渚に雪はもう降らない

スイーツ阿修羅

渚に雪はもう降らない

 上の部屋から、パンを焼く美味しい香りがしていた。鍵穴を埋めて鍵をかける。階段を降りていくと視界いっぱいには朝の海だ。ざざんざざんと寄っては引く波飛沫。

 海はいつも、同じようで違う顔をしている。今日の海はいつもよりも一層元気だった。

 カバンの質量を背中に感じながら、まだ冷たいコンクリを、ランニングシューズで蹴っていく。

 山の上から朝日が刺して、この静かな街におはようを告げる。

 筋肉が熱をもって、冷たい外気に冷やされていく。

 熱い……

 口から漏れた吐息は白い霧となって、私の背中の向こうへすっ飛んだ。


 坂道を降りていく途中、私は視界のなかに、世界で一番の親友を捉えた。


「おっはよー」


 と叫んで、栗毛の髪の森のなかへ、ばっふぅんと飛び込んだ。


「うわはぁっ! も、もうっ! 驚かさないでよ」


 腕の中でジタバタと暴れ回る彼女を、暴力的に抱きしめる。

 身体の小さな彼女は、筋肉質で大柄の私から、どうやったって逃げられない。


「おはよ、雪那」


 愛くるしい彼女を解放し、私は改めて名前で呼んだ。


「おはよう渚ちゃん。今日は一段と元気だねぇ」


 純度100%で彼女は笑う。

 私と雪那は、幼稚園の年少さんから、硬い絆で結ばれた親友だ。

 最近の私たちは、登校時間が異なるから、一緒に学校にいくということが少なくなっていた。

 私がバレー部なのに対し、雪那は帰宅部だから。朝練開始の時間と授業開始の時間で、登校時間がぜんぜんバラバラになってしまうのだ。

 だというのに、


「今日はやけに早いじゃん。何かあったの?」


「うん、今日はたまたま早起きしたから、早くいって勉強しよっかなって思って。

 それに、登校中に渚ちゃんとも会えるかもって、ちょっと期待してた」


「雪那ぁぁぁ、好きぃぃ!」


「うわっ、もうっ!」


 あぁ雪那という女の子は、なんて可愛らしい生き物なのだろう?

 恥じらう仕草から表情まで、全てが愛くるしくてたまらない。

 雪那が私の親友で良かった。


「もう渚ちゃん、今日は一段と甘えてくるじゃん……」


 やれやれ、というふうに、

 されど天使みたいな優しい手つきで、雪那は私の頭を撫でてくれた。


「うん、渚ちゃんはね。雪那に会えなくて寂しくて寂しくて、死んじゃいそうだったんですー」


 私は猫撫で声で、雪那の胸の谷間に顔を埋めた。柔らかい鼓動がとくとくと響いてくるようだった。




「え? 好きな男子がいるって言った?」


 何気なく続く会話のなか、ふと雪那が漏らした話に、私は耳を疑った。


「うん。初めてできたの。私の好きな人」


 雪那は口角をほどいて、仄かに頬を赤らめて言った。


「へぇ、そうなんだ」


 何気ない、なんでもないよというような返事をする。

 でも私は心のなかで、大きな衝撃を受けていた。

 そうだ。雪那も私も、もう女子高生だ。

 思春期真っ只中の恋する乙女。

 雪那に好きな男の子のひとりできるのも、なんらおかしな話ではない。

 でも……

 立ち止まりそうになる足を、平然を装って前へと運ぶ、

 涙腺がじんわりと滲むのを、唇を噛み締めておしとどめた。

 ……なんだろう? この感情は、

 胸の奥が切なくて、呼吸をするのが苦しくなる。

 さっきまであんなに美しかった冬の夜明けの空が、無関心に冷徹に、私を見下しているように思えた。

 堪らない孤独感。

 すっぱだかで誰もいない森のなかに捨てられたみたいな感覚に陥り、寂しくって堪らなかった。

 私は乾いた口を開いた。


「私は雪那の恋を応援するよ。

 何か悩みごとがあれば、いつでも相談に乗るからさ」


「うん。言われなくてもそうするよ。渚ちゃんは私の一番の親友だから。この話をしたのも、渚ちゃんだけだし」


 冬だというのに、暖かそうな頬っぺたで雪那は笑った。

 いつもは飛ぶほど嬉しかったはずの、"親友"という言葉が、泣きたくなるほどに痛い。

 私はずっと、雪那のことを、とびきり仲良しな親友だと思っていた。

 親友だと思ってたはずだった。

 私は平静を取り繕う、雪那の親友の私は、雪那の恋を応援しなくっちゃいけないのだ。


「そんなに照れた雪那の顔、初めて見たよ……」


 すごく可愛いよ……

 と続く言葉が、喉にひっかかって声にならない。


「そ、そんなに顔に出てかなぁ!? うぅ、どうしてもニヤケが止まらないんだよね、気持ち悪いよね……?」


「そんな事ないよ。雪那が笑っている顔、私は大好きだからさ」


「そ、そう?」


 本心だった。

 雪那は基本的に無表情だ。無愛想で感情の起伏がないように見える。

 でも、私は知っている。

 雪那は心の内側では、誰よりも感性が豊かで唯一無二で。本当に笑うときは誰よりも可笑しそうに笑うのだ。

 私は雪那の笑い声が大好きだった。

 あの手この手を使って、雪那のとびきりの笑顔を引き出そうとしたこともある。

 でも今、雪那は終始笑っている。

 恋する男子のことを想う雪那は、こうもあっさりと笑うのか?

 10年以来な付き合いの私が、初めて見つけた雪那の表情だった。

 でも、その感情の対象は、私ではなくて。


「あ、いけない。集合時間ギリギリだ」


 私は校門をくぐって、時計の針を眺めて驚いた。


「あ、ごめん渚ちゃん。私と話が弾んじゃったせいで」


 雪那が申し訳なさそうに声を上げた。


「へーきへーき、まだギリ間に合うから、行ってくるね」


「う、うん。朝練頑張れー」


 親友の激励を背中で受け取りながら、私は体育館へ向かって全力で駆けた。


 その日のバレー部の朝練は、上の空だった。


 朝練の片付けが終わって、チームメイト達がテキパキと各々の教室へと向かっていく。

 私は体育館横の水道にて、ぱちゃぱちゃと顔を洗っていた。

 いいかげん、目を覚まさなくちゃいけないのに。

 こんな感情について、相談できる相手なんか、私にはいなかった。

 

 私は、雪那のことが、恋愛的な意味として好きなのかもしれない。


 雪那とは親友のはずだった。

 親友だと、自分に言い聞かせていた。

 本当は、"親友"では収まりきらないくらい、雪那のことを愛していたというのに。

 ずっと恋愛感情をおしとどめて、見て見ぬふりをして、誤魔化してきた。


 雪那に好きな男の子ができて、初めて私は

、自分の本心から逃げられなくなった。


 私は、雪那が好きだ。


 雪那とキスしたいとはじめて思ったのは、いつだったか?

 雪那の裸を眺めて、心臓がドキドキするようになったのは、いつからだっただろう?


 私は、唇を血が出るほど噛みしめた。

 水飲み場の荒削りなコンクリートを、ぎゅっと掴んで握りしめて、何度も何度も顔を洗った。


 この感情は、心の奥に、ぐっとしまっておくしかないのだ。

 私の親友には、好きな男の子がいる。

 だったら私は親友として、応援してあげなくちゃいけないよね。


 涙がとめどなく溢れていた。

 泣けるなら、とことん泣いてしまいたい。

 今ここで、私の身体に溜まった、ありとあらゆる涙を吐き出したかった。

 諦められるものなら、とことん傷ついて、早く諦めてしまいたかった。


 これから彼女と顔を合わせるとき、私の大好きな親友の初恋を、笑って笑顔で応援できるように。


「……うぅ、ううっ……あぁっ!」


 全開に捻った蛇口ハンドル、強く噴き出す水の勢いにむせ返りながら、私は声を殺して泣いた。


 学校のチャイムの鐘と同時に、

 ざわざわと、廊下を歩く生徒の集団の声が聞こえてきた。

 いつの間にか、朝のホームルームは終わってしまい、1時間目の教室移動が始まったようだった。


 とてもじゃないけど、授業を受ける気なんて起きなくて、

 私は保健室に行って、仮病を使ってベットで眠った。


 ……私の初恋は、気づいた時には、すでに終わった後だったのだ。

 

 二週間後、雪那はクラスの男子と付き合った。

 雪那の彼氏は、活動緩めのバンド部員らしく、朝練はないので、

 最近は二人で手を繋いで、仲睦まじく通学しているそうだ。


 雪那の彼氏は、雪那に似ておとなしめで優しい男子だった。

 憎らしいほどいい男だ。雪那と相性抜群なのは、誰が見たって明らかだろう。


 私と雪那は、形だけは変わらず親友のままだった。

 でも、私と雪那の二人きりの聖域は、消滅してしまった。


 雪那は親友である私に、なんでもかんでも話してくれた。

 映画デートしたとか、お弁当を作ってあけたとか、膝枕したとか、誕生日を祝ったり、

 お家にお邪魔したとか、キスしたとか、一緒に寝たとか、

 色白の肌を耳まで真っ赤にしちゃって、心底嬉しそうな顔で。


 私の気もしらないでさ。


 でも、雪那の幸せそうな笑顔は、変わらず私を笑顔にしてくれた。

 とっても楽しいのに、どこか心が痛い。

 複雑な心境だった。


 彼氏が出来てから、雪那の笑顔はより一層眩しくなった気がした。

 今までは野花に咲く向日葵のような、触れて愛でられる明るさだったのに、今ではまるで太陽みたく輝いて、両手をめいっぱい伸ばしても届かない。


 私だけの雪那は、この世から居なくなってしまった。

 いや、そんなものは、最初からなかった。


 その日。

 校舎を出ると、雪が降って積もっていた。

 雪を見ると、私はいつも、雪那と仲良くなったキッカケの日を思い出す。

 懐かしいなぁ。

 幼稚園の年少の頃の雪合戦。

 肌白の雪那ちゃんは、真っ白な雪の園庭で、まるで雪の妖精さんみたいに綺麗にみえた。

 私と雪那が、友達から親友に変わった雪の日。


 もうすぐ私たちは高校を卒業する。

 私たちは別の大学に行く。きっと、連絡を取ることも次に一回とか年に一回とか、少なくなっていく事だろう。

 白い息をはぁっと吐くと、白い煙となって、灰色の空に溶けて消えていった。


 私はまた、寂しさのあまり静かに泣いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

渚に雪はもう降らない スイーツ阿修羅 @sweets_asura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ