第16話 空
遺構を出、再びグログウジュのいた辺りに戻ると、日は既に遠く落ちかけ、赤い葡萄酒のような光が空に満ちていた。岩陰で野宿をする羽目になるかと荷物を下ろそうとした時だ。
頭上に、影が落ちた。
空の紅に負けぬ鱗の色、赤竜が大きく翼を広げ、飛んでいたのだ。
『戻ってきおったか、小さき者ども』
声の届く高さから、羽ばたきの風がおれらに吹き付ける。やがて竜は目の前に舞い降りた。最初はなんだか拍子抜けに見えた大きさが、確かな歴史と実感を持った質量に感じられる。竜は巨大で、力強かった。
『シャルロッテの縁の者であれば、致し方ない。我が背を任そうぞ。乗っていくが良い』
「赤竜の背中に!?」
レナルドは先ほどからずっと、伝説に殴られ通しだった。光栄です、とどもりながらごつごつとした背中に手がかりを探す。
『そこは腕の付け根であるから、あまり触れるとこそばゆい』
「す、すみません。この瘤みたいなのは……?」
『それは逆鱗である故、つつくと怒り狂うぞ』
「ひえ」
嘘よ、と竜はからから笑う。竜も笑うことがあるのだな、と思った。人と友人になれるくらいだから、気持ちの造りはそう変わっていないのだろう。
どのくらいの時間が必要だったのだろうか。親であり主を失って、その仇の流れを汲む者とこうして笑って過ごせるようになるのには。
おれは、まだ無理だな、と思った。
■ ■ ■ ■
風は、あまりに速いと寒いとか強いとかではなく、痛いのだと学んだ。耳元で酷い音がごうごうと鳴っている。
『本来であれば、シャルロッテにも挨拶をしていきたいところだが』
グログウジュの声だけが、半ば身体の振動を通して言葉として聞こえてくる。おれとレナルドはだんまりだ。舌を噛みそうで仕方がなかったせいで。
『また騒ぎになってはいかぬな。目立たぬ夜のうちに街の近くで下ろそう』
それはそうなるだろうな、と思った。赤竜が街の方までやって来たという話はそう聞いたことがない。二人は友人とはいえ、ずっと手紙や伝言のやり取り程度しかしていなかったはずだ。
姫は、竜の背に乗って飛びたかったろうか。外に出られず、外に憧れる娘に、この夕焼けに包まれた下界の景色は想像もつかないかもしれない。おれにだってつかなかった。だが、おれにはすぐに暗くなり消えてしまう風景を写し取る筆もなく、レナルドのような舌もリュートを鳴らす腕もない。
野苺の色。まだ若いやつを潰したばかりの色だ。ほんの少し黒スグリを混ぜてやる。その味から酸っぱさを除いて、まろやかにして、はらはらと上から粉砂糖を振りかけよう。きっとおれには甘すぎる。でも、シャルロッテ姫は喜んで飲むだろう。
そんな空が少しずつ少しずつ、夜に押しやられていく。その景色を眼下に、竜の背の瘤やら鱗の塊やらを必死に掴みながら、様にならない
やがて、転がり落ちるように暗い地面に戻る。ものすごい目まいと平衡感覚を失ったふらつきとに襲われた。レナルドは両手を地面に突き、肩で息をしていたようだし、おれはちょうどいいところにあった樫の木に寄り掛かり、なんでもない風を装いながら動かない景色に酔いそうになっていた。
『この辺りならば良かろう。貴様らの道はすぐ西よ』
「あ、ありがとうございます。かつてない体験でした……」
レナルドはそれでも丁寧に礼を言っていたのでなかなかだな、と思った。おれは……動けそうにない。かすかに月明かりを反射する鱗の光と、大きな瞳だけがよく見えた。
『今の勇者と語り部よ。こちらも礼を言おう。久しく遠出をしておらぬが故、錆びつきかけていた羽がよう動いたわ』
おれは、それまで姫のことを考え、レナルドのことを考え、何より自分の身の安全を考えてずっと口にしていなかった言葉をふと出してみた。
「……お前は、赤竜。もう人を襲ったり、魔王みたいな奴の下で戦ったり、そういうのをするつもりはないのか?」
ないのだろうな、と思う。竜は気まぐれで、おれたちを運んだのも単に親切というよりは思い付きだろう。だが、それでも最低限の思いやりのようなものは感じた。例えば、本当の強風や雨の中を避けたりだとか、雲の中に入りそうになればすぐに降下したりだとか、そういう動きだ。おれは、雲に形も重さもないことを初めて知った。
『元より我は面倒事が嫌いでの。生まれたての頃ならともかく、今好きに寝て好きに起きられる、その身分を手に入れたからには、そちらからちょっかいを出されぬ限りは何もする気はない』
「そうか。なら、おれもこちらから何か仕掛けるつもりは毛頭ない。妙なことを聞いたな」
おれは……安堵していた。瘴気から生まれた魔物と口を聞き、戦うことを選ばずに済むと知って安堵していたのだ。口に含んだ野苺の汁には、何ともいえない苦い後味が含まれていた気もするし、口の中が洗われて、静かな気持ちになっていくような気もしていた。
『それでは、騒がしくなる前に消えるとしようか。シャルロッテにはこれを』
グログウジュは、前足の爪で胴を引っ掻き、薄い鱗を一枚剥がした。それはおれの手の中にはらりと落ちかかる。
『渡しておけば、こちらの貸しよ。またすぐにあの子は何か返そうと誰かを差し向けるであろうよ』
愉快そうに笑うが、この場合差し向けられる者の都合は考えられていない。はた迷惑な友情だと思った。だが、竜鱗は煎じれば強壮の薬になるとも言う。友人の身体を慮っていることも確かなのだ。他人に剥がれるのはあれだけ嫌がっていたのに、だ。そして、姫が多少なりとも力をつけるのなら、おれだって別に、嬉しくないことはない。
「届けよう」
つるりとした手触りを指先で辿りながら、そう答えた。
星月夜の中、遠ざかる影を見上げながら、思う。おれと竜とは友人になれたかというと、別にそんなことはなかろう。おれは魔物には少々思うところがあるし、グログウジュの方はおれなど、たまたま勇者を名乗っている小さな獣としか思っていまい。姫が偉大なる例外なのだ。
だが、それでも。月明かりに鱗を透かす。微かに擦れた透明の向こうに、星空を遮る大きな姿が、少しずつ小さくなっていく。
認めよう、という気持ちにはなった。この世の中のいくらかの場をあの竜が占めているということ。かつての思い出を抱え、静かに暮らしていること。ただ人を襲うばかりの魔物とは、どこか一線を画しているということ。
おれは、あいつをそう嫌いではないということを。
ああ、とレナルドが息を吐いた。おそらく、感嘆をしたのだろう。奴はずっとあの竜に釘付けだったから。
「ルーさん、僕は」
影はすでに夜に紛れ、どこかへ消えてしまった。もう声もとっくに届いていないだろう。星は、雲よりはよほど高くにあって輝いている。
「いつかあの竜の歌を歌えるような、そんな語り部になれるでしょうか?」
表情はよくわからない。月の光も、人の心の微細な陰影までは映し出してくれなかった。
「今じゃいけないのか?」
「わからないです。できればいいと思う。でも、あんなもの詠めますか? 山の上を、空の上を飛んで、もう少し行ったら海だって見えたかもしれない。僕が味わった気持ちを、皆にわかるように伝えることなんてできると思いますか?」
おれが、誰かを楽しませるために勇者をやっているわけではないと言った時、こいつは、そのままでいてくれとそんな話をしていた。きっと、昔のあまりたちの良くない仲間を思い出していたのだろう。
おれは反対に思う。魔物と触れ合い、その後こうも無邪気にただ己の本分のことばかりを考え、誰かに伝えることを考え、ただ真摯に語り部たろうとしていられるのであれば。
「お前はそのままでいろよ」
風が吹く。竜の翼によるものではない、夜の涼しい風が、街の方角から吹いてくる。
レナルドは何か言いたげにおれを見ていたようだったが、詳しくはよくわからなかった。
月の光はか細く静かすぎて、まだ腹を割って本当の話をするのには、足りないと思った。
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