第36話「無貌の変人」

アラビア半島に隠されたトンネルを出るとそこは見事な砂漠だった。

「きれいな砂ぁ!」

シュブ・ニグラスは真昼間炎天下の砂漠で少しテンションが上がっていた。

二人とも何も飲まないし食べないの上に、気温の変化のようなものの影響を受けない生物なので砂漠はただの景勝地なのだ。

ルブアルハリ砂漠の輝く砂丘にうっとりしている。

そうしていると、砂漠の遠くの方から黒い神父が歩いてくる。

シュブ・ニグラスは何か用事があるのかと待つことにした。

しかし、ほぼ地平線付近から歩いてやってくるので、待っている間に砂漠に夕日が差し始めた。

無垢な砂丘が気が狂うほどにピンクに染まる。

その頃になってやっと黒い神父が声が届く範囲にやってきた。

「お待たせいたしました。」

「ずいぶん待ちました。何用?」

黒い神父はペットボトルの水を二本とりだすと黒い仔山羊に一本ずつ飲ませ始めた。

「お二人は平気なようですが、かわいい仔山羊さんがおかわいそうで。」

「それはかたじけない。」

それが終わると、今度は新しいペットボトルを取り出して自分で水を飲み始める。

「ご用は水だけか?」

「いえいえ、本題はこちらです。」

シュブ・ニグラスが後ずさった。

そこにいたのは黒い神父ではなく、邪悪の教皇の証明である三重冠を被った黒く輝くスフィンクス、暗黒のファラオにして終末の扇動者、這い寄る混沌たるナイアーラトテップの顕現だった。

「控えよ、冒涜せよ、忠誠を誓う者には死を、誓わぬ者には永遠の責め苦を、無常の混沌をもって応えよ、賛美せよ。」

どす黒いオーラを全身から発し、とどろく雷鳴のような声で顕在するが顔は全くの黒い平面だ。

ナイアーラトテップがもう一度「控えよ」というと黒い仔山羊が二頭とも消し飛んだ。

いつの間にか夕焼けの空は青黒く染まって日が沈んでおり、代わりに真っ黒な太陽がぎらぎらと照らして砂を焼き始めていた。

投げ捨てられたペットボトルがその熱で発火する。

乗り物が掻き消えて無様に砂の上に投げ出されていた後藤がむくりと立ち上がった。

「後藤よ第一に問う、朝は四つ足、昼は二本足、夕に三本足。その生き物の名は?」

後藤は問いかけと同時に吹き付けた黒い突風を刀を抜いて弾き飛ばした。

「それは人間だ。」

シュブ・ニグラスはその様子を少し離れたところで見ていた。

今の自分の肉体で本気を出したナイアーラトテップと戦って勝てる気がしない……というかナイアーラトテップと戦ったことがない。

勝てる気もしない。

旧きものとの戦いで唯一封印を免れたナイアーラトテップの戦闘力が測れない。

「後藤さま!頑張って!」

ところが後藤は後藤で真面目に戦うそぶりが見られない気がする。

「後藤よ再び問う、なぜ人は死ぬのだ?」

「それは生まれたからだ。」

黒いスフィンクスはその前肢で力任せに後藤を殴りつけた。

後藤が刀身で受け止めると、除夜の鐘のような「ゴーン」という大きな音がした。

「後藤よ最後に問う。混沌の前に平伏し、許しを請い、死ぬことすらできない哀れな存在は誰だ。」

黒いスフィンクスが膨れ上がり風船のようにはじけ飛ぶと、後藤が立っているのは黒い流砂の渦の中心だった。

「後藤さま!!」

シュブ・ニグラスが血相を変える。

この砂漠そのものが這い寄る混沌そのもの。

目にしている世界のすべてがナイアーラトテップだ。

後藤はあっという間に砂に没した。

後藤を飲み込み終えて、今、空の色は純白。

そこには黒い太陽と黒い月。

地面は静かな黒い海のようになっている。

後藤を排除した静かな世界だ。

混沌が飽和して訪れた異常な静けさだ。

「それは、お前だ。ナイアーラトテップ。」

全く分からない声の出所にシュブ・ニグラスがどこを見ればよいか分からず逡巡していると、黒い太陽に後藤の刀が突き刺さっていた。

黒い太陽から飛び出した黒いフレアが触手のように伸びて刀を抜こうとするが、刀の鍔が変形して触手状になり、反撃している。

「ああああああああああ!!!」

さざ波の黒い海から白い空に向かって、次々と黒い怪物が飛びあがる。

奇声をあげて太陽に刺さった日本刀へ襲い掛かる。

次の瞬間、黒い三日月の裏から後藤が飛び出し、とびかかる怪物を殴って叩き落とし始めた。

とびかかる怪物は殴られるたびに黒い液面に没するが、怪物の飛び出す量がどんどん増えている。

それにつれ後藤のパンチの回転数が上がっていく。

今や黒い怪物の群は後藤に向けて伸びる蟻の塔さながら。

数万はくだらないその群を、1秒間に何千発か分からないパンチで撃退し続けている。

天文学的な数の這い寄る混沌を、たった二本の腕から繰り出すやはり天文学的な量のパンチで撃退し続けている。

這い寄る混沌は口々に叫びながら詰め寄るがその音が不快な不協和音から徐々にうねり、清浄な和音に変化している。

「だめだだめだ、オレにやらせろ!雑魚はすっこんでろ!」

先ほど後藤も隠れていた黒い三日月の裏から、真っ黒な法衣を着た男が現れた。

ナイアーラトテップの次の化身だ。

そしてシャドーボクシングをはじめる。

いつしか、黒いバケモノは退散したようだ。

後藤はそれを見ながら両手をぶらぶらする。

左腕の上腕二頭筋がパンクして骨が見えている。

黒い法衣の男が法衣を脱ぎ棄てると、筋骨隆々とした身体が現れた。

腕にはボクシンググローブをはめている。

「このラウンドが最後のラウンドだ……勝負だ後藤!!」

リングの対角線に立った二人に、最終ラウンドを告げるゴングが鳴った。

ゴングと同時に二人ともリング中央に向けてダッシュする。

出合い頭に互いの顔面目掛けて、ストレートをぶち込む。

ナイアーラトテップの拳が先に後藤の顔面をとらえる。

サングラスが砕け散り、後藤の眼球の無い暗黒の眼窩が露わになる。

対してチビでリーチに劣る後藤の右拳はナイアーラトテップの顔面にすら届いてない。

「く!クロスカウンター失敗ッ!!後藤さまぁ!!」

シュブ・ニグラスが悲痛な声を上げる。

「ロケットパンチ。」

「へ?」

事態が吞み込めてないナイアーラトテップが後藤の届かなかった右腕をみると、手首のあたりからしゅーしゅー黒煙が出始めた。

次の瞬間、後藤の右手が爆炎を噴きながらナイアーラトテップの顔面を貫通して砂漠の彼方へ飛んで行った。

「え、うそ……後藤さまの右腕って着脱式なの?」

崩れ落ちたのはナイアーラトテップの方だった。

リングの外に黒いスフィンクスがいる。

「後藤よ、全問正解だ。」

そう呟きながらナイアーラトテップは真っ白な灰になった。

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