制外者 —にんがいもの― 巻の壱~燃えてなお尽きぬ想い

阿羅田しい

第一章 朱座(あかざ)遊郭

第一話 朝の遊郭街

 川越の海を越えてゆく——。


 それだけ書き残し、たつは出ていった。

 あれから二年半。奴は今どこで何をしているのか、それともすでに仏さんになってしまっているのか。そんなことは知るよしもないが、坂本龍馬という名を聞くたびにあの書置きを思い出しては、むかっ腹が立って立ってしょうがない。


 ——くそっ、邑咲むらさきを俺に丸投げしやがって!


 パンッ……! 引き金を引くと同時に、乾いた銃声が朝の遊郭街に響き渡る。ひぃぃぃっと情けない悲鳴に、何ごとかと見物人がわらわら集まってきた。

 それもそのはず、あか遊郭の広小路で派手に銃をぶっ放せば、乞胸ごうむねの見世物かなにかと好奇心をそそられるに決まっている。

 野次馬などは眼の端にも入れず、勇次は銃を下ろして弾の行方を確認した。弾丸が開けた穴は標的よりも大幅に右へとずれている。


「ちきしょう!」


 吐き捨てるその肩に手を置いたのは、大見世『きん舟楼しゅうろう』の若旦那・甚吾郎じんごろうだ。


「勇次、気が乱れてるぞ。このリボルバーは坂本龍馬っていう土佐もんが愛用していたのと同じ短筒だ。もっと扱いは丁寧に……」


 勇次の鋭い眼光が、きっ…と甚吾郎を睨みつけた。


「坂本龍馬? 俺の前でその名を口にするんじゃねぇ。反吐へどが出る」


 坂本龍馬など土佐の下士ではないか。幕府の家老が代々藩主を務めてきた川越藩の民が、土佐の田舎侍なんかの真似事をするとはなんたる恥さらし。どうせでかいことをほざくなら、坂本龍馬と同じく世界を目指せと言いたい。


 ——だいだい川越の海ってなに?


 そもそも川越に海はない。

 百歩譲って、陸を越えて武州世直し一揆に合流したのだとしたら……。


 ——ばっっっかじゃねぇの。


 遡ること二年半前の六月十三日。幕末混乱期の物価上昇に端を発し、「世直し」と銘打った百姓一揆は武蔵、上野、下野、相模、常陸の関東五ヵ国に及ぶ窮民を巻き込み、たった七日間で十数万もの大集団に膨れ上がった。

 にもかかわらず十九日にあっけなく鎮圧され、壊滅。川越の城下町などへは、堅固な守りに阻まれ一歩たりとも入ることが叶わなかったのだ。


 ——一揆が終われば夢から醒めて、とっとと帰ってくると思ってたのに……。


 下唇を噛む勇次の心情は計り知れないが、なだめるように甚吾郎はその腕を取った。


「わかったわかった。ほら、もういっぺん構えてみろ」


 促された勇次がリボルバーに左手を添える。そこは素直に従うらしい。お隣さんのよしみで子供の頃から面倒を見てもらっている甚吾郎ならではか。


「耳のあたりを狙ったつもりなんだがな」

「耳よりも足を狙え。そうすれば逃げられねぇ」


 耳はほんの少しでもずれると顔に穴が開くからやめておけ。そうか、なるほど。いいか、左の肩に力が入りすぎだ、もうちっと下げろ。こうか? そうそういい感じだ……などど話し合っているうちに勇次の気も落ち着いてきたようだ。

 構えの体勢のまま、すうっと息を整え、瞼を閉じる。三回ほど浅く呼吸を繰り返したのち、ゆっくりと眼を開け、標的を見据えた。


「よし、引け!」


 甚吾郎の合図より一瞬早く勇次の人差し指は引き金を引いていた。再び遊郭街に乾いた銃声が鳴り響き、もはや人の声かも判別しかねる悲鳴が上がる。

 見ると弾は狙い通り、標的の股座またぐらに命中していた。先程より増えた黒山の人だかりからは、恐怖と歓喜とが入り混じったどよめきが沸いている。


「やったぁ!」


 わらしのようにはしゃぐ勇次を甚吾郎が呆れ顔で見つめた。なんて男だ。少しコツを教えただけですぐに体得してしまうとは。


「よしっ、じゃあ次はどこ狙おっかな」

「もう勘弁してくれ……後生だから……」


 勇次が再び構えると、的の方から悲痛な嘆きが聞こえてきた。


「おいおい、的がしゃべったぜ」


 にやにやしながら勇次は人差し指を引き金に置いた。戸板にくくりつけられたふんどし一丁の男は真冬だというのに冷や汗だらだら、ついでに涙と鼻水もだらだらな顔面蒼白で懇願する。


「頼むよぉ、勇次ぃ。もう浮気なんてしねぇから。な、俺たち、これからも仲良くやってこうぜ」

「仲良く? だったらなんで浮気なんかしたんだよ」

「そ、それは……つい魔が差したっていうか……な、あるだろ? そういうこと」


 すっ…と勇次の眼が冷めた。


「そうだな、そんなこともあるかもな。けどよ、おめぇ、ひとつ大事なことを忘れちゃいねぇか?」


 大事なこと?と男が止まった瞬間を勇次は見逃さなかった。


「ここが遊郭だってことをよ!」


 言うが早いかリボルバーから発射された弾丸は男の左耳すれすれを掠め、戸板に小さな風穴を開けた。さらに大きな歓声が沸き起こる。男は過呼吸寸前で声も出ない。

 頬を紅潮させた勇次が振り返る。


「甚さん、見た? 俺ってすごくない?」


 はいはい、と甚吾郎は呆れ気味にうなずいては見せたものの、実は密かに感心していた。


 ——こりゃ、やべぇおもちゃ与えちまったかもな。


 あどけなく笑う勇次と苦笑いの甚吾郎。大の男二人が笑い合っている向こうで、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を振り散らかし叫ぶ男がいる。


「この人でなし! 忘八ぼうはち! 恥知らず!」

「忘八ねぇ。俺らけいせいにとっちゃ最高の誉め言葉だな」


 勇次と甚吾郎、二人顔を見合わせまたもけらけら笑う。


「勇次、てめぇ、虫も殺せねぇような顔しやがって、やることがえげつねぇぞ」

「そうなんだよ、俺は優男だから虫は殺せねぇが……」


 言いながら勇次は再び銃口を男に向け、引き金に人差し指を引っ掛けた。


「虫けら野郎なら殺せるぜ!」

「やめてくれぇぇぇぇぇ!」


 男が絶叫したそのときだ。チャラチャラと雪駄せったをけたたましく鳴らしながら真っ青な顔した毛むくじゃらの中年男がすっ飛んできた。


「ゆっ勇次! うちの馬鹿息子が浮気したって本当か?」

「遅せーよ、熊さん。もう少しであんたの馬鹿息子に風穴開くとこだったぜ」


 勇次に「熊さん」と呼ばれたのは香具師やし「黒駒組」の元締め・熊次郎。さっきから射撃練習の的にされている男・小太郎の父親でもある。

 息子の悲惨な状況を目の当たりにした熊次郎は慌ててその場で土下座した。


「許してやってくれ。この通り、俺からも謝るから。頼む、命だけは取らねぇでくれ」


 勇次が甚吾郎へ視線を送る。甚吾郎はふうっと軽く溜め息をついた。


「なぁ、熊さん。あんただって遊郭の掟を知らねぇわけじゃあるまいよ。俺らだってなにも好き好んでこんなことしてるわけじゃねぇんだぜ。あんたの倅・小太郎が『邑咲屋』の玉虫の馴染み客だってのは知ってるよな?」


 うんうんとうなずく熊次郎に畳みかける。


「その小太郎が、しょう『滝もと』の女郎と寝やがったんだと。ここ朱座の惣名主を任されてる金舟楼としても黙って見過ごすわけにゃいかねぇんだわ」


 甚吾郎が言い終えると、今度は勇次が腰をかがめて顔を近づけ、薄ら笑いを浮かべた。


「うちの玉虫がそらもう泣いて泣いて仕事になんねぇのよ。これじゃ商売あがったりだ。この落とし前、どうつけてくれんだ?」


 しゃがみ込み、長いまつ毛を熊次郎のこめかみに寄せ、低くささやく。


「遊郭で浮気はご法度。殺されても文句は言えねぇんだぜ」


 その声はやくざをぞっとさせるに十分すぎるほどの冷気をまとっていた。


「うちがちゅうだからって舐めてんじゃねぇぞ」


 勇次の顔から完全に笑みが消えた。切れ長の涼しげな目元の奥は氷の光を放っている。この男は相手が香具師だろうが博徒だろうが容赦はしない。

 遊郭は町方・寺社奉行の管轄外、殺しがあっても知らぬ存ぜぬの治外法権区域だ。もっと言えば、非公許の朱座遊郭は『かくしざと』という特殊な位置付けであるがゆえ、朱座遊郭そのものが存在しないものとされている。

 当然そこにある全てのものも、たとえそれが人間であっても、だ。


「俺ら朱座のもんはもれなく制外者にんがいもんだからな」


 制外者にんがいもの——それは宗門人別帳(戸籍)から外れた者を指す言葉。あらゆる制約の外に置かれ、社会に存在すること自体を否定された者たち。

 それの意味するところはつまり、その身の上に何が起こったとしても闇に葬られてしまうということ。だからこそ混沌を避けるための秩序を守る掟が必要なのだ。

 だとしても、このまま我が子が殺されるのを黙って見ているわけにはいかない。


「あんな馬鹿でも、俺にとっちゃ可愛い息子なんだよ。息子をるなら代わりに俺をってくれ」


 熊次郎は頭を地面にこすりつけ、涙ながらに訴えた。だが、甚吾郎の冷淡な声が一縷の望みを打ち砕く。


「勇次に親子の情に訴えても無駄だぜ。何しろこいつはなぁ……」

「甚さん」


 勇次が甚吾郎の言葉を遮った。そして静かに立ち上がり、上から熊次郎に一瞥を浴びせる。もはや息子の命はあきらめるしかないのか——熊次郎が観念しかけたときだ。


「もういいや」


 んっ?と顔を上げる熊次郎に勇次がにこっと微笑んだ。親子の情にほだされたのか、ついさっきまでの冷酷な表情が一変している。


「思えば小太郎とはガキの頃よく遊んだ仲だもんな。それに、熊さんとは揉めたくねぇし。熊さんに免じて許してやらねぇこともねぇ」


 ほーっと熊次郎が肩を撫で下ろす。だが、話はまだ終わったわけではない。


「いくらだ?」

「さっすが熊さん、話がわかるぅ」


 指をパチンと鳴らして勇次が満面の笑みを浮かべた。熊次郎は早速交渉に入る。


「十両でいいか?」

「えー、少なっ。うちの玉虫は月にもっと稼ぐぜ」


 徳川幕府消滅に伴い武士の食い扶持は減少の一途をたどるばかり。彼らの登楼がめっきり減った昨今、ただの部屋持ちがそんなに稼げるわけはない。

 という反論を飲み込み、熊次郎は拝むように手を合わせた。


「年末は何かと物入りなんだよ。その代わり、いしわら宿じゅくめしもりおんな、今月分はただで廻してやるから、それでなんとかチャラにしてくれねぇかな」


 遊郭のおとこは同じ遊郭内で遊んではいけないという厳しい掟があるので、よその遊里で遊ぶしかない。

 児玉往還の出入り口にある川越城下西北端の石原宿は、旅人相手の宿場である。が、中にはお上に内緒で飯盛女を抱えている旅籠はたごもあった。朱座遊郭の男衆はその石原宿か、または城下南の外れ大仙波新おおせんばしんでんまで遊びに行くのが大方だ。ちなみに吉原の男衆は千住宿の飯盛旅籠で遊ぶらしい。

 勇次はふうと小さく吐息を漏らした。


「しょうがねぇな。うちのわけ全員分だぞ。一人二切ふたきり。これ以上は譲れねぇ」


 邑咲屋の若いは若頭の勇次を入れて十一人、石原宿の飯盛旅籠はひときり(約一時間)二〇〇文だから……と頭の中で算盤そろばんを弾く。まぁ、いいだろうと熊次郎が大きくうなずいたので、ひとまずここで手打ちとなった。

 なんだかよくわからないが野次馬どもから拍手が沸き起こる。そのうちのひとりが勇次の足元に一文銭を六枚落としていった。


「お兄さん、なかなか面白い見世物だったよ」

「俺は乞胸じゃねぇっての」


 大道芸人と間違えられていたらしい。しかも六文では夜泣き蕎麦の一杯も食えやしない。

 銭を拾い、近くにいた勧進かんじんの鉢にチャリンと入れてやる。それから甚吾郎に借りていたリボルバーを手渡した。甚吾郎が怪訝そうに見返す。


「勇次、おめぇ、持っててもいいんだぜ。俺はもう一丁持ってるからな」

「いや、いい。持ってたら無駄に使いたくなっちまうだろ」


 頭のいい男だ。甚吾郎はまたもや感心したようにふふんと鼻を鳴らす。必要な時にはいつでも貸してやるぞ、と微笑み、踵を返したときだ。

 ぞろぞろと散らばっていく野次馬の波に逆らうようにして、がこがこと駒下駄を鳴らして駆けてくる真っ赤な長襦袢ながじゅばん姿の女が見えた。勇次が甚吾郎の肩越しにひょっこり顔を出す。


「おう、玉虫、安心しな。おめぇの恨みは晴らしてやったぜ。これでおめぇも心置きなく仕事に専念でき……」


 びったーーーん! 玉虫は勇次の横っ面を思いっ切り平手打ちした。

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