第5話 現れたる者

 肩で息をしながら、頭を失いどうと倒れる九頭蛇ヒュドラーの胴体に最後の止めを刺した。レナルドが駆け寄ってくる。リュートの音はまだ止まらないが、ふとハープの音がぴんと残響を残して消えた。蛇の胴体や切り飛ばした頭も、一緒に黒い霧のようになって溶けていく。


 ぐらりと身体が傾ぐ。急に力が湧いてきて、反対に剣が軽くなって平衡が崩れたのだ。


「おい、語り部! これはこれで何かまずい!」


 レナルドの方もどこか妙だと感じたのだろう。ふつと楽器の音は消えた。宙に余韻だけが染み渡り、鳴り響いていた音楽はやがて最初の何か足りないただの和音へと戻っていった。剣にまとわりついていた炎も、燻る匂いも残さず消えた。


 疲労がいつも以上に腕に足にのしかかるが、まだ終わってはいない。あの謎のハープの人影がいる。


「……お前は何だ」


 影は、ようやくこちらを向いた。立ち上がると目深に頭巾を被った、小柄な姿だった。レナルドよりもさらに若そうな、まだ背も伸び切っていない少年……あるいは。


「……お疲れ様。勇者さん」


 頭巾の陰から、長い銀色の髪と紅い目が覗いた。


「女の子?」


 レナルドが意外そうに呟く。珍しい風体だが、人間の形ではあるようだった。


九頭蛇ヒュドラーを片付けてくれて、どうもありがとう」

「はあ!?」


 おれは思わず声を上げて前に歩を進めていた。


「お前がけしかけてきたんじゃないのかよ」

「お礼を言われるには、ずいぶん荒っぽい真似をされたよねえ」


 おれたちが口々に不服を表明すると、少女は何か考え深げに口をつぐみ、また開いた。


「遺構、このままにしてはおけなかった。だから、瘴気を一度に形にして放出しなければ」

「……何?」

「ははあ」


 レナルドは、おれより多少理解が早かった。音を通して、何か感じるところがあったのだろうか。


「あの蛇くんを出すことで、なんだか遺構の力に影響を与えることができたんだ。鎮める、みたいな」

「そう。このままでは外に無数の魔物が限りなく出ていくところだった」


 見た目のわりに落ち着いた声音は、先ほどまでの不気味な様子からは遠い。だからといって、何もかも信じてやる義理はない。


「お前のやり口が、遺構を落ち着かせるためだったというのはいいとしよう。だがな、おれたちが来なかったらどうしたんだ?」


 九頭蛇ヒュドラーは実に厄介な敵だった。おまけに、あいつが蛇を煽っていたのも忘れていない。あのままでは蛇は遺構を出、森で人を襲いかねなかったろう。実は大人しい気質だった、などということもなさそうだ。おれは毒牙で噛まれかけた。


「……外へ出ていた」

「だめじゃないですか!」

「大きな魔物が一体だけ出ていくのは、小さな魔物が無数に解放されるのよりはいくらかましだもの。被害に遭う人間の数もたかが知れているし、今回のように集中して倒してしまえばいい」


 じっと相手の姿を目に入れた。色素の薄い、暗く痩せた、それでも見目は整った少女だった。シャルロッテ姫が窓辺で囀る金糸雀カナリヤだとしたら、この娘は月の晩を飛ぶ小夜啼鳥ナイチンゲールだ。


 だがどんなに見栄えが良かろうと、おれはこの娘の言葉に消えない怖気を覚えた。


「遺構には毒抜きが必要。私はそれを担っている」

「たかが知れてるってことは、傷つく人が出るってこと、でしょう?」


 おれがざわざわと震えている間に、レナルドが代わりに言葉を継いでくれた。


「苦しむ相手がいるってこと……」

「だから勇者がいる。こうして倒してもらえればいい。語り部も話の種は尽きないはず」

「それは、領主どもに話を通したのか?」


 奴らから頼まれているのなら、そういうものだ。勇者としてのおれは機構に巻き込まれるしかない。つまり、魔物が出たら倒すのだ。おれは冷静に判断しようとした。だが。


「彼らを頼もうとは思わない。魔王遺構はそもそもが、表の人間の手に負えるものではなく」


 少女は床に置かれた小型のハープを抱え直した。


「私たち魔の者に委ねられるべき」


 弦が鳴ると、遺構の音が再び応えた。少女の姿が、ざらついた炭で塗り潰したように消えていく。おれは走って彼女に手を伸ばした。まだ聞きたいこと言いたいことは山ほどある。


「お前、肉の串を食ったことはあるか」

「何?」


 呆れたような声音が返ってきた。あるのかないのかは知らない。それは良い。


「おれが勇者だからってまけてくれた店主がいる。そいつがむざむざ蛇に襲われるのは、おれは嫌だな」

「……よほど運が悪くなければ、そんなことにはならない」

「おれはおれの知った顔を運に任せたくはない」


 だからあなたみたいな勇者が倒せば……そう言いかけた。おれはさっきからずっと腹が立って仕方がなかった。どうしてこいつは後始末が全部人任せなんだ?


「宮廷へ来い、ドラシアン卿にその話をしてやれ。それで上があんたを必要とするなら、それでいいよ。蛇でも竜でもぶった斬ってやる」

「嫌」


 消えかけの少女は身じろぎをする。


「私は私で動く。宮廷の弱虫兎どもに使われるなんてごめん」


 触れる。輪郭を消したその姿には、手応えが何もなかった。


「さよなら」


 扉が軋むような音を立て、少女は遺構から姿を消した。


 おれはしばしその空間を眺め、それから近寄ってきたレナルドの顔を見た。少し青くなってはいるが、おおよそ無事でいるようだ。


「今の奴のことはよくわからんし、おれは報告は苦手だ」


 お前やれ、と押し付けたその時だった。


「良かったですね、今のは!」


 場違いに明るい声が返ってきた。おれはたじろぐ。


「何がだよ?」

「串屋のおばちゃんですよ。あなたの中で守るべき相手は、顔があって、形があって、地に足がついた誰かなんだ! ぼんやりした正義ではなく」


 おれはとっさに口から出た言葉を思い返す。別にあれは鍛冶屋でも宮廷でこっそり礼儀作法を正してくれた小姓でも、遺構の位置を教えてくれた村人でも何でも良かったのだが。


「そういうのが良いなと思いました。どう形にすればいいかは一向にわかりませんが……」


 あれはおれの心の奥から出てきた言葉なのだ、と言う。そうか?という気持ちも大きかったが、まあ、勇者としてそれなりに得点を貰えたということだろう。


「何にせよ、今の話は上に伝えないとですねえ」

「何なんだ? 魔の者ってのは。魔王一派の生き残りか?」

「それにしては、魔物が世に溢れることは嫌っていたようでしたね」

「筋自体はそんなものかとも思ったが、妙に煽り立てていたのもわからん」

「全力で戦わないと瘴気を抜き切らない、だとか……」


 あれ、と周囲を見る。あれだけ鳴り響いていた奇妙な音は、今やどこにもない。頭が少し痛んだ。どうやらこれまでずっと、凄まじい圧の中にいたらしい。それが、消えた。


「……さっきの蛇を倒したら、瘴気がまとめて消えて、遺構の力も綺麗さっぱり、かな」

「どこまで本当なんだろうな、あれ」


 さあ、とリュートを荷物にしまう。


「お前のあれも、なんだ。対抗できてたみたいだが」

「知ってる曲だったんで、合わせたんです。勇者譚の大蛇退治の一節だ。向こうが九頭蛇ヒュドラーの節を歌うので、こっちは勇者の活躍をぶつけてやればって」


 効いたから良いが、効かなかったらおれもこいつもかなり情けない死に様になったろうな、と思う。


「あっ、一応理屈はあってですね、この遺構の和音と向こうのハープの音がそもそも」

「理屈は苦手だ。そろそろ帰るぞ」


 剣は幸い不要そうだ。腰に収め、出てきた口に戻ろうとする。


「なんでもいいが、助かった」

「はいはい」


 一応の礼を軽く受け流し、レナルドは続ける。


「僕の方も、上手くやれそうですよ」

「何?」

「あなたの歌が、作れそうです」


 これまでひたすらに愚痴と言い訳を連ねていた語り部は、奇妙に肩の荷が降りたような顔でそう言った。


 そうか、それは……姫は喜ぶだろうか。痛む頭の片隅で、俺はそんなことばかりを考えていた気がする。

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