愛憎む/宇治元八恵とすねこすり
苦手な男とのイマイチ気の乗らない会話を終え、その翌日。
俺は八恵に話をするべく、彼女の家へと向かった。
名家とはいっても、奉常のような陰陽師の血統とはその分類が違う。どちらも平民から羨望の眼差しを向けられているのは同じだろうが、向けられている感情の種類が異なるのだ。
安倍家の場合は、憧憬と信頼感。
宇治元家の場合は、愛情と親近感。
近所に住む金持ちに対して愛情を向ける平民、という構図は物珍しいように感じるかもしれないが、そうとしか言い表せない明確な理由がある。
それこそが、俺がこれから会いに行く八恵の存在だ。
彼女の相貌はまさしく、大陸から伝わった御伽噺に出て来る傾国の美女といったものであり、丁寧かつ気品に満ちた所作や言葉遣いと掛け合わさる事で人間離れした高貴さを生み出している。
彼女は幼少期から周囲の人間たちに可愛がられ、親の丁寧な教育も相まってか立派な姫君として育ち、それがまた民衆から高評価を受けているという次第である。
そんな女性と俺がどうして恋仲になったのかと言えば……それは一重に、幼少期からの知り合いだからだ。運命的な出会いの一幕とかがあったわけではない。
俺の生まれた家はたまたま宇治元家の近隣にあり、両親同士の仲も良く、物心が付く前から一緒に遊ぶことが多かった。
他の友人たちと違って未だに交流があるのは、一重に彼女の方から連絡を寄越してくれるからだ。
とある一件を皮切りに俺のことを気に入ってくれた彼女は、その大きく重たい執着心を隠すことなく見せてくれるようになった。
昔から縁もあった間柄ということもあり、双方の両親からは既に許嫁も同然の扱い。
今では毎週のように会って世間話をしているし、彼女がわざわざ俺の宿舎まで顔を出してくれることもある。
そんな彼女の熱烈な好意に当てられて、俺まで想うようになってしまったという流れだ。
我ながら軽薄な精神をしている。まぁ、相手がアイツであれば悪い気がしないが。
ちなみにだが、まだ婚姻してはいない。
宇治元家の決まり事として、婚姻は当主の交代に際してのみ行うものとされているのだ。
つまり、彼女の父親が退くまではお預け、という話である。
俺からすれば是が非でも契りを結びたいとは思ってはいないのだが……昔から世話になった宇治元の家に恩を返すためにも、八恵の好意に応えてやるためにも、その時が来たら大人しく身を固めるつもりだ。
……そのつもり、だったんだけどな。
「––––––え?」
初めて見る顔だった。
子供のころから色んな顔を見て来たし、お互いの弱みを見せて来た間柄ではあったけれど、こんなに辛そうな表情と出くわした覚えは久しい。
俺が人造怪異の実験体として選ばれた……という話はしていない。
彼女との仲が深まった一件というは怪異絡みだし、平民生まれの俺が陰陽師を志したのも彼女の為だ。だから、八恵は怪異の存在も危険性も知っているし、俺の職業が何なのかも知っている。
むしろ、彼女の両親が俺を許嫁と認めてくれているのは、俺が官職である陰陽師であることを知っているからだ。
しかし、昔から連れ添った想い人がバケモノになる、だなんて伝えられる訳がないだろう。
俺は怪異を嫌ってはいないし、その考え方の根底にあるのは八恵との思い出だ。
彼女がそういった存在を頭ごなしに否定したりしないのも知っているし、そんな心優しい部分だって愛おしく思っている。
だが、知り合いが怪異に改造される事に関しては別だ。
たとえ怪異に良い印象を抱いている人間だとしても、家族や友人、もしくは恋人が人間ではなくなるのを手放しで喜んでくれる人間など居ない。
居たとしても、それは狂人の域に達しているとしか思えない。
だが、他にどうすることも出来ないのだから仕方ない。
俺は「仕事の依頼で大陸に渡り、もう二度と大和には戻れないかもしれない」と、嘘と真実が混ざったような言い訳を伝えた。
実際は人間として死んだも等しい状態になりに行くわけだが、そこまで正直に言ってしまうのも酷な話だろう。
「で、では……瓢染さんとの婚約は……?」
「……すまない。他に良さそうな男を見繕って––––––」
「––––––そんなの居る訳ないじゃないですか!!」
思えば、ここまで感情を剥き出しにする八恵も久しぶりに見た。
おそらく俺の前でそんな様子を見せるのは、これが二度目だろう。
一度目は、幼少期の出来事のこと。
前述の通り家が近かった俺たちは頻繁に遊んでおり、二人だけで山の麓まで赴いたことも一回や二回ではなかった。
そんな二人が、人里を離れてまで、遊びに出たところから話は始まる。
ある夏の、日差しがやけに強かった日。
はしゃぎ過ぎた俺は立ち眩みをおこして倒れ、八恵は誰の助けを得られないまま泣きじゃくるしかなくなってしまったことがあった。
お天道様はどんどん高さを増していき、雲一つ無い夏の青空は、子供二人の水分を徐々に奪っていく。
朦朧としたまま動かなくなった俺を見て、汗と涙をダラダラと流すしかない八恵。
近くにあった林の中へ運んで日陰で休ませれば済んだ話だっただろう。けれど、とっくに不安で心を折られた箱入り娘が同年代の男児を運ぶのは簡単な事ではない。
このまま二人して熱にやられて死ぬ。そう確信してしまった。
俺たちが初めて怪異を知覚したのは、その時だった。
茂みの奥からガサガサと葉を揺らす音が聞こえ、そこから茶虎猫のような動物が出て来たのだ。
ような、と表現したのは、明らかに猫とは外見が異なっていたから。
赤っぽい茶色の毛に包まれており、白い腹、背には黒の斑点模様が数個ほど。
脚は四本あるが尻尾は無く、耳が真上を向いていない。というか耳すら見当たらない。
琥珀のような瞳は俺と八恵を交互に見つめ、唐突に俺の服の裾へ噛み付いたかと思えば、林の方向へと引きずり始めたのだ。
意識がハッキリとした頃には、木の葉による涼しい日陰の下に寝転がっていた。
隣には、目を腫らして寝息を立てている八恵。
そして俺の脚には、先ほどの猫のような動物がもぞもぞと動いている。
俺の脛に身体を擦り付けているのに気付き、祖父母から聞いた噂話を思い出した。
“すねこすり”。
動物とは違う、めったにお目にはかかれない、妖怪と呼ばれる存在の一つ。
怪談話に出て来るような人を喰う凶悪なものではなく、子供に癒しを与えてくれるという言い伝えがあるのが、この“すねこすり”らしい。
確かに、眼球が三つあるとか、足が一本しか無いとか、鋭い牙が生えているわけでもない。
むしろ丸まった姿は可愛らしく、脛の上でもぞもぞと動かれているだけで何故だか心が穏やかになる。
どうやら俺たちは、妖怪に命を救われたらしい。
この思い出は、後々の人格形成において大きな役割を果たしてくれたと、今の俺は考えている。
初めて出会った妖怪は、無力な子供を助けてくれた、心優しい存在だった。
その鮮明かつ鮮烈な思い出は、「怪異は異質なもの」であっても「怪異は邪悪なもの」ではないことを何より先に教えてくれた。
俺も、八恵も、怪異だって犬や猫となんらか変わらない、生き物であることを学んだ。
だが、この思い出は決して、心温まるものではない。
あの炎天下の朧げな体験だけでは、俺は陰陽師になりたいだなんて考えもしなかっただろう。
資格を取ろうと本気で思い立ったのは、その日の夜の出来事が原因だ。
“すねこすり”と別れ、家へと戻った俺たちは、その数時間後に陰陽師による訪問を受けた。
なんでも、八恵が昼間の出来事を家族に話してしまったらしい。
妖怪のことを聞いた彼女の両親は、その情報をそのまま陰陽師に報告。
詳細を聴くために俺たちの元へと直接やって来たというのだ。
名前は確か……
あのいけ好かない男の父親だろう。官職の資格を経て御上に挨拶へと向かう際にすれ違い、あの男の息子であることを勘付かずにはいられなかったほどだ。
……あとの流れはお察し。
あんな子供を産んだ親だ、ろくな人間なはずがない。
それでも、当時の陰陽師にとってはなんら自然な事だったのかもしれないが。
その晩、俺たちが昼間に訪れた山へ、火矢が放たれた。
休むのに心地よい木陰を火の手が襲い、あの丸くて可愛らしい体躯が飛び出した茂みが燃えて灰に帰す。
天から降り注いだ日の光。それよりも遥かに熱いであろう紅蓮の波が、温かな思い出を無慈悲に焼き払っていった。
眠っていたはずの鳥たちは四方八方へと飛び立ち、鹿や虫たちは人の目すら気にせず逃げ惑う。
パチパチ、ボウボウと、木が炎に飲み込まれる音ばかりが響いていた。
泣き叫びながら抗議しても、所詮は子供の妄言。
握り拳を振り回して怒りを示しても、両親に抑え込まれる始末。
蛇蔵は眉一つ動かすこともなく、「怪異は存在するだけで害悪なのだ」と冷徹に言い放つのみ。
結局“すねこすり”がどうなったかもわからないまま、朝日が昇る前に山一帯は灰まみれになってしまった。
俺が痛感したのは、力を持った愚者がのさばる社会の危うさ。
八恵が知ったのは、思慮の浅い言葉を使うことの恐ろしさ。
俺は何も出来なかった無力感を憶え、八恵は無邪気ゆえに大きすぎる罪悪感を抱えた。
彼女が品行方正な令嬢になったのは、凶器になり兼ねない言葉の重みを恐れた結果。
俺が陰陽師を目指したのは、弱い自分から脱却し、罪の無い怪異を理由のない暴力から救うため。
幼少期に招いてしまった絶望を乗り越えるために、死に物狂いであがき続けた結果が、俺たち二人の今なのだ。
「––––––貴方以外に誰が居るんですか……? 私の孤独を理解してくれるのは、瓢染さんしか居ないのに……」
八恵が俺に向けている感情の奥底には、同じ傷を抱いたからこその仲間意識がある。
同じ罪を抱え、同じ思い出に苦しみ、同じ時間を過ごしてきた理解者だから、唯一自分の本当の顔を曝け出せる相手だと認めてくれているのだ。
逆を言えば、それだけとも言える。
この子は自分で思う以上に、もう弱くない。十分に強くなった。
それに気付いていないだけだ。
奉常と同じで、自分の評価で自分を縛り付けてしまっている。
「……大丈夫だよ。八恵は八恵だ。もう強いし、一人じゃない。俺には勿体ないよ」
俺の本音だ。飲み込んではくれないかもしれないけれど。
だって、そうでも思わないと、覚悟を決めて明日を迎えられない。
自分にそうやって言い訳をしないと、彼女の元を離れられない。
同じ傷を舐め合う相手を欲しているのは、俺も同じだから。
そんな相手に依存してしまっているのは、俺も同じだから。
「……なら、連れて行って下さい。私も瓢染さんと共に大陸へ行きます」
「駄目だよ。それに宇治元の家はどうなる? お前は一人娘だろ?」
名家であるがゆえに、どうしても後継ぎが必要だ。
そして、家を支える大黒柱は男でなくてはならない。
彼女の両親が息子を求めなかったのは、俺の存在があったからではあるけれど。
「…………それじゃあ、達者でな」
自分の立場を思い出し、反論の材料を失ってしまった八恵。
彼女の唇が閉じられている間に、この場から離れるしかないだろう。
俺としても、これ以上は一緒に居られない。彼女の苦しむ顔を見ていられない。
罪悪感で心が張り裂けて、せっかく固めた決意にヒビが入ってしまいそうになる。
「…………どうして、どうして私を一人にするのですか!?」
後方から、八恵の嗚咽と苦悶が聞こえてくる。
俺は努めて、その言葉を無視して歩いた。
周囲の人々が心配そうな目線を向けて来るが、それすら気に留めず、一度も振り返ることなく彼女の下から去った。
胸の内が、あの日の炎が湧いたかのようにジリジリと痛んだが、それすら見ないフリをして歩みを進めた。
「私には……貴方しか居ないのに…………」
微かに聞こえた別れの言葉には、冷たく悍ましい呪詛めいたものを感じた。
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