第二話 遊女たち 

 玉虫は勇次の横っ面を思いっ切り平手打ちした。


 ——なん……で……?


 馬鹿ぁっ!と胸倉を掴まれぶんぶん揺さぶられる。勇次はされるがまま、じんじん痛む頬もそのままに無言で目を閉じていた。傍で甚吾郎と熊次郎の血の気が引いていくのがよくわかる。


「なんてことしてくれたんだい! 小太郎さんが可哀想じゃないか! 悪いのは小太郎さんじゃないんだよ。悪いのは、悪いのは……」


 玉虫は片手で勇次の胸倉をつかんだまま、広小路の向こう側に立っている赤襦袢姿の女を鋭く指差した。


「あの女さ!」


 玉虫が鬼の形相で睨みつけると女も挑発に乗り、腰をくねらせこちら側に近づいてきた。どうやら小太郎の浮気相手、小見世『滝もと』の遊女らしい。


「その女が小太郎さんをたらし込んだんだ」

「ふん、人聞きの悪いこと言わないどくれ。小太郎さんのほうから言い寄ってきたのさ。邑咲むらさきの川越芋よりわっちの方が一〇〇万倍いい女だってね」

「誰が川越芋だって⁉ そっちだってへちゃむくれじゃないか!」


 逆上した玉虫は勇次から手を放し、今度は滝もとの遊女に掴みかかった。彼女も応戦し、玉虫の立兵庫を鷲掴みにする。勇次が慌てて止めに入った。


「おいおい、喧嘩すんなって。顔に傷がついたらどうすんだ。大事でぇじな商売道具なんだぞ」

「こんな川越芋なんか、傷だか痘痕あばただかわかりゃしないよ!」

「そっちこそ傷の一本や二本増えたところでシワに埋もれるだけだよ!」


 女が感情的になったらもうお手上げだ。勇次は二人に挟まれ揉みくちゃにされるばかり。女同士の小競り合いの隙に、甚吾郎と熊次郎はそーっと小太郎の縄を解きに行った。


「あっ! 小太郎さん、逃げるのかい⁉」


 気づいた玉虫が滝もとの遊女からぱっと手を放し、小太郎の元へ走り寄った。滝もとの遊女もそれを追う。やっと解放された勇次は、急いですみのところへと走った。

 あちゃーと甚吾郎は額に手を当て、熊次郎は息子の月代さかやきまげが取れるかと思うほど思い切りひっぱたいた。


「馬鹿野郎! だから遊郭で遊ぶときは気をつけろとあれほど言っておいたのに……」


 熊次郎が言い終わらないうちに玉虫が彼を押しのけ、小太郎にすがりつく。


「小太郎さん、本命はわっちだよね? この女なんかいっときの気の迷いだよね?」


 玉虫が訴えれば、負けじと滝もとの遊女も泣き落としにかかる。


「ひどい、小太郎さん。邑咲屋の女郎とは別れた、女はわっちだけだって言ったじゃないか。あれは嘘だったのかえ?」


 小太郎は二人の女に詰め寄られ、へらへらするばかりで煮え切らない。またも女同士、言い争いが始まった。

 熊次郎はおろおろし、甚吾郎はふところのままうつむいた。よくもまぁ次から次へと罵詈雑言が出てくるものだ。と感心している場合ではない。いつになったらこの修羅場は終わるのだろう。下手に口出しをすれば火に油、いや、火の粉が降りかかってくるとも限らない。それだけは嫌だ。嗚呼ああ、煙草が吸いたい。しかし、そんな呑気なことができる空気じゃないし……。

 苛々と嵐が過ぎるのを待っていると、ようやく勇次が墨汁の入った深型のすずりを抱えて戻ってきた。


「勇次、おめぇ、どこ行って……あ、墨師んとこか」


 筆結ふでゆいから筆も借りてきた、と息を切らしながら、勇次は女二人の間に割って入った。


「おめぇらな、恨む相手が間違ってるだろ。悪いのは浮気した男であって、相手の女を恨むのは筋違いってもんだ」

「何とんちんかんなこと言ってんだい、勇次さん。この女さえいなけりゃ、小太郎さんはずっとわっちだけを見てくれてたんだよ」


 玉虫の言い分に滝もとの遊女も大きくうなずく。

 いやいや、どっちがとんちんかんだ。たとえ相手がいなくても、こういう男は必ずほかの女と浮気をする。だが、彼女らにその理論は通用しない。二人にとっては浮気相手の存在そのものが許せないのだ。ほかに女を作ればまたその女を排除するまで。惚れた男の罪は見なかったことにする。この思考はまったくもって理解不能。

 勇次は説得をあきらめ、墨汁の入った硯と筆を二人に渡した。


「とりあえずお約束だから、な」


 遊郭には浮気した男の顔に女が墨を塗りたくり、皆で笑いものにするというお仕置き方法もある。これで二人の気が収まるとは到底思えないが、ひとまずはこの場を鎮めたかった。というのも昼見世を開ける昼九ツ(正午)が迫っていたからだ。


「じゃ、熊さん、あとはよろしく。しっかり馬鹿息子の尻拭いしといてくれよ」


 熊次郎にこの場を預け、勇次は踵を返した。


「玉虫、昼見世開けるまでには帰って来いよ」


 仕事をさぼればどうなるかということくらい彼女にもわかっているだろう。それ以上は何も言わず、勇次は総髪のおくれ毛をなびかせ、さっさとその場から離れた。


「熊さん、良かったな。あんたの息子、去年までだったら初雁城のお堀に沈められてたぜ」


 残った甚吾郎が熊次郎の肩に腕を回し、がっちり掴む。そう、今はもう、お堀がない。

 江戸幕府最後の将軍徳川慶喜が大政奉還したのは昨年十月のこと。新政府「明治政府」が発足したのは今年の年明け早々だから、それからまだ一年も経っていない。その間に川越藩主松平康英は幕府に見切りをつけた。新政府軍に恭順することで藩論をまとめ、老中を辞したのだ。

 上野戦争、飯能戦争、会津戦争……。数多あまたの血が流される間に武蔵国「江戸」は「東京」と改称され、首都として定められた。元号は慶応から明治に改元。十月には天皇が京都から東京へ入るとともに、政府機関のほとんどが東京に遷された。

 怒涛の一年を経て世情が目まぐるしく変容する中、川越藩はひたすら新政府に恭順の意を示すべく「初雁城」の愛称で親しまれる川越城の堀を埋めた。その甲斐あって、城下町の戦火は回避されたのだ。


「ま、お堀がなくなりゃ代わりに遊女よながわか伊佐沼って手もあるがな」


 二丁のリボルバーを懐に隠し、甚吾郎がせせら笑いを浮かべる。こんな冷血漢が次期惣名主なのだ。朱座遊郭だけはけして敵に回すまいと固く心に誓う熊次郎であった。






「なんだい、その川越芋みたいな顔は」

「誰が川越芋だ」


 帰楼した勇次の頬には川越芋の皮のような色をした手形がくっきりとついていた。

 その彼を待ち構えていたのは、姉のお亮——中見世妓楼『邑咲屋』のしゃだ。放蕩三昧で留守がちな妓楼主の亭主に代わって邑咲屋を切り盛りする元花魁おいらんの女将である。


「今月はどこの女に振られたんだい。大仙波かい? 扇河岸かい? それとも板橋か千住かい? まぁ、どこの女でも男でもいいからとっとと冷やしてきな。半十郎さんがお待ちかねだよ」


 毎月毎月あっちこっちの女に手ぇ出すから愛想尽かされるんだ、まったく借金ばっかり増やしやがって……などとぶつくさ文句をたれながら、弟には反論する隙をまったく与えず客間へと引っ込んでいく。

 勇次は舌打ちしながら姉の後ろ姿を苦々しく見送った。誰が寝ず番明けの朝っぱらから遊里なんか行くものか。それに振られたのは先月の話だ。ひと月も経たないうちに他の女に振られるわけがない。とも言いきれないが今回は断じて違うと川越の中心で叫びたい。


 手拭いを冷やし、頬に当てるとピリリと鋭い痛みが走った。遊女同士の争いの際、どさくさにまぎれて引っかかれたらしい。

 最悪……と呟き客間の戸を引くと、まず女衒ぜげんの半十郎の大きな背中が目に入った。その後ろには見知らぬ女が三人いる。新しい女を売りに来たであろうことはすぐに察しがついた。


「おう、勇次、しばらく見ねぇうちに…………ひでぇ顔になったな」


 眉間に山脈みたいなしわを寄せ、半十郎は「色男が台無しじゃねぇか」と顔を振った。

 半十郎は朱座遊郭の一角に住む女衒の一人だ。邑咲屋と懇意にしていて、上玉は優先的に斡旋してくれる。何を隠そう、お亮・勇次姉弟を拾い、邑咲屋に売った張本人だ。

 勇次は手拭いを頬に当てたまま半十郎に軽く会釈をした。不機嫌そうに胡坐あぐらをかき、顔を隠すようにして視線を落とす。


「たまたまですよ、たまたま。で、今日はなんです? 川越芋なら食い飽きましたぜ」


 連れてこられた女たちをちらと見遣り、わざとらしく溜め息をつく。先月身請けされた遊女の補充として頼んでおいた遊女候補だが、これほどまでに不器量が並ぶのも珍しい。


「たまたまだよ、たまたま。今回は熊谷まで足を延ばしたんだがな、上玉はみんな熊谷と本庄に取られちまった」


 おし藩の熊谷と天領の本庄は廃娼ではないため、公許ではなくとも割と大っぴらに遊里は栄えていた。対して川越藩は廃娼藩を謳っている。『かくしざと』として秘匿されている朱座遊郭とは大違いだ。


「維新とやらでお侍さんの客が減っちまって、ここのところ景気があんまりよくないんですよ。わざわざ熊谷まで行ってもらってなんですが、申し訳ないけど今回は一人しか買えませんね」


 お亮が同情の眼差しを女たちに向ける。自分が辿ってきた道を重ねているのだろうか。彼女らはこの先の己の運命に不安を抱き、おびえている。それはそうだ。よほどの子供でない限り遊郭に売られるということがどういうことなのか、説明するまでもない。

 彼女らは身内が犯した罪でえんさせられた、いわば奴刑しゃつけいで遊女にされる身だ。奴刑を申し付けられた者は人別帳から除外され、制外者にんがいものとなる。制外者は遊女や役者などが該当するのだが、かくし閭の住人は皆制外者とされていた。中には例外もいるが、それはまた別の話に譲る。


 話を戻す。遊女は遊女でも、きん舟楼しゅうろうのような大見世は花魁しかいないから、禿かむろから育てるため大人の女は基本採用しない。だからまずは中見世から当たっていく。中見世で採用されなかった女は小見世へ。それも駄目なら切見世、それでも採用されなければ役人の慰み物となる。 


 ——どの道、がいに身を沈めることになるんじゃねぇか。


 勇次が冷めた視線を三人に送る。同情などするだけ無駄だ。


「おう、おめぇら、全部脱げ」


 早速見立てに入るため、半十郎は女たちに全裸になるよう命じた。当然躊躇する。誰も帯に手をかけようとはしない。そんなことは想定の範囲内だ。いつもならここで番頭新造とり手婆を呼び、無理やり脱がせるのだが、この日は違った。


「いや、そのままでいい。もうすぐ昼見世が始まっちまうからゆっくり見立ててる暇はねぇ」


 勇次は腰を上げ、女たちのそばに膝を詰めた。

 まず目にかかったおくれ毛をかき上げてから、左手で手拭いと頬を押さえ、右手で一人目の女の顎をくいと持ち上げる。彼の長いまつ毛が触れそうになるほど顔を近づけられ、女の表情がこわった。

 あまりにも端正な目鼻立ちに気恥ずかしさが込み上げ、無意識に目を伏せる。


「下向くな。俺のを見ろ」


 厳しい口調にびくっと肩を震わせ、女は再び勇次を直視した。

 これほどまでに眉目秀麗な男に出会ったことがあっただろうか。江戸で人気の歌舞伎役者などはこのような風貌なのか。歌舞伎を見たことのない彼女には比較対象が思いつかない。


「これじゃない」


 勇次はすっと手を放し、隣の女に近づいた。一人目の女は何が何だかわからず呆気に取られている。それに構わず二人目の女の顎に手をかけようとしたが、怯える女は咄嗟に顎を引いてしまった。

 彼も慣れたもの、右手を伸ばし、女の後頭部をがっとつかんで引き寄せる。一人目の女と同じように、彼女もまた勇次の美しさに魅了された。

 お亮と半十郎はその様子を黙ってじっと見つめている。いつものこととはいえ、勇次の見立てには恐れ入るばかりだ。どこをどう見て、何をどう判断するのかわからないが、彼が見立てた女は必ずといっていいほど売れっ子になるのだから不思議である。


「うーん、なんか違うな」


 二人目も勇次のお眼鏡には適わなかったようだ。残るはこの中で一番の川越芋、いや不器量……だ。今回は無しか、とお亮が天井を見上げる。半十郎もあきらめ、狭山茶をすすった。

 そんな二人の落胆をよそに、勇次は三人目の女の顎を持ち上げた。目を細めたり、見開いたりしながら女の瞳を様々な角度から見つめている。この女も例に漏れず、勇次の整った顔貌を間近にして目を泳がせ、鼓動をバクバクと脈打たせていた。そのときである。


「見えた!」


 勇次が突然、歓喜の声とともに目を輝かせた。

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