放されるんだ。こんな選択をできたのも湊さんのお陰だ。湊さんへは感謝してもしきれない。
四日間は早かった。
退職日。蓼丸さんは最後にといつも行く定食屋ではなく、ちょっと高級なレストランに連れて行ってくれた。
「こんな高そうな所場違いじゃないですかね?」
「いや。最後だから。これくらいはしないとね」
「もしかして、ここも奢るなんて言わないですよね。ここは流石に自分の分は出しますよ」「いいのいいの。ここも奢り。最後なんだから気を使わないで」
蓼丸さんのその言葉に恐縮してしまった。でも蓼丸さんの精一杯の気持ちなのだと思うといつか蓼丸さんへお礼の何かをしなきゃなと心に誓った。
定時になり、席を立つが誰も俺に対して話しかけたりはしなかった。
最後まで嫌な職場だったな。
こんな会社、早く辞めればよかった。勿体ない三年間だった。
ぼそぼそっと、「お先に失礼します」と言う。
クーラーの風と共にその言葉は流れて消えた。
会社を出て深呼吸をした。やっと終わった。晴れ晴れとした気持ちで足取りも軽く、今まで苦痛だった満員電車も苦ではなかった。
家に着き、母親は先に帰ってきていた。
「今日が最後の出勤日だったのよね?」
ダイニングテーブルの椅子に腰かけテレビを観ていた母親は俺に向かってそう言った。
「うん。後は有休消化で終わり。その間に仕事探すよ」
「そう。次はいい仕事につけるといいわね」
母親は心配してくれているようだった。側で見てくれていた人だ。俺の元気のない姿も知っている。次も間違ってもいい。そしたらまた軌道修正すればいい。
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