六月四日 孝雄、外国人と取引する
不快、としか表現のしようがない気分だった。
塚本孝雄は今、ひとりで虚ろな目をしてテレビの画面を見つめている。もっとも、何が放送されているのか理解すら出来ていない状態だ。にもかかわらず、じっとテレビ画面を凝視している。彼には、することがそれくらいしか無いのだ。
今の孝雄は、覚醒剤の効き目が無くなった後の肉体そして精神の虚脱感に襲われていた。ひたすらに体が重く、気分も悪い。起床してからは、ろくに食事も取らず座り込んでいた。
とにかく暇だった。テレビを観てもスマホを見ても、気が散って画面に集中することが出来ない。すぐに、別な物へと意識が移る。体に蠢いている覚醒剤への渇望……その欲求が、孝雄の頭と体を支配していたのだ。
同時に、彼は迷ってもいた。漠然とした不安を感じている。このままでいいのだろうか、という気持ちもあった。
しばらく迷っていたが、孝雄は心を決める。まだ、金は残っているのだ。それならば、さっさと覚醒剤を買ってしまおう。ぐだぐだ迷っていても仕方ない。こんな風に迷っていること自体、時間の無駄だ。それに、今の状態では建設的なことは何も出来ない……そう考え、自分の気持ちを無理やり納得させた。
ポン中と呼ばれる人種のほとんどが、覚醒剤を買う前には、このままでいいのだろうかと迷う。
映画やドラマ、あるいは小説などで描かれているように、「ヤクくれ! ヤク!」などと叫びながら、目を血走らせヨダレを垂らし半狂乱になって覚醒剤を求めるような者はまずいない。むしろ、その域まで行くと……病院に強制入院させられるケースがほとんどだ。
大半のポン中には、覚醒剤を買う時に迷う瞬間がある。俺は、こんなことをしていていいのだろうか? などという考えが頭を掠めるのだ。
しかし、それはあくまでも掠めるだけである。そこで理性の声に耳を傾け、改心し思いとどまるというケースは、まず有り得ない。ポン中の内面で起こる天使と悪魔の戦いは、九割九分九厘、注射器を抱えた悪魔が勝つのだ。
孝雄の場合も、その点は全く同じであった。結局、売人である小津に電話をかけたのだ。理由はといえば、覚醒剤を買うためである。もう一度、あの爛れた快楽を味わうために。
しかし、小津は電話に出なかった。
基本的に、売人は証拠が残るのを嫌う。LINEやメールでのやり取りなど、もっての他だ。そのため、小津との覚醒剤に関するやり取りは、電話がほとんどである。
ところが何度電話をかけても、一向に出る気配がない。たまりかねた孝雄は、共通の知り合いに電話をかけてみた。小津さん、電話に出ないんですよ。どうしたんすかねえ……といった調子で、さりげなく様子を聞いてみる。
すると、とんでもない話を聞かされた。二日か三日ほど前、小津は何者かに襲われ、手ひどく痛めつけられた挙げ句に病院送りにされてしまったというのだ。全身に打撲痕、複数箇所の骨折、さらに頭を強く打ち昏睡状態……未だに意識は戻っていないのだという。このまま死んでしまう可能性もあるらしい。
「あの野郎、ふざけるなよ。こんな時に……」
思わず毒づく。
正直、小津がどうなろうが知ったことではない。ぼったくりのような値段で自分らに覚醒剤を売っていた罰が当たったのだ。あんな奴は、仮に死んだとしても一向に構わない。
しかし、その場合はひとつの問題が発生する。小津が死んでしまえば、孝雄は覚醒剤を手に入れるルートが無くなるのだ。そう、孝雄にとって小津はあくまでも覚醒剤を買うための道具に過ぎない。だが同時に、孝雄にとって必要不可欠な道具でもあった。
そして今、その道具は使い物にならない。
途方に暮れていた時、以前にある知り合いから聞いた情報を思い出した。
(噂で聞いたんだけどさ、
谷渋のセンター街。十代の頃は、用も無いのに足を運んでいた場所である、ここ最近は行っていなかったが、他の知り合いからも似た噂は聞いたことがある。谷渋のセンター街や宿新の矢吹町、あるいは小久保通りに立っている外国人が覚醒剤を売ってくれると……。
ならば、行ってみるとするか。
孝雄は谷渋のセンター街に立ち、辺りを見回す。昼間だというのに、大勢の人が歩いていた。十代から二十代の若者たちばかりだ。真幌市とは、根本的に違う雰囲気である。
しかし、孝雄はそんなものには目もくれず歩いていく。彼の目的は他でもない、覚醒剤を買うことなのだ。
やがて、目当ての人物を見つけた。センター街の横道に立っている外国人だ。まだ若く、自分と同年代であろう。中肉中背で、黒いTシャツを着ていた。携帯電話をいじくりながら、さりげなく辺りに目を配っている。一見すると、どこにでもいそうな若者だ。特に危険な雰囲気は感じられない。
しかし、孝雄と目が合うと、何やら意味ありげな視線を送ってきた。こちらをじっと見つめている。言うまでもなく、孝雄にこんな知り合いはいない。
間違いない。こいつが売人だ。
孝雄ははやる気持ちを押さえ、ゆっくりと近づいていく。すると、外国人の方からも近づいて来た。
「アナタ、ナニホシイ?」
片言の日本語で聞いてくる。
「スピードある?」
逆に聞き返した。スピードとは、覚醒剤の別の呼び方である。外国人に対し「覚醒剤」や「シャブ」などと言っても通じないケースがあるのだ。
外国人は頷き、さらに聞いてきた。
「一万五千円ト、二万円……ドッチホシイ?」
この言葉は、「今、一万五千円分のパケと二万円分のパケの二種類がある。どちらを買うのだ」という意味である。
だが、迷うまでもない話だ。
「一万五千円の方」
即答した。そもそも、この外国人が本物を売ってくれる保証はない。覚醒剤と言いつつ、防虫剤やハッカ飴など──砕いて粉末にすると、見た目は覚醒剤に似ている──を売り付ける者もいる。
まずは、安い量を買って様子を見る。それがセオリーだ。
「ワカッタ。ツイテキテ」
そう言うと、男は歩き出す。孝雄はさりげなく、少し離れて付いて行った。
やがて、ひとけの無い場所で男は立ち止まる。孝雄に近づき囁いた。
「ココデ、チョットマッテテ」
どれくらい待っただろうか。
しばらくして、別の外国人が姿を現した。こちらは、先ほどの男より年が上だ。三十代から四十代だろう。こちらも、特に危険な雰囲気はない。おもむろに孝雄に近づき、パケを手渡してきた。
孝雄は頷き、手の中でまとめた一万五千円分の紙幣を渡す。外国人はさりげなく額を確かめると、ニヤリと笑って見せた。
「キヲツケテネ」
そう言い残し、去って行く外国人。一方、孝雄もパケをポケットに入れると同時に、その場をすぐに離れる。
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